アンハッピーバレンタイン
霧の都、ロンドン。
石炭の煤煙に覆われた冬空を馬車の窓越しにぼんやりと見つめて、名前は重々しくため息をついた。
窓枠の跚に頬杖をついて赤い瞳孔で外の景色をなぞってゆくが、いつもはショーウインドーに並べられたジュエリーのように輝くそれも、今日はどこか燻るコークスの燃えかすのようなはっきりしない色彩に染められてしまっている。
はあ、と一つ吐き出された呼気は、まるで外を覆う黒霧のように煙っていた。
車内をどんよりと重たく満たす彼女の吐息はカップの底へと沈澱する茶葉のように床へ降り立ち、赤いハイヒールに包まれた足先を冷たく冷やしてゆく。
カラリカラリと間隙なく回りつづける車輪の音と、石畳の地をえぐるように駆ける馬の蹄の乾いた音を片耳に流し聞いて、名前は憂鬱そうに瞳を閉じた。



もうすぐバレンタインデーです!と気持ちを逸らせていたのもつかの間であったのだ。
つい一週間ほど前、“バレンタインデーに合わせて5日ほどは休暇を取れそうです。久しぶりにタウンハウスへ滞在しませんか“と弟から誘いを受けた時には名前は屋敷内をぴょこぴょこと跳ね回ってしまうほどに喜んで、メイリンやセバスチャンを困らせたものだった。
久しぶりのシエルの休暇!久しぶりのタウンハウス!
彼女は、来るバレンタインデーに向けたロンドンでのショッピングや愛する弟と囲む暖かい暖炉のことなどで頭をいっぱいにしてこの数日間を過ごしていた。
“タウンハウスへ持っていくお洋服はどうしましょうか、“
“久しぶりのロンドンですもの、めいっぱいお洒落がしたいです!“
“ロンドンに着いたら、ニナのお店に寄って冬の新しいヘッドドレスも欲しいですね〜“
“貴女の分もお土産に買ってきますから、楽しみにしていてください“
名前の荷物を詰めていたメイリンの隣に座って、ぺらぺらと機嫌良くお喋りをしていたことも、記憶に新しい。
しかし、忙しい弟がそうそう休暇を取れるはずがなかったのである。



タウンハウスへ到着してすぐ。
どこでシエルがタウンハウスへ滞在していることを聞きつけたのか、王家の紋章入りの手紙が届いた。
女王陛下の紋でシーリングされた手紙を目にした瞬間、シエルは大きくため息をついたが、覚悟を決めたようにすっくと立ち上がった。
女王の番犬に休暇などない。
事件が起こり次第、早急にその任を全うする責務がある。
そんなこんなでアフタヌーンティーを楽しむ間もなく、シエルはセバスチャンを連れて事件の捜査に向かってしまったのである。
これがおおよそ3日前の話。
よほど捜査が難航しているのか、二人はあれから一度もタウンハウスに戻っていない。

もう一度、深い深いため息をついた名前は鬱々と瞼を上げた。
外は変わらず煤煙に覆われてどんよりと曇っている。
次第に車窓がタウンハウス周辺の景色に移り変わり始めたのをちらと横目で流し見て、名前は重々しく腰を上げた。







「名前様!お帰りなさいませ。」


馬車から下りると、人の良い笑みでアグニが出迎えてくれた。
ついで、屋敷の奥の部屋からひょっこりと顔を出したソーマがぱたぱたと軽やかな足取りで駆け寄ってくる。
彼はぽす、と名前の肩を抱いたかと思うと、“ショッピングは楽しかったか〜?“と大きな口で名前に笑いかけた。


「ええ.......、とっても。ニナのお店で新商品のヘッドドレスも買えましたし.......ナイツブリッジのハロッズにも寄ったのですけれど、楽しかったです。たくさんお買い物をしてしまいました」


にこ、と二人に笑いかけたと同時、御者が馬車から名前の荷物を玄関口に運んできた。
本人の言う通り、随分な量である。
“Harrods“と金文字で刻印されたショッピングバッグが三つ、そして一際大きなホプキンス洋装店の紙袋が一つチェッカー模様の玄関床に置かれる。
公用馬車の御者は荷物を運び出すだけ運び出すと、一礼して扉の向こうへと姿を消した。
“ああ、ご苦労様でした!“
アグニの穏やかな低音が彼に向かって投げ掛けられる。
パタン、と玄関の扉が閉じられるとすぐに馬の駆ける音が響く。
パカ、パカ、と蹄の音は次第に遠退き、馬車は屋敷から走り去って行った。



