7月も半ば、夏も盛りの頃合いとあってもロンドンは基本的にそう暑くはならない。
むしろ天候と気温によっては肌寒くすらあるのが、この英国の社交期。
窓から身を乗り出してみれば、普段と変わらない曇天が世界を覆い隠している。
灰色の空模様を見上げて、名前はため息をついた。
せっかく気候の良い季節だというのに、こうも空が渋い顔をしているようでは気分も一向に上がらない。
すごすごと大人しく自室へ身体を戻し、お気に入りのソファへ身を横たえた。
朝咲の薔薇の色をしたベルベットソファがぎしり、と鈍い音を立てる。
厚い生地だというのに、この中途半端に肌が粟立つ気温ではそう不快ではない。
これがフランスー、南仏のニースや紺碧のコート・ダ・ジュールあたりならば、きっとこんな厚手のソファには座っていられないだろう。
そんな些末な事案がぼんやりと暗灰色の脳隅を過ぎって、やがては持て余しすぎた余暇に消えていった。
学生の頃は、夏が待ち遠しかったものだ。
花の装飾に包まれたドレッサーへ、空虚な夏に濁った目を向ける。
化粧箱の横にちょこんと佇む額縁の中には、在りし日の夏の思い出がキラキラと瞬いていた。
そうだー、
あれは確か、15歳の夏。
ニースの海岸線で同級生たちと海水浴をしていたところを、先生が写真に撮って下さったのだ。
夏らしく珊瑚があしらわれた金の額縁の内側では、そのまま時を止めた15歳の少女たちが水着を身にまとい、微笑んでいる。
南仏の瞳を灼くような陽光と紺碧の海岸線、冷たい海水が爪先を浸してゆく感覚、冷えた白ワインの刺激、それからー。
「......いけませんね。どうも感傷的になってしまって。」
シエルとの生活に不満があるわけではない。
むしろ、愛する弟との屋敷での生活は幸福ですらある。
しかし、時としてただ一人の女の子でいられた学生時代を懐かしく思うことがあるというだけの話だ。
全ては過去の話。
それは甘く眩ゆい記憶ではあるが、現在の自身を絡めとる力のない、ひと夏の残像なのだから。
パタン、と本を閉じるように、彼女は自身の美しい夏の思い出を再び額縁の向こう側にしまい込んだ。
ーコンコン、
再び厚手のソファに深く腰を据えたと同時、控えめなノックの音が鼓膜を震わせた。
その鮮明な角角しい音は、彼女を完全に現実に覚醒させるに相応しい働きをする。
何となく察しはついた。
壁掛け時計を見上げて、嘆息。
もうじきに時計の針は14を差そうとしている。
ピアノのレッスンの時間だ。
今日もあの意地の悪い執事にこっぴどく難癖をつけられながら好きでもない楽器を弾かねばならないのかと思うと、肩が重い。
のろのろとソファの向かい、瀟洒なテーブルに置きっぱなしにされていた楽譜を手にする。
しかしながらどれほどつまらないレッスンでえあっても、これもレディとしての勤め。
シエルに恥をかかせないためには必要な鍛練であると割りきって、名前は"どうぞ"と扉外へ投げかけた。
今にも鞭を振るおうかと、非の打ち所のない笑みを浮かべているであろう執事に向かって。
「失礼いたします、お嬢様。」
キイ、と僅かな軋音を立てて扉を押し開け室内へ足を踏み入れた執事に、名前は目を瞠った。
平素通り、薄い唇をわずかに吊り上げて美しい笑みを浮かべてはいるものの、その装いは確かに先週のレッスンまでとは違っていた。
漆黒の闇のような燕尾服はいつも通りであるが─。
無いのだ、この男が家庭教師の真似事をする際には必ず身につけている物が。
几帳面さを際立たせるように四角く目元を切り取るガラスのフレームが。
更には、喜々として持ち歩いている黒革の鞭もない。
明らかにレッスンをする気のなさそうな彼に向けて、ぱちくりと赤い眼を瞬かせる。
しまいには、手に握りしめていた楽譜がぱたりと支えを失って絨毯の上へ落ちていった。
「おや、ピアノの練習をなさるのですか?」
無造作に着地した楽譜を広い集めて彼女に手渡し、一つ微笑んでみせる。
ピアノの練習をなさる?
