会議は踊る、されど進まず

メイン会場となっていた広間は、豪華絢爛という言葉で飾り立てられたかのような光の渦に満ちていた。
いくつも天井からつり下げられたシャンデリアは、はじけるように人々の熱気を光源に変えてフロアを明るく照らし出す。
わざとらしいくらいに白いテーブルクロスのかけられたテーブルの上では、細かな薔薇の装飾に彩られたホールケーキや、ソースでツヤツヤと輝くチキン、年代物のワインなどが並んでいる。
ずいぶんと盛大に行われているらしいパーティーにやや面喰らいながらも、リデル夫人の後をついて歩く名前は、きょろきょろとテーブルに並んだ料理やワインに目を奪われてしまっていた。



実のところ、逃げるように屋敷を飛び出してきたせいでパーティーへ出かける前に何も口にしていなかったのだ。
普段ならば夜会へ赴く前にサンドウィッチやスコーンをつまんでから外出するのだが、今日ばかりはそこまで気を回している余裕が無かった。
ぐう、と今にも鳴ってしまいそうな腹を無意識に押さえ付ける。
やっぱり、シエルやセバスチャンに黙って屋敷から出てこなければよかった。
後悔したとて遅いのであるが、あまりの空腹にそう思わずにはいられない。
しかし、そうして名前が料理や大好物のワインに目を奪われている隙にもリデル夫人は次々に知り合いと思しき者に声を掛けられている。
さすがは大学教授の妻、顔見知りはほとんどが研究者や出版業界に身を置く者だった。
“シエルの近辺では見ない方達ばかりで良かったです。“
自分の身元がばれそうにないことにうっかり油断をしていると、帝王学の権威─シエルの家庭教師を努めるユーグ教授にうっかり出くわしてしまい肝を冷やすことになったのだが、名前は急いで腹の虫を黙らせ、顔が見られないようキャペリーヌハットを目深に被ってなんとか教授との歓談を耐え抜いた。




「名前、あちらを見てご覧なさい。」


なんとかユーグ教授の探るような視線をくぐり抜けた名前は、夫人の声にくい、と目深に被っていたハットのつばを軽く折り曲げた。
次いで、リデル夫人の足取りの先へと顔を上げる。



「.......あら、もしかしてあの方.......」
「ええ、彼がアレイスト─、ドルイット子爵よ。」



人混みの向こう、一際目立つプラチナブロンドの美しい男。
爵位を継いだ人間としては随分と若いような気もする美男子が、彼女たちの視線の先で幾人もの招待客との歓談を楽しんでいた。
仕立ての良さそうなテールコート、まばゆい宝石付きのタイに負けず劣らず華やかな面立ち。
体躯もすらりとしていてスマートだ。
微かに聞こえて来る声質も、じいんと鼓膜に響くような美しい中低音。
一目見て名前は“これはモテるはずだ“とするりと子爵の前評判の真実を確信した。
彼に切り裂きジャックとしての疑惑さえかかってなければ、名前もコロリとその華やかな所作や美声の虜になっていたかもしれない。
そう思わずにはいられないほどに、ドルイット子爵は魅力的な容姿をシャンデリアの淡い光に映し出していた。



“いけません、油断大敵!“
心の内に巣くう隙を押し潰すように掌を握り混む。
そうこうしているうちに、名前の隣で夫人のネイビーブルーのポインテッドトゥがかつん、とフロアを叩いた。


「アレイスト!」


リデル夫人のはきはきとした快活な声が人波を縫うように響く。
彼女は軽く子爵へ声を掛け、ふりふりと優雅に小さく手を振った。
彼女と共に名前も子爵の正面へ回り込むと、急いでピンと背をのばしにこりと微笑みを浮かべる。
彼の前へ歩みを進めると、先ほどまで子爵と話をしていた中年の男性は、“では、後ほど“と言い残して人の群れの中へ消えていってしまった。




「夫人!来てくださったのですね。リデル先生も今夜は一緒に?」
「いいえ、残念だけれど夫は今夜もクライストチャーチに泊まり込みなの。」
「それは仕方がない。教育者に社交期などあってないようなものですからね........おや、そちらの愛らしいレディは?」


