夜警
「レディ、お迎えにあがりました。ファントムハイヴ伯爵にご挨拶を申し上げるよう奥様から仰せつかっているのですが、弟君にご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか?」


馬車から降りてきたリデル家のフットマンの手を引き、名前は急ぐように馬車の中へ転がり込んだ。
一も二もなく馬車内へと落ち着いた名前は、瀟洒な小窓を勢いよく開け、“出してください!“と御者へ叫ぶ。
彼女の決死の悲鳴を合図としたかのように、コツコツ、と馬の蹄が地面を駆ける音に、つられてカラカラと走り出す車輪。
小窓の外は、次第にロンドンの町並みがびゅんびゅんと過ぎ去ってゆく。
まるで夜逃げのような彼女の形相に黒服のフットマンはやや驚いたように瞳を見開いていたが、ようやくと事情を飲み込めたらしく、“ははあ、“とでも言うように苦笑いをして名前の向かいに腰掛けた。


「名前嬢、さてはファントムハイヴ伯爵から夜会に出るお許しをいただいておられませんね?」
「.......少し、執事とケンカをしてしまって。でも、リデル夫人のお誘いは断れませんから。よいのです。後から─、あとから謝ればいいだけですもの。」
「本当に名前嬢はお転婆でいらっしゃる。お噂はかねがね、奥様とロリーナお嬢様から伺っておりますよ。」
「う、夫人はともかくとして、ロリーナは一体何を話したのです.......?」


この世で唯一無二の親友─、ロリーナ・リデルの名を出されて、名前はたじたじと額に冷や汗をにじませた。
リデル家の長女である彼女とはフランスの寄宿学校時代からの親友であるが、それだけにロリーナには10歳の頃からの名前の黒歴史を知られている。
一体、彼女は自分の家で召し抱えているフットマンに何を話したのでしょう.......と学院時代の悪行の数々を思い浮かべている名前にくすりと笑みを漏らして、彼は小窓を少し空けて御者へ“リデル邸へ急ぐように“と声をかけた。
その穏やかな声に“?“と名前がクエスチョンマークを浮かべると、彼は彼女へと向き直り、小さくウインクをしてみせる。


「ファントムハイヴ伯爵に見つかるとまずいのでしょう?急いでずらかってしまいましょう。」


やや訛りのある中流英語で発せられたその言葉は、この夜逃げに合わせた彼なりの気遣いか。
聞き慣れない中流英語の響きにほっこりと頬を緩ませて、名前はにっこりと頷いた。






リデル邸へたどり着くと、リデル男爵夫人は夜逃げ同然に抜け出してきた名前を見、大きなため息をついた。
いわく、“全く、ファントムハイヴ伯爵の心中お察ししてしまうわ“と。
しかし執事と小さなケンカをしてしまい、更には弟から自宅待機を命じられてしまったという事情を聞くと少し肩をすくめて“自宅待機とは、貴女には堪えがたい屈辱でしょうね。“とフットマンと同じように小さくウィンクをしてみせた。
無理に名前を自邸へ帰すことはなく暖かく屋敷へ迎え入れると、メイドを呼んで彼女の身支度を整えるよう申し付けてくれた。