おかしな返答にとまどいつつ、名前はおずおずと口を開いた。
「あの......もうレッスンの時間でしょう?だって今日は火曜日ー、」
「レッスン......。お嬢様、先週申し上げたはずですが......、次週はお客様を迎える準備がございますので、レッスンは一週お休みにすると。」
まざまざと、先週の思い出が蘇る。
そうか、確かにそうだった─、
確か課題曲だった変ハ短調を指使いがなっていないだの音が固いだのとぼろぼろにけなされ鞭を振るわれ、むくれていた所でこの男が言い出したのだ。
"次週は坊ちゃんのお客様を迎える準備がございますので、誠に勝手ながらレッスンを一週お休みさせていただきます"
勝手ながら。
何が勝手なものですか。
むしろ毎週お休みをしてくれたっていいくらいです。
などと、密かに脳内で小躍りしたことは記憶に新しい。
自分としたことが、レッスンのお休みを見逃していたなんて恥ずかしい、と彼女は複雑そうに執事を見上げた。
「そ、そう、でしたね。私としたことが、うっかりしていて。」
「ええ、今週もレッスンがあるとお思いだったのでしたら、課題曲は既に仕上がっておられるのでしょう。来週のレッスンで更に完璧に弾きこなされるお姿を拝見するのが楽しみです。」
にい、と小馬鹿にしたように赤い瞳を細めて、彼はいやらしく口角を吊りあげた。
流し目がちに視線を投げるその姿など、矮小な彼女が意地を張ることを見透かし、またその虚勢をからかってやることを楽しみにでもしているようである。
どうしてこんなに意地悪なのでしょう。
幾度となく自らに問い、そして答を導こうとそれなりに思考を続けた議題ではあるが、それも彼が"悪魔であるから"という事実に帰結させざるを得ない。
ここで噛みついたら悪魔の思う壺と頭では理解しているものの、やはり短絡的にできている彼女は、彼の望み通りに虚勢を張ってしまうのであった。
「ええ、楽しみになさって。バッハもびっくりするくらい、完璧に弾きこなして差し上げます。」
にっこりと、彼の赤い双眼が細められる。
加虐的に笑んでみせた彼に負けじと微笑み返した名前ではあるが、内心では冷や汗をかきながら固く決心をした。
来週までにピアノの猛特訓をせねば、と。
「それはそうと、ぜひお嬢様にご覧いただきたいものがあってお伺いしたのですが、お時間はよろしいでしょうか?」
「私に?見せたいもの?......ええ、構いませんけれど。」
意地悪の応酬からの突然の誘いではあるが、どうせ暇を持て余していたところである。
いくぶんビックリしながらも、名前は頷いた。
レッスンがない以上、やることがない。
ふい、と何気なく窓の外へ視線を戻すと、変わらず停滞した曇りがちの空。
雨が降るのか晴れるのか、はっきりしない天候ではわざわざセバスチャンの誘いを断ってまで外に出掛ける気にもならない。
ああ、灼熱の太陽と、極彩色の鮮やかな景色が恋しい。
しまい込んだはずの南仏での思い出に再び脚をとられはじめる。
向日葵園でのお茶会、ピクニック、海水浴。
夏にしかできない遊びの大半を封じ込める空模様に再度ため息をついて、彼女は現実とセバスチャンに向き直った。
「何を見せてくださるのです?」
「─それは、ご覧いただいてからのお楽しみとしておきましょう。」
悪戯っぽく瞳を瞬かせ、口元に人差し指を置いて軽くウインクをしてみせる彼に、はて?と疑問を抱きつつ。
エスコートとして差しのべられた手を取る。
一体何を企んでいるのか皆目検討はつかないが、この閉塞的な夏の日の時間潰しとなるならば、彼に付き合うのも一興。
期待に満ちているとは言いがたい態度の彼女を連れた執事は、滞りなく名前の私室を後にした。
「こちらです。足元にお気をつけて。」
「あら、応接室……?一体何があるのですか?」
彼に導かれてたどり着いた先は、シエルが取引相手を迎える応接室であった。