子爵の深いラピスラズリの視線が興味深そうに名前に注がれる。
シャンデリアの輝きに反射してきらりきらりと輝く金糸の髪と相まって思わず目を閉じてしまいたくなるほどの眼光であるが、名前は臆すことなく彼の瞳を見据えた。
口元には淑女らしい蕾の微笑み、白い指先はスカートの裾をちょこんと摘む。
軽く膝を折って彼にお辞儀をしてみせると、子爵は妖艶に白い歯を見せて名前の手の甲をとった。


「美しいレディ、私はアレイスト・チェンバー。ドルイット子爵と呼ばれている。お名前をお聞かせ願えるかい?」


するりと手の甲に落とされた唇は、男性のものとは思えぬほどに柔らかい感触がした。
まるでマシュマロが手の甲を滑り落ちたような、ふにゅ、とした心地。
これはキスに慣れた人間の唇だ、と名前は思った。
手の甲の取り方から、唇の滑らせ方から、何もかもが手慣れている。
これは─、これは、本当に遊んできた人間のやり方だ。
わずかな警戒心を胸に、名前は薄く色づいた唇をゆっくりと開いた。


「ロリーナ・リデルです。ドルイット子爵、ご機嫌よう。」


ふわ、と脳裏に優しい親友の微笑みを浮かべながら、名前はキャペリーヌハットをくい、と持ち上げて瞳を細めた。
隣でリデル夫人も、“私の娘よ。三人姉妹の長女。“と口添えをする。
すると子爵は、ぱち、と瞳を大きく開いて手を顎へやり“ほう、“と呟いた。
黒い手袋に覆われた彼の手は、セバスチャンとは違って女性的にしなやかだ。
伸ばされた指の長さはあの悪魔と同じく細長いが、指の動き一つ一つが女性的なのだ。
蠱惑的な指先は、女性ならば誰もがうっとりと見とれてしまいそうに繊細で、優しげ。
整いすぎた美、とでもいうのであろうか。
名前は余計に警戒心を抱いたが、しかし表情筋をなんとか働かせて“ロリーナ・リデル“の微笑みを保った。



「ロリーナ?あのロリーナかい?フランスへ旅立ったかわいい子猫。あのロリーナ?」
「え、ええ。お久しぶりです。ドルイット子爵。」



どうも子爵がロリーナを知っているらしい雰囲気を感じとった名前はあたふたと脳内で子爵とロリーナの関係を塗り変えた。
知り合い、おそらくは昔に出会ったことがある。
これはもしかすると、大昔にロリーナは子爵に遊んでもらったことなどがあるのかもしれない.......。
名前はぎこちない笑みを無理矢理に頬に馴染ませでもするようにぴくぴくと口角を上げて、“お会いできてうれしいですわ“と付け加えた。



「ああ!ロリーナ!なんと美しく成長したのだろうね.......最後に会ったのは君がフランスの学校へ旅立つ直前だっただろうか.......!黄金の昼下がり、ああ、忘れはしないとも。キャロルと私と君たち姉妹でボート遊びをしたね........あの時、君たち姉妹は彼に物語をせがんで大変だった..........キャロルのことは覚えているかい?彼も私と同じ、君たちとよく一緒に遊んだろう?」



ドルイット子爵は、瞳の奥で薔薇の花が咲いたかのようにキラリと目の色を変えて名前の両手を握った。
うっとりと美しい青春時代に思いを馳せるように瞳を閉じると、次々に美しい夏の日の思い出を言の葉に変えて艶めく唇の上に溶かしてゆく。


─ぺらぺら喋ってくれる方でよかった。
名前はそんなことを思いながら、目前で在りし日のロリーナとの思い出を語っている子爵を笑顔を保ったまま見つめた。
ドルイット子爵、アレイスト・チェンバー。
ロリーナの幼少期には彼女の遊び相手になっていた青年。
なるほど、と名前は一人頷いた。
これはリデル夫人が“ロリーナの名を騙れ“というはずだ。
いくら好色な人間であれ、恩師の娘、加えて幼少期の面倒を見たことのある少女を口説き落とそうとする紳士はいまい。
隣に佇むリデル夫人をちら、と伺い見ると、彼女は名前の方に密かに視線を向け、ぱちん!と軽くウィンクを送ってみせた。