「ずいぶん買い込んだな。アグニ、荷物を名前の部屋へ運んでやれ。」
「御意のままに。」


アグニは軽々と四つの荷物を片手で抱え上げると、手前の階段を登って行った。
一部だけ伸ばされたアグニの色素の薄い髪の束がひらひらと舞うように揺れる。
その様をぼんやりと見ていた名前の肩を再びがしりと掴むと、ソーマは訝しむように彼女の顔を覗き込んだ。


「おい。名前。元気がないじゃないか」
「そんなことは.......」
「ある。なんだその覇気のない瞳は!すっかり濁ってしまっているじゃないか。」


せっかく綺麗な朱色なのに、と口を尖らせると、ソーマは名前の肩を引っつかんでダイニングへとずるずると引きずるように連行した。
ちょ、ちょっと!と名前が短い悲鳴を上げるのも構わず、彼はカラカラと豪快に笑いながらダイニングへと通じる戸を開く。


「アグニの作った菓子を食べれば元気が出る!お前がじきに帰ってくる頃合いだと思って残しておいたんだ。ちょうどよかった。」
「あのっ、ソーマ.......!わたしあまりお腹は空いていないのですけれど.......!」
「なに?腹が空いていない?ならチャイを飲め!身体が温まると元気がでるぞ!」


アグニが戻ってきたら生姜とスパイスを一から挽かせよう、と笑うソーマに、名前は逆らうことができなかった。
彼は彼なりに、名前を元気づけようと尽力してくれているのだ。
その好意を無碍にするには、名前はあまりにお人よしすぎた。
結局、ずるずるとダイニングルームへと引きずられた名前は、戻ってきたアグニのいれたチャイを飲むことになるのである。
晴れない心の煤煙を振り払うこともできず、ただ二人の好意に曖昧な笑みを返すことしか叶わずに。







「あいつ、よほど寂しいんだな。」


その夜、ソーマは名前から借りた(読みもしない)恋愛小説を掌で弄びながら、暖炉に薪をくべるアグニにぽつりと呟いた。
時刻はディナーを終えた午後九時。
普通ならば暖炉を囲んで団欒を楽しむ時間であるが、名前はショッピングではしゃぎすぎて疲れてしまった、と早めに自室に引き上げてしまっている。
最もそれは建前で実際にはあまりにも虚しくて部屋で一人泣いているのだろうと人種の異なる二人にも容易に想像がついた。
ぱちぱちと新たな薪を焼べられ軽快に爆ぜる暖炉の火を瞳に映しながら、ソーマは腰掛けていた肘掛け椅子の上で大きく伸びをした。
健康的な褐色の肌が薄ぼんやりと明るい室内に惜し気もなく晒し出される。
暖炉の火にきらりと金の腕輪が輝いて、ソーマはふわあ、とあくびを一つこぼした。



「それはお寂しいでしょう。名前様はシエル様のこともセバスチャン殿のことも大層愛しておられますから。」

薪を焼べ終えたアグニがソーマの方を振り返り、眉を下げて言う。
ソーマはそんな彼の言葉に腑に落ちない所があるかのように腕組みをして、うんん、と難しい顔で唸った。


「それにしても、寂しがりすぎじゃないか?たった三日奴らに会えていないだけだろう?」
「王子、おそらくは会えない時間が問題なのではないでしょう......名前様は恐らく、2月の14日─、明日お二人に会えそうにないことを歎いておられるのではないかと。」
「明日.......ああ、バレン何とかって祭りか。英国人はやたらと明日の祭りに思い入れがあるんだな」



空を見上げながら言ったソーマはすぐに掌の上で弄んでいた少女らしいピンク色の表紙の小説をパラパラとめくり、紙面に撫でるような視線を滑らせた。
“あの人は私の唯一の人“
“愛する人に贈り物を受け取って欲しいわ“
“私の気持ちも受け入れてもらえたらもっと嬉しいわ“
安っぽいぺらぺらの紙の上には、どろどろに溶けてしまいそうに甘ったるい台詞がいくつも並んでいる。
“英国の文化をもっと知りたい“と言った彼にこの1ペニー小説を貸してくれた名前は、ちょうどバレンタインデーを題材にした恋愛小説だと言っていた。
ソーマは、まだ恋愛の機微や女の砂糖菓子のような好意のあれこれには理解が及んでいない。
しかし、英国人の女はバレンタインデーという祭りに並々ならぬ思い入れがあるのであろう、ということだけは薄々と感じとることができた。
そして、想いが強すぎたが故にバレンタインデーを愛する二人と祝うことができず名前が果てしなく落胆しているのであろう、ということも。


