柔らかな冬の日差しに、ふわふわと意識が浮き上がる。
じわじわと瞼の裏側までじんわりと滲む陽光に、名前はゆるりと瞼を上げた。
きらりと瞳を灼く閃光が沁み入り、瞼はどんよりと重い。
まだまだ眠っていたい、暖かいブランケットに包まれていたい。
寝起きの瞳には眩しい朝の光にしょぼしょぼと瞬きをすると、メイリンの賑やかな声が鼓膜を打つ。
次いでトポトポと紅茶の注がれる耳馴染みの良い音が冷たい朝の空気を伝って、彼女はようやく覚醒しきらぬ身体を起こした。
「おはようございますだ!お嬢様!今日もいいお天気ですだよ」
「ううん.......おはようございます.......ふわあ.......」
大きく伸びをして欠伸をすると、冷たい12月の空気が彼女の頬をひんやりと撫でる。
ピリピリと神経を凍えさせる冬は苦手だ。
それも、朝となると尚更。
するりとナイトドレスの胸元から侵入する冷気に身震いすると、メイリンがそそくさと歩みより、カートに載せられていたティーカップを彼女に差し出した。
温かな湯気の立ち上るそれから薫るのは、仄かにオレンジピールの爽やかさを感じるアールグレイ。
清涼感のある香りながら、陶器から掌に伝わる熱は冷え込む朝には嬉しい温かさ。
すっきりと鼻孔を通すようにも感じられるこのブレンドは、目覚めのいっぱいには最適である。
寝起きの目をすっかり覚ます清々しい香りと身体を芯から暖める熱に誘われるように、名前はマイセンのカップの縁に唇を当てた。
「ふわあ〜、目が覚めますね〜。今朝もとっても美味しいですよ、メイリン。」
「お気に召していただけてよかったですだ〜。とは言っても、淹れたのはセバスチャンさんですだが.......」
「いいえ、厨房からここまで冷まさずに運んできて下さったメイリンの手腕あってのお味です。」
にこりと微笑んだ名前の瞳に、眠気の淀みはもはや見られない。
アーリーモーニングティーですっかり頭もクリアーに働くようになった彼女は、もう一度伸びをして起き上がり、ここ最近のお楽しみとなっていたアドベントカレンダーへ駆け寄った。
ベッドサイドのスツールに置かれたそれは、品の良い真紅のボディに深い緑色の小窓が25個ついている。
この小窓を12月の1日から毎朝一つずつ開けてゆくと、最終的にはクリスマスの朝を迎えるという最近の流行りのカレンダー商品である。
小窓の内には小さなお菓子やプレゼントが入っており、クリスマスが待ちきれない子供たちは毎朝この小さな窓から小さなプレゼントを受け取って25日までの長い期間をやり過ごすのだ。
名前の寝室に置かれたアドベントカレンダーは、小窓にビターラビットの装飾がなされたファントム社の新製品。
所々にビターラビットの愛らしい絵柄が刻印されており、クリスマスらしくヤドリギの葉やサンタクロースの妖精が描かれたデザインである。
12月1日の朝食の席でシエルから受けとった時から、毎朝この小窓の内のお菓子やガラス細工のおもちゃや詩の一編などを楽しみにしている名前は今朝とて冷気に足先を震わせながらも、わくわくと14と頬に刻印されたビターラビットの窓を開けた。
「今日は何でしょうか」
「昨日はお菓子だったですだ」
「お菓子よりはガラスのおもちゃの方がいいですね〜、.......あら?今日は詩です!!」
開いた小窓には、上等な便箋紙が奥まって入れられていた。
“あらあら“と、生来文学の好きな名前は指先で紙を取り出して愛らしいサンタクロースの柄の入った便箋を眺めていたが、印刷されたアルファベットの羅列を追ってゆくうちに垂れがちの瞳を大きく見開いて、大急ぎで日付を確認すべく先ほど開いた窓に印された数字へ視線を向けた。
“our birth is but a sleep and a forgetting“