そして。
彼女らは身支度を整え、“一緒に行きたい“とぐずるアリスとイーディスをなんとか寝かしつけるようメイドに任せて、再び馬車に乗り込んだ。
名前は崩れた化粧と下ろしっぱなしにしていた髪をリデル邸できっちり直してもらい、無事にパーティに出席するに相応しい姿に変身することができた。
ドレスはラベンダー色のベアトップ、たっぷりと広がったプリンセスラインが愛らしく、スカート部分は薄く可憐なフラミンゴのピンク色のフリルで彩られたタッキング仕様である。
ヘッドドレスはドレスと揃いの淡いラベンダーに染められたつば広のキャペリーヌハット。
ハットに巻かれたドレスよりもワントーン淡い薄紫色の大きなリボンの裾がゆらゆらと揺れる様は、さも無垢な令嬢の微笑みである。
叔母と同じく赤の好きな名前にしてはややおとなしい色合いの装いであるが、このくらい地味でなければ弟や目敏い執事に会場で見つかってしまう。
すこしだけイメージチェンジを図った名前は、馬車の窓に映る自らの横顔をちらと確認し、一つ頷いた。
いくらセバスチャンやシエルが聡いとはいえ、これならば人混みではバレまい。
化粧もほどほどに、ルージュは色味を押さえて軽く色づく程度。
髪もあえてアップでなくサイドに軽く結ったアレンジにしておき、弟と同じ髪の色が目立たないように整えてある。
窓の外に移り行くロンドンの街並みを憂鬱げな瞳で見下ろして、名前は赤い瞳をすう、と細めた。
私は無力なんかじゃない。
脳裏を弟や執事や叔母の瞳がぐるぐると巡る。
私は、無力なんかじゃない。
ぎり、と何かを握るように胸のあたりへ手をやって、名前は大きく息を吐いた。
この胸には、勲章も何もないけれど─、
私は、弱い女の子じゃない。
手首から香るお決まりの薔薇と百合の香りで胸を満たして、彼女はきりりと顔を上げた。
ガラガラと車輪の回る音は次第に子爵邸へと近づきつつある。
車窓の向こう側に荘厳なウェストミンスター寺院が見えた頃には、子爵邸では既に毒々しいパーティーの幕が上がっていた。
当事者たちの舌なめずりの音を黒幕の裏側に響かせながら。







ドルイット子爵邸は退廃に退廃を重ねたような怪しくも美しいゴシック風の造りをしていた。
どこかパリのノートルダムを彷彿とさせるような冷たい色合いの外壁に、見事な飛梁の描くアーチが美しい。
正面玄関の周囲は、まるで毒素を吸い上げたように花弁を精一杯に開く真っ赤な薔薇の花の植え込みで飾られていた。
至極美しい、最近流行りのリバイバルゴシックな屋敷であるが、名前はどこかそのデカダンな雰囲気がくどいように感じて、馬車の中から眉をひそめた。
次第に御者が馬に鞭を振るう音が止み、カラカラ.......カラ、と車輪が止まると、すぐに御者が馬車の戸を開ける。
促されて先にリデル夫人とフットマンが外へと降り立ち、続いて名前もフットマンに手を引かれて狭い馬車内から身体を滑り込ませるようにして外の空気を吸い込んだ。
夜の空気は、冷たくて、清々しくて、どちらかといえば好きな方だ。
しかし、目前にそびえ立つゴテゴテとした屋敷とむわりと香る濃密なローズに侵されたこの場の空気にはどこか特有のいやらしさがあって、名前は思わずおかしな顔をしてしまった。
ドルイット子爵。
噂には大層な美男子だと聞いているが、これはもしかすると(おかしな黒魔術に傾倒しているという情報もあることであるし)、著しく趣味の悪い分類の男なのではないか。
うっすらと背筋を粟立たせた名前は、なるべくと子爵本人の趣味に関しては思考を広げないよう自身の気を紛らわせつつ、馬車のステップを下りきった。






「名前、最初に言っておかなければいけないことがあるのだけれど.......」


リデル夫人がそうつぶやいたのは、受付を済ませようかと正面玄関へと進んでいた時分であった。
カツカツと優に10pは越えているヒールを鳴らしながら彼女がぱちくりとルビーの瞳を瞬かせると、夫人はそそくさと彼女の耳元へ唇を寄せ、ひそひそと口を開く。


「あの子、本当に学生の頃から見境が無かったから貴女も何か言い寄られてしまうかもしれないけれど.......そうね、私の娘だということにしてやり過ごしましょうか。」


“恩師の娘に手を出そうとするほど、彼も節操がないわけではないでしょう。“
やや呆れたように言った夫人は連れていたフットマンに招待状を出させ、受付係を鋭い目で見据えながら名前の肩を引き寄せた。


「いいわね、貴女は今夜だけは私の娘、“ロリーナ“よ。ロリーナ・リデル。クライストチャーチ学寮長の娘。アレイストに言い寄られたら、ヒールで足を踏んで言っておやりなさい、“お父様に報告するわ!“とね。」


