エリザベスが髪を編んでくれた。
ポーラに編み方を教えてもらったのだと言って、目をキラキラと輝かせて"お義姉様の髪も結ってあげるわ!"とそれはそれは嬉しそうに名前の髪を触り始めたのがつい一時間ほど前の話。
そして約60分の奮闘の後、彼女の黒みがかった蒼い髪はきっちりと後ろ頭の低い位置で一本に編み込まれていた。
頑張りすぎたか、エリザベスの髪を飾るリボンはよれてしまっていたが彼女本人は出来映えに大満足らしい。
"ほら、可愛いでしょ"ところころと笑う彼女にピンク色の鏡を差し向けられて見てみれば、なるほど普段とは雰囲気が変わって何となく可愛いような、そんな気がして頬を染めてしまう。
後ろで一本の三編みに纏めると、自分がどこかガヴァネスのような理知的な女のように見えて、名前はにこりと照れくさそうに微笑んだ。
年頃の従妹に礼を言うと、"お義姉様かわいー!"とむぎゅうと首のあたりに抱きつかれる。
あらあら、と困ったようにエリザベスを受け止めた名前は、彼女の目映いばかりの金髪をゆるりと撫でて、ツインテールの結び目から少しずれていた淡いピンクのオーガンジーリボンを結い直してやったのだった。
「きっとみんな可愛いって言うに違いないわ!」
春色のスカートの裾を翻して言ったエリザベスの言葉が、じわじわと胸に残り続けている。
それはまるで彼女のスカートの色と同じ、薄桃色の細やかなときめき。
みんな、可愛いって言ってくれるかしら。
"みんな"などと胸の内では誤魔化してはいるものの、彼女が脳裏に浮かべる人物は一人である。
それはメイリンでもフィニでもバルドでも、可愛い弟ですらない。
ぼんやりと、その男の背の高いシルエットを思い起こす。
背後から彼の名を呼んでみせたら、きっと流れるような身のこなしでこちらに視線を向けるだろう。
そして普段とは違った髪型の名前を見て、一瞬だけその瞳孔を開かせる。
それから、きっとそのままアールグレイ色の瞳を細めて─、
「……。」
うっとりと妄想に耽っていた名前だが、次には彼の口元が完璧な愛想笑いを形作る様を想像して途端にげんなりと視線を下向きに落とした。
しょぼしょぼと高揚していた気分は萎んでゆき、頬の赤みもすうっと引いて行く。
そうだ、"可愛い"なんて言ってくれるはずがない。
どうせいつも通りの愛想笑いで"お似合いです"と言ったきり、彼女から目を離して仕事に戻ってしまうに決まっている。
一度現実と向き合ってしまえば、甘い甘い妄想もチープな恋愛小説のように思えてしまい、自分で自分のことが馬鹿らしくなる。
“滑稽な女ですね、わたしも。“
大きく嘆息を吐き出して、不機嫌げに唇を尖らせたまま名前は頬杖をついた。
せっかくのヘアアレンジも、しょげた猫の尻尾のようにしんなりとしてしまっている。
はあ、と再び吐き出したため息は、硝子窓を寂しげに白く曇らせたのであった。
気分転換に本でも読もうかと私室を飛び出して図書室へと向かう道すがら、何やら屋敷内が騒がしいと思ってみれば、シエルが執務室からケープを着込んで出てくる姿が見えた。
その後ろには、同じく黒いお仕着せのコートを着たセバスチャンがついている。
その姿を目にした名前は僅かながらの期待を抱いたように、そわそわと前髪のあたりを触り始めた。
もしかしたら、もしかしたら─。
二人とも何か言葉をくれるかもしれない。
“お似合いです“以外の、トクベツな言葉を、そして賛辞を。
彼女がそんな期待に胸を膨らませつつある中、どこかへ出掛けるらしいシエルは執事からステッキを受けとった。
そして軽くシルクハットを被り直し、ふいに彼女の方へと視線を向ける。
「姉さん、少し出掛けてきます。」
かつかつとヒールを鳴らしながら彼女へと近寄ってきたシエルは、名前の髪が普段と違ったアレンジとなっていることに気がつき、ぴたりと足を止めた。
じい、と名前の顔を見つめたかと思いきや、ふいっと顔を逸らして頬を軽く染める。
そして、居心地が悪そうにケープの胸のあたりを結ぶ黒いリボンの裾をいじいじと指先で弄りながら目線を逸らしたままに口を開いた。
「.......その髪は、」
「ええ..、朝方リジーが来ていたでしょう?その時、あの子に髪を結ってもらったのですけど.......」
“似合わないですか?“と眉を下げて微笑んだ名前は、白い指先で三つ編みの束に躊躇いがちに触れた。
弟は、どちらかと言うと恥ずかしがり屋に属するタイプの人間である。
そうそう簡単に“可愛い“などと言ってくれるはずがないのは、彼女も重々承知していた。