“我らの誕生は忘却と眠りに過ぎない“
ワーズワースの詩の一編である。
“誕生“
その言葉に、名前は過敏なまでに反応した。
今日は12月14日─、
先ほど開いた小窓にも、“14“と刻印されている。
“そう、そうだわ!!“
ぴょこんと跳ねる、突然の動作に足元の床はぎしりと鈍い音を立てて軋む。
ひらりと空気を孕んで翻るレースのシュミーズの裾に、顔周りでは軽いチュールレースのヴェールが嬉しくてたまらない、とでも言うようにゆらゆらと揺れている。
何事かと頭上にクエスチョンマークを浮かべているメイリンの手をぎゅうっと両手で握り混み、名前はきゃっきゃと小躍りしながら口を開いた。
「今日はシエルのお誕生日!です!」
それから。
アーリーモーニングティーを済ませ、メイリンの手を借りて着替えをも済ませた彼女の室内では、メイドと執事がバトンタッチをしていた。
身を整えて、残すところは髪のセットだけなのだが、これだけは不器用なメイリンには荷が重い。
故に、毎朝着替えまで済ませた後はシエルを起こしたセバスチャンが名前の髪を整えるのが常であった。
そしてそれは、当主の誕生日という非日常のイベントが控えた当日であっても覆ることのないルーティーン。
いつも通りに彼女の部屋へ入室したセバスチャンは名前が至極機嫌よさげににやにやしているのを訝しんだものの、それが12月14日という日付のせいであると瞬時に見抜き、苦笑いをしながらドレッサーに向かう彼女の髪をゆるりと撫でた。
「おはようございます、お嬢様。本日はご機嫌がよろしいようで、何よりです。」
「当然です。シエルのお誕生日ですもの。ねえ、今日はアップにしてくださるかしら?それから、何か髪飾りも付けてくださいな。」
にこにこと満面の笑みを浮かべる名前に苦笑いをして、セバスチャンは髪を丁寧に結い上げた。
指通りのよい蒼髪はみるみるうちに編み込まれ、耳の下あたりでまとめられてゆく。
彼が黙々と作業をしている傍ら、興奮が抑え切れぬように名前はよく回る口を動かし続けた。
"見て見て、あそこの棚に置いてあるのがシエルのお誕生日プレゼントなのです"
"万年筆にしましたの。シエルの瞳みたいなサファイアが散らしてあるとっても綺麗な万年筆。"
"包装にもこだわったのです!見てください、あのリボン。珍しいお色でしょう?シエルと私の髪の色と同じ色のリボン!"などなど。
それに、手を止めることなくセバスチャンも応えてゆく。
鏡越しに彼の目を見ながら、名前はくすくすと笑ってまた口を開いた。
「あのね、今朝、わたしったらシエルのお誕生日だということをすっかり忘れていましたの。」
「おや、それはおかしなことで。昨晩もご就寝になられる前に明日は坊ちゃんのお誕生日だと嬉しそうにお話されておられたではありませんか。」
「ええ.......もう一週間も前からあの子のお誕生日の用意をしてスタンバイしてきたのに、私ったら朝に弱いものですから。アドベントカレンダーをめくってようやく気がついたのです。」
「なるほど。そういえば、今朝のカレンダーには何が入っていたのです?」
「そう!そうなの!これのおかげで今日が14日だと思い出したのです!詩だったのですけれど.......!」
「こら、お嬢様、頭は動かさないでください。」
「ご、ごめんなさい.......」
興奮のあまり彼の方へと頭を動かした名前をぴしゃりと窘めて、セバスチャンは真珠貝のアクセサリーボックスに手を伸ばした。
その中から数あるヘアアクセサリーを吟味する。
今日の名前のドレスは深いロイヤルブルーと落ち着いた黒のストライプ。
おそらくは、青の好きな弟に合わせたのだろう。
じっくりと名前のドレス、イヤリング、シューズまでもを確認した彼は、アクセサリーボックスの中から一つ、まばゆい光を放つコームを取り出した。