夫人が息巻く様子を目にし、名前は“どれほど好色な方なのでしょうか.......“とすこしの不安を胸に滲ませた。
彼女は生まれてこの方、男性経験が全くと言っていいほど皆無である。
男性に言い寄られた経験など短い17年の中でも一瞬たりとも見受けられず、もしも“好色“な子爵に言い寄られては突っぱねられる自信がない。
しかし、油断は禁物である。
なにせ、相手は猟奇殺人犯であるかもしれないのだから。
瞬間的な心の空白は、雷の速さで彼女の身を襲う。
命のやり取りとは、それが裏の社会であれ表社会であれ、そういう隙の無さでできている。

肩口から僅かに立ち上る血の匂いに、瞳の奥に見え隠れする狂気の煙。
そして指先から伝わる乱暴な鼓動─。
殺人を犯した人間は、一目見ればその凶行が手に取るようにわかる。
名前は何百人とそういう“獣じみた“人間を目にしてきた。
ドルイット子爵が“そう“であれば、その時は。
美しいラベンダー色のドレスの下、太股に忍ばせた拳銃の冷たさを掌に感じて、名前はリデル夫人に向き直った。


「問題ありません。どんな方であろうと、私はしっかり夫人のお供を務めます。」



にこり、と微笑んだ名前の頬を冷たい夜風がつるりと撫でる。
さらりと宵の風にさらわれたミッドナイトブルーの髪を軽く片手で押さえ付けた彼女の瞳には、鋭い燐の光が宿っていた。

切り裂きジャックの潜む夜会。
もしも、仮にドルイット子爵が切り裂きジャックなのだとしたら─、
彼はこのパーティーの裏側で、必ず事を起こす。
名前は冷たい夜の空気を吸い込んで、ぴしりと背を伸ばした。
広い正面玄関には、招待客達がぞろぞろと受付を済ませるべくフットマンや執事を連れて屯している。
この中に、子爵の催す"裏パーティー"への参加資格を持つ者がいる可能性も十二分にある─。
名前は注意深く辺りを見渡し、警告灯のように瞳を瞬かせた。





「頼もしいわね。さあ、受付を済ませて中へ入りましょうか。アレイストに挨拶もしなければいけないし、ね。」




品のよいディープブルーのドレスを纏ったリデル夫人が、フットマンを受付へと向かわせる。
彼は"御意"と夫人と名前に礼をして、目映い光に満ちる正面玄関へと招待状を手にして向かっていった。
その若いフットマンの後ろ姿をしみじみと眺めながら、夫人は名前に向き直って軽く手を引いた。




「行きましょう。彼、おかしな黒魔術に頭をやられていないといいのだけれど。」



冗談めかして言った夫人であるが、名前の方はアレイスト・チェンバーが"おかしな黒魔術に頭をやられているばかりか"殺人に手を染めている可能性がある"ことに頭を悩ませつつ、先へ進む夫人の後をついて歩いた。
この夜会の主宰者は、黒魔術に傾倒した美男子。
そしておそろしい猟奇殺人犯─。
切り裂きジャックを捕らえるのは、弟の仕事。
しかし名前には名前で、親友の母親を守るという確固たる目的がある。



「おばさま、きっと大丈夫です。」



キリリと精悍な顔つきを強めた名前に面食らったかのように目をみはりながらも、リデル夫人─ハンナ・リデルはすぐに表情を和らげ、"ありがとう"と穏やかに笑んでみせた。
宵闇の風に巻き上げられた彼女の横髪の先を軽く指で撫で、名前の手を握って会場へと歩みを進める。
隣に夫人の人間らしい暖かな熱を感じながら、名前も石畳の地を踏みしめ、前へ踏み出した。



夜風が彼女たちの肩を撫で行く感覚がいやに涼しく、これから起こる子爵邸での騒驤の夜を予期させる。
とっぷりと暮れた夜空と、屋敷から漏れる盛大な光の渦のコントラスト。
静けさに満ちた闇と、会場から聞こえる華やかな歓談の声。
派手な香水、化粧品、男性のポマードと、酒と料理と、ヒトの匂い。


その裏側に待つものは、果たして。


(夜警/Book of Jack the ripper ]V)

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