「そうふて腐れた顔をなさらないでください、お嬢様。」
そう言って、執事は彼女を寝台の上へ下ろした。
ピンクと金のストライプの壁紙が、彼らを優しく包み込む。
17歳、本来であれば立派に一人前のレディとして扱われるべき女性の私室としては、幾分少女すぎる甘い壁紙。
普段から執事はこの壁を彩るファンシーさが気に食わないと眉をひそめるのだが、この夕刻は壁には見向きもせず、名前の足下を見つめていた。
執事が上品な深い青のハイヒールを丁寧に脱がせ、するりと白い足が姿を見せると、途端に彼女はシーツの上へぼふん!と横たわる。
同時に、汚れ一つないシーツにシワが広がった。
その少し乱れた白地の上で、名前は一言すらも発することなく窓際を向いてしまった。
更にはずず、と厚手のブランケットを足元から引きずってすっぽり頭まで被る。
まるで彼と一切の言葉を交わす気のない態度には、室内の装飾を任された薔薇たちも閉口しているように見えた。
そしてその閉口ぶりは、靴をベッドサイドへ丁寧に並べた執事とて同じである。
「お嬢様、名前様、」
「......」
「私とて嫌がらせにあのようなことを言ったのではありませんよ。もちろん、坊ちゃんも。」
「......」
「私も坊ちゃんも、貴女の身を案じているのです。」
「心配など、必要ありません。」
小さな小さな、そしてどこか鼻にかかったような声がブランケットの内側から控えめに届く。
しかしその声音にはどこか、矜持を傷つけられた騎士の恨み言のような響きが混じっているようにも思えた。
いつになく落ち込んでいるらしい彼女の身が、ブランケットの内側でもぞもぞと動く。
小刻みに震えている華奢な肩は涙を誘うほどにいじらしい。
平素は穏やかながらも春の日だまりのように明るく快活な彼女が、さめざめと冷たい涙を零している様を、執事は愉快そうに眺めていた。
なかなかに悪くない。
満足げに口角をつり上げる姿は、どこからどう見ても悪魔そのもの。
一種の憐憫すらも胸に抱いて、セバスチャンは慈しむようにガーネット色の布地に包まる名前の頭をゆっくりと撫でた。
さらりと指股を撫でる髪の感触が愛おしい。
手袋に覆われた指を通り抜ける度に香る甘く清潔なシャボンは、彼が何百という種を嗅ぎ分け、吟味し、最も名前の髪質と身体にぴったり合うと判断した唯一の最高級品。
やはり自身の見立ては確かである。
流れる髪の指通りの柔らかさと、くどいとすら言えるシャンプーの甘い残り香に満足げに頷いた。
「さあ、お嬢様。あまりお泣きになると目が腫れてしまいますよ。」
このような事を言っておきながら、彼女が涙をひっこめる事をまるで期待していない彼は、衣装棚を開けた。
ギイ、と上質な木の軋む音と共に、横開きの戸がゆっくりとその蝶番を開く。
そして、薄暗いワードローブの内から名前が愛用している白絹のネグリジェを取り出し、セバスチャンはにこりと彼女に向き直った。
「本日はもう入浴を済まされて、屋敷でごゆっくりお過ごしください。夜会への調査は私共で向かいます。お嬢様は何もご心配になることはありませんよ。」
ゆっくりとベッドサイドに跪き、彼女の機嫌取りをするようにブランケットからはみ出した右手の甲にキスをする。
こうまでにセバスチャンが彼女に対して甘い動作を繰り返すことは珍しい。
日常であればせいぜいが必要以上に顔を近づける程度で、それも名前が“キスをしてもらえるかもしれない“と淡い期待に頬を染めた瞬間にふいっとしたり顔で身体を離してしまう。
そうこうしているうちに、脳内がお花畑状態の彼女を嘲笑うようにどこかへ去ってしまうのだ。
その手厳しいセバスチャンが手の甲とはいえ彼女にキスを送り、慈しんで髪を撫でるなど、通常の名前ならばゆるゆると頬をだらしなく下げてにやにやしているに違いないのであるが、今日ばかりは喜ぶ気分にないらしい。
尽きることのない悔し涙は柔い頬を痛々しいまでに濡らし、くっきりと涙の筋が刻まれてしまっている。
鼻をすする濁音がいやに大きく室内にこだまする。
セバスチャンは苦笑して立ち上がり、レースのネグリジェを白いスツールに置いてブランケットに手をかけた。
「お嬢様、」
「……」
「可愛らしいお顔を見せて、」
するりと彼の大きな手によって剥がされたブランケットの下で、彼女ははっきりと瞳に怒りを燃やしてその紅茶色の瞳孔を睨みつけていた。
垂れ目がちの瞳であっても、その内側に灯る憤懣が見て取れる力強い視線。
そうでありながらもしとしとと目尻からこぼれ落ち続ける水晶の雫と震え続ける身体には、悪魔はゾクゾクと背筋に快感を走らせた。
彼の美的感覚は人間とは大きくズレがある。
周囲の人間は名前の穏やかな笑みを愛らしいと言うが、そんなものは彼にとっては取るに足らない表情筋の運動程度の意味しか持ち得ない。