そして最後の仕上げとでもいうように、彼は編んだシニヨンの上から、すうっと滑らせるように純金のコームを差し入れた。
「さあ、できましたよお嬢様。」
「ありがとうございます!」
勢いよく椅子から飛び降りた彼女は、セバスチャンが差し向ける鏡でアレンジを確認しながら、ひらひらとスカートの裾を揺らしている。
美しく整えられたシニヨンに、ぴったりとドレスに合うヘアアクセサリー。
金のコームは彼女に彩りを添え、そしてその左端にだけあしらわれた黒いリボンがアシンメトリーで可愛らしい。
リボンの中央にはトルマリンのみずみずしい青色の輝きが鎮座しており、これ以上はないと思えるアクセサリー選び。
普段は苛立つことの多い執事にも、今朝ばかりは腹立たしさが沸かない。
素直に“貴方はセンスがいいですね“と微笑んで、名前は踊るように軽やかな足取りで室内の中心に置かれたソファへ腰を下ろした。
「今日の手筈は大丈夫ですか?お料理の用意は?サルーンの飾り付けは?シエルのスケジュールは空けられましたか?」
「全て問題ありません。料理は全て仕込みを済ませておりますし、パーティーができるようサルーンも整えております。加えて坊ちゃんのスケジュールは一ヶ月前より空けておりますし、関係者には招待状も既に送付済みです。エリザベス様もあと一時間もすればいらっしゃいます。」
セバスチャンは、軽く彼女の前に跪いて滞りのないパーティー準備の様相を報告した。
それは、シエルの知り得ぬ誕生日パーティーの段取り。
名前とエリザベスが密かに発案したシエルを盛大に祝うためのパーティーである。
一ヶ月前─、11月の14日から、名前とエリザベスは心を砕いてこの日の準備をしてきた。
パーティーホールのデザインに、招待状選び、そして招待客のスケジュール確保、料理の選定に自分たちのドレスの新調。
特にドレスは重要である。
エリザベスはシエルの妻になる身として、名前はシエルの姉として、シエルの好みに合わせつつもお互いにデザインや雰囲気が被らないようにせねばなるまいし、かと言っててきとうなドレスを着ることは、12月14日という日を汚す行為になりかねない。
11月に入った頃に仕立て屋のニナがファントムハイヴ邸へやってきたのをこれ幸いと、二人はついでにシエルの誕生日パーティー用のドレスをも仕立てていたのである。
シエルの好きな青を基調としたドレスでありながらも、雰囲気の被らないものをニナに二着分デザインしてもらっている。
まるで溺愛という言葉すら霞むほどの彼女たちのシエルへの愛情には悪魔もやや呆れを見せている兆しがないでもなかったが、彼は大人しく名前とエリザベスの指示に従って準備を着々と進めてきたのだ。
頭を下げたセバスチャンは名前の手の甲にキスを落とすと、すっくと立ち上がり口を開いた。
「では、本日は手筈通りに。私は午後まで坊ちゃんの執務の監視をいたします。」
「ええ。絶対にあの子にパーティーのことが悟られないようにお願いしますよ。私とエリザベスは午後になったらお客様のお出迎えをしますから。」
「御意。」
一礼してセバスチャンが部屋を出てゆくと、名前は気合いを入れようとするかのようにぱんぱんっと頬を軽く叩き、立ち上がった。
パーティーの開催まであと数時間。
やることは山積みである。
12月にしては穏やかに窓から差し込む陽気は、まるで彼の誕生を祝うかのように麗らか。
大きく取られた窓の外をガラス越しに眺めて、名前は黒いレースの手袋を嵌めて最終準備にとりかかった。
朝食の席に姉がいないかとおもえば、昼食の席にも姉はいなかった。
それに、すこしばかりがっかりしてしまったのは、否定のしようがない事実である。
12月14日。自分の誕生日。