普段から、ここには立ち入らないようにとシエルから言い聞かされている名前は、一瞬動きを止めた。
彼女とて、シエルから言われずとも商談を行うこの部屋には、女である自分が立ち入ることはタブーであるように常々感じていたのだ。
身を固くしてその閉ざされた門の前で立ちすくむ。
その様子にクスリと微笑み、執事は重い扉を開け放した。
門扉を開いた応接室は、静かに彼女が脚を踏み入れるのを粛々と待っている。
そっと彼に背を押されて、おずおずとハイヒールの爪先で客間の絨毯を踏み締めた。
未知の領域であった応接室は、造り自体はごく平凡であった。
少々よそ向きの派手な壁紙が張られているものの、室内の中心に据えられた大きな茶革のソファと、マホガニーのテーブル。
ありふれた調度品に囲まれたいかにも"商談用"らしい部屋。
しかし、その部屋の片隅に主張するでもなく存在感を消すでもなく佇む薄いガラスの洒落た水槽に、名前は大きく目を見開いた。
「!あれって、」
彼女の赤い瞳に、四角い水槽のきらめきが反射する。
背後に控えたセバスチャンがにこりと肯定した。
「ええ、アクアリウムです。」
「まあ!!すごい!!アクアリウムって、30年くらい前に流行したものでしょう?」
アクアリウム!
ぶわりと興奮がその肌を駆け抜ける。
大昔の話ではあるが、お父様が幼い頃にはこの屋敷でもいくつかアクアリウムを保持していたとタナカから聞いたことがある。
更に言えば、お父様は子供の頃にロンドン動物園にあったという巨大なアクアリウムを見たことがあると、教えて下さったことがある。
今となっては過去の遺物でしかなかったはずの小さな水槽を、名前はうっとりと眺めた。
水面はゆらりゆらりと、本物の海のように穏やかに揺れている。
硝子の底は海底の再現であるように珊瑚礁と白い貝殻が散りばめられ、その上を透明な小エビがひょっこりひょっこりと散歩をしていた。
数匹で群れを成して踊る魚たちは、いずれも赤や青、黄、と賑やかな色彩に満ちている。
ぶくぶくと泡の立ち込める向こう側では、まさしく夏の海辺が広がっていた。
更に、何かガラスに特殊なコーティングでも為されているのか。
ガラスの向こう側に広がる海の世界は、淡いアクアブルーに色づいている。
まるで、ニースの海辺のように。
「すごい......。とっても綺麗な色ですね......。」
「お気に召していただけましたか?」
「ええ、もちろん!とっても美しいです......まるで......」
「フレンチ・リヴィエラのよう、でございましょう?」
「!!」
フレンチ・リヴィエラ─、
フランスでは主にコート・ダ・ジュールと呼ばれる、彼女の思い出深いフランス南部を英国ではそのように呼ぶ。
どうして、とセバスチャンに視線を差し向けると、彼はにこりと微笑んだ。
「坊ちゃんがおっしゃったのです。アクアリウムを用意するように、と。」
弟のシエルは、ここ最近の姉の鬱々とした覇気の無さをしっかりと気取っていた。
無理もないことか、と年若い当主はここ数日、頭を悩ませていたのである。
思春期の大半をフランスの女子寄宿学校で過ごした姉は、自分とはいくぶん異なる感性を持っている。
シエル本人などは涼しく過ごしやすい英国の夏を気に入っているものの、姉の方は南国の風を感じさせる陽光煌めくフランスの夏に並々ならぬ思い出があるらしい。
彼女本人は弟に南仏での記憶を話したことはないものの、聡いシエルは私室に置かれた額縁の写真からおおよそのことを察することができた。
そこまで予測がつけば、後は執事に申し付けるだけで事が済む。
セバスチャンを呼び付け、「南仏の海を再現したアクアリウムを作れ」と命じたのが、昨日の話である。
「まあ......」
ここまでのいきさつを彼から聞いて、名前は瞬く間に目頭に涙を溜めた。
弟がこんなにも自分を想って、ここまで美しい南仏の海を見せてくれるなど、誰が予想したであろうか。