「アレイスト、思い出話はそのくらいにして。私も夫も、貴方の様子が気になっていたのよ。」


夫人が子爵のよく回る口を軽く制し、早速と言わんばかりに本題に切り込む。
突如として夫人が口を差し挟んだことに紫水晶のような瞳をやや見開いて、子爵はぱちくりと瞬きを二、三と繰り返した。


「様子?おや、様子とは?」
「聞いているわよ。なんでも黒魔術に没頭しているのですってね。おかしな事に手を出してはいないか、ずっと気掛かりだったのよ。貴方、すこし危なっかしいところがあるものだから。」


夫人の冗談っぽい言葉のトーンに、子爵は紫色の瞳にぽつん、と睫毛の影を落としたことを
名前は見逃さなかった。
そして、ほんの一瞬だけ。
口元に、下品なハイエナが死肉を啄むような曲線を描いたことも。


「おやおや、それは心配をおかけしたようですね、夫人。私は大丈夫ですよ。黒魔術とは言っても、薔薇を対価に黄金を生み出す儀式を敢行したり、黒魔術に関する書籍を輪読する読書会を開いている程度ですから。先生や夫人がご心配になるようなことは、何も。」



ドルイット子爵はあくまで穏やかな眼差しを崩さず、リデル夫人の憂鬱を払拭するように両手をひらひらと振ってみせた。
いかにも夫人の杞憂を笑い飛ばすような、カラカラとした笑声が響く。
しかし、名前は先ほど美しい子爵が見せた醜悪な表情に、確信を抱いてしまっていた。
“何か良からぬことに荷担している“
“常人の浮かべる表情ではない“と。
そして、素直に“そうなの、良かったわ。“と引き下がれぬのは夫人の方も同様のようで、彼女は何か─、子爵の良心のようなものにすがるかのように顔を上げ、目線だけを軽く俯かせて言葉を続けた。


「.......本当?ヤードのお世話になるようなことはしていないのね?貴方、学生の頃も自分のことを“ミロのヴィーナスの生まれ変わり“なんて言ってオックスフォード中を全裸で歩き回ったりしていたものだから心配で心配で。」
「ふ、それは若気の至り、ですよ。」



オックスフォード中を全裸で徘徊─、
名前は思わずその様を脳内のスクリーンに映写し、ぶんぶんと頭を振った。
“いけない、想像してはいけません。“
若気の至り、程度では済まぬ露出事件である。
名前はじりじりとこっそり子爵から距離を取り、ラベンダー色のハットの下で神妙に頭を回転させた。
─子爵が何か、良からぬことに荷担していることは事実であるように思う。
あの顔、あの笑み。
まともな人間では形作ることのできない醜悪な微笑であった。
しかし、このおかしな男が切り裂きジャック─?

名前はすん、と鼻を鳴らした。
しかし、彼から香って来るのは高価な女性もののようなワイルドローズの青々とした香水の匂いばかりで、いっこうに血や暗闇の香りはしない。
狂気的な震え、がばりと開かれる瞳孔。
そんなものも所作の優雅な彼からは感じられない。
自分が見てきた殺人鬼と全く共通点を見いだせず、名前はううん、と頭を捻った。
情報不足、だろうか。



「こんな話はおしまいにして、レディ。私と一曲お願いできるかな?ロリーナほどに美しい女性を前にダンスに誘わないというのは、失礼にすら当たる。」


にこ、と穏やかな双眸にラベンダー色のドレスを映して、子爵が言う。
さりげなく取られた手は柔らかくすべすべとして、とてもとても乱雑に娼婦を殺す男の手のようには思えない。
一曲相手をして、様子を見ればいい。
頭の中で囁いた自分の声に一つ頷き、名前は恭しく子爵に頭を下げて、膝を折ってみせた。



「はい。ぜひお願いいたします。」


隣でリデル夫人が、ハラハラと名前の肩にさりげなく手を回した子爵を見つめている。
彼女は子爵に捕われぬようリデル夫人へと視線を送って、“大丈夫です“という意志を赤い視線を通して伝えた。