むしろ、女性の心の機微に疎い彼がこうして髪型の違いを指摘してくれたこと自体が名前にとっては喜ぶべき出来事であろう。
それでも、“可愛い“と。
“よく似合っている“、と。
そんな言葉を求めすぎる卑しい女の性を無理矢理に捨てた名前は、気を取り直してにこりと満面の笑みを浮かべた。
むぎゅう、と胸の中にシエルを閉じ込めて、よしよしと彼の後ろ頭を撫でてみせる。
すると、少年らしいアルトの音で何やら唸りながらも、シエルは大人しくその胸の谷間に顔を埋めさせられていた。
「髪型の些細な変化に気がつくことができるなんて、やっぱり貴方は立派な英国紳士ですね。」
軽くシルクハットのてっぺんにキスを落とすと、名前はすんなりとシエルを解放し小さく彼に手を振ってみせた。
「じゃあね、シエル。気をつけて行っておいでなさい。ーセバスチャン、くれぐれもシエルをお願いしますよ。」
「御意。坊ちゃんのことはお任せください。」
ぱたぱたと急いでその場から離れるように階上の図書室へと向かう名前の後ろ姿を見つめながら、セバスチャンは愉悦にその瞳を瞬かせた。
面白い─、面白いと言わずして何と言おう。
聡明な彼には、名前の愚かしい乙女心などガラスに透かしたようにお見通しだったのである。
無論、それを理解した上で彼は彼女に何の言葉をかけることもなかった。
そして、やや照れやすい主が実の姉にすら容姿の目当たらしさを褒めることができないであろうことも、理解していて何のフォローもしなかった。
きっと今頃、あの娘はとぼとぼと屋敷の廊下を重い足取りで歩いているだろうと想像するだけで可笑しくて胃腸が捻れそうになる。
自分からも、そして愛おしい弟からも、何一つ賛辞の言葉を受け取れず、もしかするとぽとぽとと涙を零しているかもしれない!
その様を目の前で眺めることができないのは残念な気もするが、ひとまずは彼女が落胆している姿を想像して楽しむこととし、彼はにやりと覗かせていた牙を引っ込めて、未だ頬を染めている主に向き直った。
「全く、姉さんといいリジーといい、あの抱きつき癖はどうにかならないのか。」
「左様でございますね。では、階下に馬車を用意しておりますので。参りましょうか。」
ぺちぺちと頬を叩いて姉の胸の感触を消すことに躍起になっている主の後ろをついて、セバスチャンは涼しい顔で屋敷内の全てに耳を澄ませた。
厨房から響く火炎放射器の爆ぜる音、客室で小さく陶器が割れる音、中庭の植え込みが枯れる音。
そしてそれに紛れて、図書室からぽつりぽつりと雫の落ちる音。
微かに彼の鼓膜を打つその音は、確かに一つ、二つ程度の些末な雫ではあろう。
しかし、悪魔はぼんやりとその瞳に赤く愉しげな光を瞬かせ、主の後をついて階段を下ったのであった。
ぼんやりと図書室の戸を開けて煌々と燃える暖炉の前の椅子に腰かけると、名前は手近な本棚から適当な本を抜き取り、一息ついた。
─やはりシエルもセバスチャンも"可愛い"とは言ってくれなかった─
その事実が、彼女の極端に緩い涙腺をじわじわといたぶる。
分かってはいるのだ、こんな些細なことで涙を流すなどレディにあるまじきことだと。
こんな、こんな─、ただ新しいヘアスタイルへの感想が何もなかったからって、みっともなく泣くなんて。
子供みたいだわ、とは呟きつつも、名前はぽたぽたと水雫を二つほど落とした。
膝に乗せていた古い本の表紙が涙に冷たく濡れる。
そして表紙に箔押しされた金枠が涙の雫と暖炉の炎に反射し、悲しげに悔しげにきらめいた。
意識の浮上を感じ取った時、名前は初めて"自分が眠ってしまったのだ"と自覚することができた。
はっ、と飛び起きて辺りを見渡すと、一面の本棚に赤々と揺らめく暖かな薪の匂い、座り心地のよい肘掛け椅子、そして身を包む柔らかな黒い燕尾服。
怖々と自身の身体に掛けられた上着を爪先でつまみ上げてみると、薪の匂いに混じって彼が外出時につけている香水の不思議な香りが広がって、完全に名前の頭を覚醒させた。
「おや、お目覚めになりましたか」
背後から低く穏やかな声が聞こえて、びくりと背筋を伸ばす。
振り返ると、上着を脱いだセバスチャンが本棚の整理をしていた。
もう帰ってきたのか─、不思議に思いながらセバスチャンの背丈ほどもある古時計の文字盤に目を向けると、短針はXの数を指していた。
シエルが出掛けたのが昼過ぎ。
自分は、気づかぬ間に四時間は寝ていたことになる。
みんなが髪型を誉めてくれないのにむくれて、泣きつかれたままに寝てしまったなんて─!