ぽつぽつ、と彼女の瞳からこぼれ落ちた雫がアクアリウムへ落ちて、水面に波紋を広げてゆく。
水上を叩くその煌めきが、明るいマリンブルーに閉じ込められた。
こんなに幸せなことがあってよいものか。
こんなに美しい水槽があってよいものか。
滴る涙は、当分止みそうにない。
「シエル......、シエルはどこです?お礼を言いたいのですけれど、」
「坊ちゃんは先ほど、昼寝をすると宣言されました。夜まで絶対に寝室に人を入れないように、と。」
「ええ......!そんな!」
今すぐに弟に会って、その華奢な身体を抱きしめたい名前は、じれったさに手を握り、小刻みに身体を揺らした。
なんと間の悪い─、
そもそも昼寝など平素のセバチャンなら許すだろうか。
むう、と頬を膨らませていると、彼の手袋に覆われた手が伸びてくる。
空気と不機嫌に膨らんだ頬を軽く押さえて萎ませて、眉を下げて笑ってみせた。
「坊ちゃんも照れ臭いのですよ。どうか、ご容赦ください。」
照れ臭くて寝てしまうなんて。
クスリと頬が緩んでしまえば、そこから先は、じれったさはアクアリウムの泡と消えてしまった。
伯爵とはいえ年相応の少年らしさを残した弟の寝顔を思い浮かべて、幸せをマリンブルーの水槽に閉じ込める。
硝子に隔てられた壁の向こうでは、鮮やかな青い魚がくるくると自在に水中を闊歩していた。
その姿が弟とどこか似ているような気がして、もう一度、によによと微笑をもらした。
「そういえば、アクアリウムって手入れが大変なのでしょう?だから30年前も流行が廃れてしまったと聞きましたけれど……今ではアクアリウムを持っていらっしゃるお屋敷は数えるほどしかないそうですし。」
「ご安心ください。私が責任を持って手入れをいたしますので。」
悪魔がそういうならば、問題はないのだろう。
即ちそれは、セバスチャンがアクアリウムの管理を受け入れたということでもある。
シエルの命令である以上は彼が水槽の維持を断ることは決してないとわかってはいるが、忙しいセバスチャンが自分のためにアクアリウムを維持すると考えると、それもまた彼女に幸福を抱かせるのであった。
それは、弟への感謝と愛情とは別ベクトルの幸福。
きっと、今世界中で一番幸せなのはこの自分だ。
胸に灯る真夏の太陽に似た暖かさを抱いて、名前は瞳を閉じた。
夕食の頃になって、長い長い昼寝から覚醒したシエルは青い瞳をこすりながら階下に下りてきた。
待ち構えていたように広間で満面の笑みを浮かべる姉の姿を確認し、バツの悪そうな表情を浮かべて目線を逸らす。
落ち着かないとでも言わんばかりにズボンの裾にあしらわれたリボンを手で弄んでいる様など、やはり年頃の男の子なのだと、名前は微笑ましく思った。
「シエル、とっても素敵なものを用意して下さってありがとうございました。」
すごく嬉しかったです。
続けて言った姉に、更にシエルは目を逸らす。
そうして彼はリボンを結んだり解いたりと手の動きを早めながら、くるりと姉から背を向けた。
「何のことです?僕は客人を迎えるのに一つインテリアが欲しかっただけです。」
そっけない言葉とは裏腹に、少年の小さな耳は真っ赤に熱を発している。
まあ、本当に恥ずかしがり屋さんですね。
言葉にこそしなかったものの、そんなことを心のうちで呟いて名前は背を向けるシエルの頭をそっと撫でた。
わざわざアクアリウムを応接室に設置したのも、こうして言い訳がつくからだったのであろう。
そんなことを考えると、弟が愛しくてたまらない。
「ねえ、シエル。それでも姉さんは嬉しかったのですよ。」
そうですか。
一言だけ帰ってきた言葉すらも、耳端と同じく赤みを帯びているような気さえする。
すっかり顔も見てくれなくなった弟の手を握って、再び感謝の気持ちを口にした。
繋がれた手と手から、高揚する夏の鼓動が伝わるように、と。
(アクアリウム/ciel , sebastian)