誕生日ごときで喜ぶほど子供ではないつもりであるが、シエルは密かに朝一番に姉から祝いの言葉があるものと信じていたので、無人の席を見た時にはやや面食らった。
蜂蜜でも煮詰めたのかとばかりにどろどろに自分を甘やかす姉であるから、恐らくは大袈裟な生誕のメッセージがあるだろうと考えていたが─。
思い上がりだったのかもしれない。
昼食のキドニーパイを消化し終えた彼は、冷静にそう考えていた。
自惚れるほどは彼女に愛されていないのかもしれない、いや、そう考えるのが普通か。
そもそも、他者の愛などに執着するほど自分は弱くない。
ぼんやりとそんなよしなし事が脳裏を浮かんでは消えてゆく。
いや─、姉に愛されているかどうかが焦点なのではない。
問題なのは、あの食い意地の張った姉が朝食も昼食も摂っていないという事実である。
おかしなこともあるものだと首をかしげながら昼食を摂ったシエルは少し休憩でもしようかと温室へ向かおうとしたが、すぐさま行く手を執事に阻まれ、無礼にも小脇に抱えられた。
どこへ連れてゆかれるのかと思いきや、少しの休息すら許さぬとでもいいたげに執務室に直行され、ぼすんと椅子に座らされたのが3時間ほど前。
それからは、執事がじいっと彼の一挙手一投足から目を離さない。
こいつ、自分の仕事に戻れよ.......と内心で悪態をつきながら、シエルは延々とここまで溜め込んだ覚えのない書類にサインを続けた。
「おい、僕はこんなに書類を溜めていたか。」
「ご自覚がありませんか?」
「ない。というか、お前、自分の仕事はどうした。下でまた不穏な音がしているが」
「は.......しかし、本日は坊ちゃんがお仕事をなさるかどうかを監視するという重大な任を仰せつかっておりますので。」
「はあ.......?」
“何だそれ、一体誰からそんな命令を─、“と言いかけたところで、シエルは言葉を飲み込む他なかった。
階下からお決まりの爆発音に加えて、“かわいー!!“と鼓膜を激しく揺さぶるソプラノが響いたからである。
爆発音の方はすっかり慣れてしまっているため特にどうということはないが、この場にいるはずのない人物の声が聞こえた自体は看過できない。
がたっと勢いよく立ち上がると、シエルは大急ぎで窓際へ駆け寄り、外の様子を確認した。
窓の外にはいくつか重厚な馬車が停車させてあり、そして心なしか庭園も平素より飾り付けられているような気がしないでもない。
果てしなくクエスチョンマークを乱立させながら、シエルは立ち尽くしていたが、しまいには“やっほ〜!伯爵元気してるう?“とあまり仲の良くない白一色の人物の声まで聞こえてきて、彼はどっさりと崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
「おい!さっきから騒がしいとは思っていたが、何が起こっている!?姉さんも姿が見えん上に、何だアレは!?エリザベスがいるのか!?グレイ伯爵までいるのか!?答えろセバスチャン!」
混乱と怒りと動揺をごちゃまぜにしたような声音で叫びを上げた主に、セバスチャンは牙をちらちらと見せながらにやりと微笑んだ。
そして音もなく革靴の先で執務机に歩み寄り、シエルがせっせとサインを続けていた書類の束に向けてぱちん!と指を鳴らした。
途端に燃え上がる蒼い炎、燃え落ちてゆく書類の束。
確かな熱がシエルの髪の先を燃やし、焦げ臭さが螺旋を描いて天井へと立ち上る。
轟々とひとしきり紙屑を燃やしたかと思いきや、蒼炎はぱったりと消え、書類はその燃え屑まで跡形もなく姿を消してしまった。
「書類を燃やしてどうする!!!」
「提出先のない書類など、不要でございますから。さて─、ちょうどよい時刻ですね。階下へ参りましょう。」
「おい!!何が起こっているのか説明しろ!!」
「説明などするより、実際にご覧いただいた方が速やかでしょう。」