「久方ぶりにかわいい子猫のステップを見せてもらうとしよう。.......夫人、よろしければその間、3階の応接間へどうぞ。昔のオックスフォードの仲間が何人か集まってワインを開けています。先生の思い出話に大輪の花を咲かせていますから、夫人がいらっしゃればみな大いに喜ぶでしょう.......レディ・ロリーナのことはお任せを。一曲お相手していただければすぐに応接間へエスコートいたしますから。」




子爵の手が、がしりと強く名前の肩を引き寄せる。
リデル夫人はどこか名前の身を案じるような視線を巡らせたが、子爵付きの使用人が彼女を階上へと促すと、躊躇いながらも使用人のエスコートを受け入れてホールの奥、中央から階上へと伸びる階段へと進んでいった。
名前はリデル夫人から一瞬の間であっても離れることに一抹の不安を抱いたが、夫人の背後にはいつの間にか合流していた体格の良いフットマンがついている。
"大事には至りません、よね"
油断にも似た思考を頭に刷り込ませ、名前は肩を抱く子爵へとピジョンブラッドの瞳を向けた。



「さあ、ダンスフロアへ。子猫のお手並み拝見といこうか。」
「子爵とダンスができるなんて夢のようです。お手柔らかに。」









子爵にエスコートされてダンスフロアへと足を進めると、ちょうど曲目が変わる頃合いであった。
ヨハン・シュトラウスの作曲、美しく青きドナウ。
ワルツの名曲である。
美しい管弦楽団の調べに耳を澄ませ、名前はにこりと子爵の滑らかな手を取った。
ダンスは曲目に関わらず得意である。
この社交期に、シエルの名代としていったいどれだけの夜会に出たか─。
すこしの矜持を胸元に含ませて、名前は主旋律に合わせてゆったりとステップを踏みはじめた。




1、2、3、1、2、3、
三拍子の穏やかな流れは、もはや名前の身体に染み付いてしまっている。
爪先までに気を巡らせて、そのハイヒールの先は美しくたおやか。
指先、足先、そして腰のくびれ、
身体中の至る部位を意識して、美しく見せてこそワルツ。
ステップは軽やかに、花が綻ぶような愛らしさが必要不可欠。
けれどターンは華麗に、素早く回る。
右足、左足、と旋律にピタリと合わせた名前の身体は、まさしく美しく青く光るドナウ川の流れのように見事であった。
そして、それに引けを取らぬ子爵の動きも見事なもの。
ホールの中央で踊る二人は、まるで美しい一枚の絵画のようにも見えた。
ラベンダー色のドレスの裾が揺れる度、周囲の視線を次々に奪い去って行くほどの美しさ。
骨張った子爵の手が名前の腰を引き寄せ、それに名前も挑戦的な笑みを浮かべてそのステップに応える。
“ほう.......“と辺りから漏れる感嘆のため息にすこしいい気分になりながら、名前は優雅なバックスラストを決める子爵に被せるように優雅にフロアを踏み締めた。


「やるじゃないか、ロリーナ。その愛らしいステップはオペラ座仕込み、ということかい?」
「お褒めいただき光栄です。子爵もとっても素敵ですよ。」
「おや、小さかった子猫はフランスでリップサービスまで覚えてきてしまったのだね。」


ばちん!とステップを踏みながらウィンクを飛ばす子爵の指先がすす、と腰元を這う。
その嫌らしい手つきに眉根をひそめてしまいそうになるのを何とか寸でのところで堪え凌いで、名前は彼の所作に注意深く視線を注いだ。



パーティーは幕を開けたばかり。
この夜の先に何が待ち受けているのか、知るのは目前で優美なステップを踏むこの男だけである。
名前の探るような視線をかい潜るかのようにすらりと華麗なターンで交わしていく子爵は、誘惑するかのようにまばゆく輝く瞳に彼女を映して見せる。
その美しいアメジストの水面に映る名前は、好戦的な表情を見せていた。
このダンスが終わるその時、この男の目論見を看破してやろうとでも言うように。





(会議は踊る、されど進まず/Book of Jack the Ripper ]W)
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