そうっと、“可愛らしい“名前の背に手を差し入れて上体を起こし、濡れた頬に整った顔を寄せる。
悪魔の手が自身の背に回されると、彼女はぎゅうと瞼を閉じて何かに堪えるように身体を硬直させた。
しかし、セバスチャンは彼女の僅かながらの嫌がる素振りすら目につかなかったように、その薄い唇をつるりとした頬に滑らせる。
男性の物である割にはかさつきのないそれがフェイスラインをするするとなぞる快楽に流されぬよう、再び彼女はぽってりとした唇をひき結んだ。
「ああ......貴女が永遠に涙を流し続けることができれば良いのに......、大人しくガラス棚に飾られているだけの機械人形ならば、私は貴女を......」
甘い言葉の続きは、誰の耳に入ることもなくかき消えた。
パチン!と大きく響いた頬を張る無粋な音とその衝撃。
セバスチャンは幾分驚いたように赤みがかった瞳を見開いて、自身の頬をさすった。
しかし彼の腕の中でゼエハァ、と肩で息をしながら掌を奮わせている名前の姿を捉え、にやりと口角がひきつり上がる。
じんわりと熱を持つ頬は、彼女が叩いた手の平の形にわずかに赤らんで、一目みて“殴られた“と判別できた。
悪魔であっても、物理的に身体がダメージを受けると多少なりと痛む。
彼は恍惚とした表情で張られた左頬を手袋越しになぞり、その美しい痛みを噛み締めた。
「おや、お気に召しませんでしたか?」
意地悪く瞳を細めて問い、音もなく彼女から身体を離す。
彼が離れた瞬間、ずるっと暖かなベロア素材のブランケットが名前の手によって手繰り寄せられた。
彼女はぎゅう、とその優しい肌触りの生地を抱きしめて、恨みがましくセバスチャンを睨みつける。
そして、憎々しげに言い放った。
「そうやって私をからかって遊んでいるんでしょう?おかしな慰めはいりません。」
“向こうでシエルの悲鳴が聞こえます。さっさと私の部屋から出て行きなさい“
ぷいっと子供のようにそっぽを向くその姿にもはや身体の震えはなく、涙の筋もうっすらと擦れて消えかかっている。
どうやら美しい涙はすっかり止まってしまったらしく、セバスチャンは興冷めした気持ちを隠して端正な顔に笑みを貼付けた。
「では、失礼いたします。くどいようですが、くれぐれも本日は屋敷にいらっしゃいますよう─、」
「ふん、シエルをしっかり守るのですよ。あの子に傷一つでも付けてご覧なさい。その減らない口をリボンで縫い付けてやりますからね」
御意。
もはや、通常通りの態度を取り戻した彼女に興味はない。
黙って泣いて、うち震えていれば精一杯に可愛がってやったものを─、
面白くない気分をひっそりと嘆息に吐き出して、彼はレースに彩られたネグリジェをわざわざ名前の隣に置いた。
革靴の床を踏み締める音には何の未練も憐憫も愛情もなく。
やがて背の高いシルエットが部屋の入口で彼女に向けて一礼した頃には、彼の頬に刻まれていた赤い手形はすっかり消えてしまっていた。
ギイ、と扉が丁寧に閉められる。
金のつる草の装飾があしらわれた扉がすっかり閉じたのを見計らって、名前は涙をすっかり拭い去り、鼻を鳴らして執事の置いて行ったネグリジェを見下ろした。
ふわふわと愛らしい上品なレースに縁取られたそれはとろみのある生地で、毎晩彼女に心地のよい眠りをもたらす愛用品。
しかし、この時ばかりはその"愛用品"を店から見繕ってきたのがあの執事であったことを思い出し、腹立たしさに包まれていた。
「誰がこんなもの、着るものですか。」
着替えに使用人の手が無いのは痛い。
しかしコルセットは既に着けているし、後はドレスをワードローブから見繕って化粧を直すのみ。
ぴょこんとベッドから飛び降り、衣装棚を再び開いた彼女の横顔には、決意の文字が刻まれているように思えた。
力強く瞬くガーネットの瞳はじっくりとドレスを吟味して、すっくと伸ばされた背筋はしっかりと彼女の身体を一人で支えている。
“シエルは若いからピンクがいいわね。せっかくだから丈も短くする?“
“あー、そりゃーかわいいねー、ピンク。はっはっはっ“
“想像するな!やめんかっ!“
広間から聞こえる楽しげな声に背を向けて、名前は着々と準備を整えつつあった。
大きく取られたガラス窓から夕日の光が差し込んで、彼女の横顔を赤く照らしてゆく。
時刻は午後16時。
約束したリデル家の御者が迎えにくる時刻まで、残り一刻。
ともすれば危うい決意を抱いた少女の瞳に重なる夕陽はどこまでも赤く、薄れた血痕のような緋色を帯びている。
よもや彼女が一人、夜会に飛び出してゆくなどとは考えもしていない彼らは、広間で懇々と若き伯爵にダンスのステップを教え込んで夕暮れのひと時を消費するのであった。
(傷つけるように愛して/Book of Jack the ripper ]U)