懐中時計で時刻を確認したセバスチャンは、ぱちん!とその銀蓋を閉めてジレのポケットに時計をしまった。
そして、事態が飲み込めていない主へと手を指し伸べ、先ほどまで固く閉じられていた執務室の扉を開ける。
「さあ、坊ちゃん。皆様お待ちかねです。」
何がなにやら分からない。
しかし、この悪魔の手をとった先に姉の不在や招いた覚えのない客人の気配の答えがあることは事実であろう。
少年は躊躇いがちに立ち上がり、こつこつとヒールの音を鳴らして廊下へと歩み出した。
「Happy birthday!」
サルーンの扉を開けた先は、弾けるような鐘声の渦であった。
頭上をひらひらと舞落ちてくる白いバラの花弁を浴びながら、シエルは呆然と飾り立てられた眼前の様子を視界に映していた。
“おめでとう!!“
どすん!と体中に走る衝撃と同時にふわりと甘い香りがしたかと思えば、エリザベスがいつも通りに抱き着いてくる。
事態を飲み込めぬままに彼女の巻き毛の先に恐る恐る触れると、会場の奥から“リジーに触るなァァ!!!!“と悲鳴に似た怒声。
ぴったりとくっついていたエリザベスが離れ、ずいっと顔を近づけてきてようやく、シエルはかああっと頬を染めて自意識を取り戻した。
彼女のキラキラと輝くぺリドットの瞳が彼の瞳を見つめる。
おめでとう、シエル。
にこりとその輝きが細められて、彼はぎこちなく彼女の背をそろりと撫でた。
「リ、リジー.......これは、」
「シエルのお誕生日パーティーよ。名前お義姉様とこっそり計画してたの!」
ぎゅう、と再び首もとに抱き着いてくる彼女は、美しいサックスブルーの愛らしいドレスに身を包んでいた。
ふんわりとしたオーガンジーの水色のリボンで腰元が引き締められ、揃いの同質のリボンでツインテールの結び目が結われている。
かわいい、と無意識にそう思った自分にまたもや頬の熱を上げながら、シエルはやっとの思いで“ありがとう“と口にした。
「姉さん.......貴女にも、ありがとうございます。」
「いいえ、可愛い弟のためですもの。」
サルーンの奥でぽやぽやと微笑んでいる姉に目を向けると、こちらも気合いの入ったドレスで飾り立てられている。
彼女たちがこうまでして自分のためにパーティーを開いてくれたのか─、
じわじわと、胸のあたりからこそばゆい暖かさが込み上げてくる。
“姉に愛されていないかもしれない“などと一瞬でも考えた自分が馬鹿らしくすらなってくるほどに、盛大な夜会の様相。
別に、姉から愛されて嬉しいわけではない。
ただ、悪い気はしないというだけ。
そう言い訳をしながらも、シエルは年頃の少年らしい穏やかな曲線を唇の端に浮かべた。
「坊ちゃんに喜んでいただけて、よかったですね。」
サルーンの中央でエリザベスに振り回されるようにして千鳥足のステップで踊っているシエルをにこにこと眺めていた名前は、セバスチャンにシャンパンを差し出されて素直に受けとった。
嬉しくて堪らないというようにるんるんとグラスを傾けると、グラスの淵に薄ピンク色の花びらのようなルージュがくっきりと刻まれる。
それを上品に拭って、名前は彼に満面の笑みを向けた。
「はい。貴方のお陰でもありますね。本当にありがとうございます、セバスチャン。」
「おや、珍しい。お嬢様が私にそのようにおっしゃるとは。」
「だって、私とエリザベスだけでは企画はできても実行はできませんでしたから。お料理だって全部貴方が作ったものですし、会場の設営も貴方でしょう?招待状の件だって、アグニやソーマは来てくださっても、貴方が送ってくださらなかったらグレイ卿やフィップス卿はいらっしゃらなかったでしょうし。」
穏やかな光を讃えた名前は、もう一度垂れ目がちの瞳をにこりと細めて執事の手を取った。