じわじわと恥ずかしさに身体中が熱を持つ。
ぱっ、と頬に両掌を押し当てて、名前は自らの未熟さを噛み締めた。
そうこうしているうちに、彼の側に積み上げられた古書は一冊、一冊と丁寧に棚へ戻されてゆく。
その単純な作業をやや恥ずかしげに見つめながら、名前はまた無意識に前髪の辺りへ手をやった。
「あの、ありがとうございます。上着……」
「いえ、お風邪を召されてはいけませんから。当然のことをしたまででございます。」
セバスチャンは彼女に視線すら寄越さず、淡々と本を棚へ並べてゆく。
アルファベット順に、淡々と。
風邪を引いてはいけない、という優しさはくれても容姿を誉める優しさはくれないのですね─、
駄目押しのように突きつけられた執事の冷たさを受け取って、名前は小さく瞳に影を落とした。
「お嬢様、そちらの本は読まれますか?」
「あ、いいえ。読みません。棚へ戻してください。」
膝に乗せたままにしていたそれを執事に手渡すも、彼が本を受けとることはなかった。
一向に本を受け取らない彼を訝しく思っていると、目前のセバスチャンはぐいっと名前の手を引いた。
突然に近付けられるその端整な顔に彼女は心臓の動きを一瞬止めたが、彼は構うことなく名前の目尻の辺りを見つめている。
そして、"やれやれ"とでも言いたげに目を瞑った彼は赤々と涙に擦れた名前の目尻を優しく手袋の先でつついた。
「またお泣きになったのですね」
心の底から呆れている、といったような声音。
"全く、貴女は"と言いたげな視線。
しかし、それでいてどこか仕様のない子供を慰めるような優しい手つき。
まるで普段とは似ても似つかない穏やかな彼の双眸に、とくんと胸が高鳴る。
滑らかに目尻を拭ったかと思えば、彼の手はそのまま名前の後頭部へと回り、そして編まれた髪の束の結び目へと触れた。
「よくお似合いです。名前様。」
そう言ったかと思うと、結び目の上でパチン!と軽い音が上がる。
あら?と名前がきょろきょろと後ろを確認しようと奮闘しているとふいに鏡が差し出され、銀盤に映った自分の髪に彼女はぱあっと顔を輝かせた。
「まあ……!」
黒い天鵞絨のリボンバレッタ。
艶めかしくもある質のよい生地が彼女の蒼い髪にぴったりと合って、編まれた髪を華やかに飾り立てる。
しかし、それでいて派手すぎない品のよい色合い。
まるで彼の纏う燕尾服のように黒々とした美しいリボンと自らの髪色の相性の良さに惚れ惚れとしながら、名前は鏡の上へ何度も何度も視線を滑らせた。
「先程、ロンドンへ出た折にたまたま見つけまして。お嬢様のヘアアレンジにぴったりかと思ったものですから。」
「とっても可愛いです……可愛いのに、大人っぽくて…」
「ええ。僭越ながら、こちらはプレゼントさせていただこうかと。」
「え、?」
「このような安いアクセサリーがお嬢様に見合うはずもないと承知してはおりますが……」
"受け取ってくださいますか?"
困ったように眉を下げて微笑んだセバスチャンは名前の髪の先をそうっと掬い上げ、恭しくキスを落とした。
彼の唇が触れた先から、髪が艶を増してきらきらと輝きを放つ。
ぼっ、と暖炉に負けぬ火を灯した彼女の頬はみるみるうちに燃え上がり、次第に顔中が真っ赤に染まっていった。
"あ、あ、あ、ありがとう…ございます…"
消え入るような声で礼を述べた彼女に、執事はにこりと完璧に作り上げられた笑みを頬に乗せて応える。
ポケットマネーを投じてのプレゼントの効果はてきめん。
これほどに恥ずかしげな表情を浮かべる彼女を見られたならば、それはそれで面白い。
満足げに犬歯を一舐めしたセバスチャンは、ようやく名前から本を受け取り、本棚へと戻した。
かたん、と本があるべき場所へ帰された音と同時、暖炉の薪がぱちぱちと彼女の乙女心の成就を祝福するように爆ぜる。
セバスチャンが視線の先を名前に戻した時には、彼女は照れくさそうに漆黒のリボンに触れて、にひ、と幸せそうに頬を緩ませていたのであった。
(リボンと本棚/sebastian)