“よくやってくれました“
花びらのような唇からこぼれおちる言葉は、悪魔の気分を緩やかにほぐしてゆく。
ぷるぷると背伸びをした彼女のふっくらとした唇が彼の頬に軽くキスを贈って、彼は瞳を大きく見開いた。
しかし、名前が照れ隠しにぐいっとシャンパングラスをあおって空にしてしまう様を見て、やれやれと苦笑いに表情を切り替える。
「お嬢様、飲みすぎてはいけませんよ」
「わかってます!」
自分の行為に未だ恥ずかしさを感じているらしい名前は“おかわり!“と空のグラスを彼に差し出す。
それをセバスチャンは肩を竦めて受けとった。
こうしてわがままなお嬢様から賛辞を受けとるのも、悪い気はしない、か。
恍惚と瞳に赤い光を宿して、彼はグレイが暴飲暴食を続けている料理の置かれたエリアへと飲み物を取りに向かうのであった。
月の光が静かにその夜空を照らす時間になってもなお、その祝宴の幕は閉じることがなかった。
各々が賑やかに今日という日を楽しみ、そして彼の生誕を祝い─、いや、中にはさほど祝っていない者もあったかもしれないが─。
しかし幼い当主のために集ったという点だけは、このパーティーの招待客全てに共通する。
それだけでよかったのだ。
闇夜を切り裂いて進む弟のため、こうして一夜限りであっても光の差す時間を提供できれば、それだけで。
シャンパングラスに反射する眩しい輝きを楽しんで、名前は満足げに瞳を閉じた。
この冬の日の輝きを、赤いルビーの瞳にしっかりと閉じ込めるかのように。
皆が踊り疲れた頃、ようやく華やかなパーティーの幕は下りて招待客たちは各々がゲストルームへと招かれ、就寝の運びとなった。
主催たる名前とエリザベスは最後まで招待客に就寝の挨拶回りをしていたが、それもようやく一段落つき、眠ろうかと自室で眠る準備をしていた頃。
お気に入りのナイトドレスに着替え、ヴェールを被って休もうかとベッドへごそごそと潜ろうとしていると、控えめにコンコンとノックの音が鳴る。
あら?と思いつつも“どうぞ“と声をかけると、おずおずと開いた扉の向こうで、同じくナイトシャツに着替えたシエルが、セバスチャンを伴って立っていた。
「まあ!シエル!どうしたのですか?こんな夜更けに。」
「いや.......あの、」
「坊ちゃん、お姉様におねだりがあるならご自分の口でおっしゃいと申し上げたでしょう。」
「うるさい!!!お前はナイトキャップを持ってこい!僕は紅茶、姉さんにはワインだ!」
「御意。」
御意、と言いつつもにやにやとしたセバスチャンは、踵を返して厨房へと下りて行ってしまった。
何事でしょうか.......と考えながらも、名前はシエルの入室を歓迎した。
“お入りなさいな“と優しく声をかけると、彼は初めて足を踏み入れる姉の部屋にいくぶん躊躇しつつも、そのベッドサイドにぼすん、と腰掛けた。
よしよし、と隣に座る姉に大人しく頭を撫でられながら、やや目線を逸らして唇をゆっくりと開く。
すこしだけむくれたようにも見える彼は、姉のドレスの裾を握り込んで、ようやくと言葉を吐き出した。
「その、一緒に寝てもいいですか」
「一緒に?わたしと?」
姉さん以外に誰がいるんです、とぶっきらぼうに言ったシエルは、姉からの返答も聞かないままにブランケットをめくり、ベッドへと身体を横たえた。
それに慌てて名前もシエルの隣に身体を滑りこませると、彼は甘えるように姉の胸元に顔を寄せ、ぴちりと瞳を閉じてしまった。
その行動に慌てたのは、名前である。
こうして弟が自分に甘えてくれることなど滅多にないことであり、嬉しいには違いないのだが突然にこうも擦り寄られると、どうしていいか分からなくなる。
ひとまずは、と恐る恐るシエルの後頭部を撫でていると、彼は瞳を閉じたまま、気持ちよさげに寝息を立てはじめてしまった。
その愛らしい寝顔をにこりと見つめていた彼女であったが、はたと未だ渡していないブルーの箱が視界の端に入り、"あー!!"と悲鳴をあげた。
「ああ!シエル、ねえシエル…!私まだ貴方にお誕生日のプレゼントを渡していません……!!」
「そんなものは明日でいいじゃないですか……」
「よくありませんよ、ねえシエル?もう少しだけ起きてくださらない?プレゼントはもう用意してあるのです……ほら、あの棚のところに……!」
いそいそと身体を起こそうとした姉の手をやんわりと押さえつけ、シエルはぱっちりと目を開いた。
彼のアイスブルーの瞳と、怪しげに瞬く契約印の記された瞳が楔を打ち込むように名前の動きを封じ込む。
いいじゃないですか、明日でも。
再度口に出された言葉には、言外には"このまま姉に甘えて眠りたいのだ"という響きが込められていた。
そろそろと名前が大人しく寝台に潜ると、シエルはやや満足げに彼女の胸元に顔を寄せ、今度こそ眠りの体制に入ってしまった。
「明日でいいんです、僕らには明日があるんですから」
眠りの底に落ちる直前、彼が言った言葉がじわじわと彼女の中に染み込んでゆく。
明日がある、僕らには明日がある。
あまり生に拘る様子を見せなかった弟が、"明日がある"と言ったのだ。
─もしかしたら、少しでも今日という日を楽しんでくれて、その上での発言だったとしたら。
弟の頭を撫でながら、そんなことを考える。
「もしそうだとしたら……姉さんはとってもうれしいです」
穏やかな笑みを浮かべて、名前は枕に頭を預けた。
ふんわりと羽毛の枕に頭が沈む感覚が気持ちよく、また彼女の睡魔を呼び起こす。
胸元では、暖かいシエルの温もりがゆらゆらと彼女の身体を暖めて、シエルの滑らかな髪がサラサラと心地よい。
だんだんと重くなってきた瞼に逆らわず、名前はシエルを抱き締めたままその瞳を閉ざした。
"プレゼントは、明日のお楽しみですね"と口ずさみながら。
ナイトキャップを持って室内に足を踏み入れた執事は、一つの寝台で仲良く眠る姉弟を見て、やれやれと肩をすくめた。
「結局、召し上がらないんじゃないですか。」
カートに乗せられた紅茶とワインは大人しく撤収である。
二人を起こさないように、と最新の注意を払って室内を後にしようとした時、彼はふいに名前が開けたままにしていたアドベントカレンダーの14日の小窓に手をやった。
確か製品版のファントム社アドベントカレンダーの14日に入れられていたのはビターラビットの小さなぬいぐるみ。
しかし、名前は今朝方、"詩が入っていた"と言っていた─。
カサリと小さな音を立てて中身の便箋を拾い上げた彼は、刻まれたアルファベットの羅列に目を通すと、訳知り顔でにやりと笑った。
「"誕生"ですか…。わざわざ名前様に渡したカレンダーにだけ詩を。狙い済ましたかのように14日に。」
何だかんだで姉からの祝いが欲しかったらしい幼い主の心情を掬い上げて、セバスチャンは隠すことなくにたりと口角をあげた。
まだまだ年頃の少年。
どんなに背伸びをしても、結局は姉からの愛情に飢えているのだ、と。
月夜に照らされた寝室を後にするとき、セバスチャンは今一度室内を振り返った。
寝台の上、仲良く寄り添う二人の獲物。
どちらも、最後にはセバスチャンの腹の中に入ると決まっている。
「最期の時まで、どうかお二人仲良く。」
青白い月に祈りを捧げた彼は、ふうっ、と燭台の灯を消して室内を後にした。
カツカツと革靴の音だけが寂しげに廊下を滑り、その長い前髪が冷たい夜の空気に揺れる音だけが彼の耳元で響く。
闇に紛れた悪魔にも、等しく明日はやってくるのだ。
彼が獲物を食らうのが、明日ではないというだけで。
(Happy birthday!my dear!/ciel,sebastian )