「明日、奴らが帰ってくればいいんだがな」


小説をぽいっとサイドテーブルに放り投げて、ソーマは言った。
薪を焼べ終えたアグニも同意とばかりに頷いて“全くです“と相槌を打つ。
ほの明るい応接間の二人は、無意識に窓の外へと視線を巡らせていた。
もしや、あの極端に小さな影と極端に大きな黒い影が見えはしないかと期待して。
しかし凍てついた窓の外に見えたのは、霧に覆われた天からちらちらと舞い落ちる黒ずんだ雪ばかりであった。







翌朝、心まで凍えさせるような冷気の中で目を覚まし、名前はぷる、と身を震わせた。
朝方の空気は、吸い込むだけで身体の内側を薄い氷の膜で覆ってしまうように冷たい。
普段であれば寒い朝はメイリンがセバスチャンの淹れた暖かい紅茶を持ってきてくれるのだが、さすがにアグニにそこまでさせるわけにはいくまい。
本人は“朝は私がお目覚めの挨拶に参ります、暖かいチャイもお持ちしましょう“と言ってくれたが、いくら頭の弱い名前とて、寝起きのはしたない姿を男性─それも屋敷で抱えている使用人でない─に見られることには抵抗がある。
アグニの厚意にやんわりと断りを入れたせいで、名前はここ数日、寒い中一人で着替えをしてダイニングに降りていかねば、アーリーモーニングティーにありつくことすらできない生活を強いられているのである。
─セバスチャンがいれば、気にせずお茶を持ってきてもらって、着替えも手伝ってもらうのに。
無意識にそんなことに思考が向いてしまい、名前はぶんぶんと頭を振った。
いけない、甘えてはダメだ。
アグニは十二分に私が支障なく生活できるよう最善を尽くしてくれている。
だから、こんな─、
“セバスチャンがいれば“、“シエルがいれば“などと考えるのは、アグニにもソーマにも失礼だ。


ずるずると胸元まで厚いブランケットを引きずって、はあ、と彼女は一つ白い息を吐いた。
2月14日になってしまった。
それなのに、一番最初に贈り物を渡したかった相手は、まだ帰邸していない。
きっと、その事実が彼女をこんなにも傲慢でわがままな女にしてしまっているのだ。
ベッドの上から室内の扉の隣、ドレッサーに置かれたバレンタインデーの贈り物を悲しい瞳で見つめて、名前はごそごそとベッドから起き上がる準備を始めた。
せめて笑顔で階下へ降りよう、と心に決めてドレッサーに向かって口元を上げてみせる。
しかし、三面鏡にはいびつな笑みを浮かべた惨めな女の顔が三つ、亡霊のように映し出されるばかりであった。






「おはようございます、名前様。」
「おう、よく眠れたか?」


着替えてダイニングの扉を開けると、じんわりと暖気が足元からせり上がってきて、先ほどまで一人で凍えていた彼女の足先から指の先までを暖かく包み込んでゆく。
室内の食卓では、アグニが朝食の配膳をしている頃合いであった。
ソーマなどは朝食が待ちきれないのか、既にテーブルについてナイフとフォークを両手にソワソワと身体を揺り動かしている。
キラキラと丁寧に磨かれた食器、心地好いチャイの匂い、そして鼻孔をくすぐるスパイシーな香辛料の香り。
朝の冷気と共にそれらオリエンタルな空気を吸い込んで名前はソーマの正面の席につき、“おはようございます“と挨拶を返した。



「名前様、ご朝食はいかがなさいましょう?王子と同じものを召し上がりますか?それとも英国式のものを?」


アグニは朝の太陽のように清々しい笑顔で籐のバスケットを名前の前へ持ってきた。
中身はスコーン、ブレッドにマフィン。どれもセバスチャンが毎朝用意してくれる朝食と同じレパートリーである。
名前は“ええと.......“と迷う素振りを見せて、ちらりとソーマの前に配膳されたものへ視線を遣った。
ソーマの前に置かれたのは、ほど良く焼かれたナンにひよこ豆のカレー、そして香草とおぼしきものがふんだんに使われたサラダ。
名前はナンにかぶりつきたいのを堪えて、バスケットの中からスコーンを指差した。
本当はスパイシーなカレーやナンが食べたいのだが、彼女は香草の独特の風味とえぐみが苦手で食べられない。
ぐっとナンに別れを告げた彼女はアグニにスコーンを皿へよそってもらい、他のメニューも英国式のものを選択した。



「名前、今日はバレン何とかって祭りなんだってな。」


むしゃむしゃと香草のサラダを口に運びながらソーマが言う。
名前は運ばれてきたミントのサラダに銀色のフォークを突き刺して、“ええ“と相槌を打つ。
そして、ゴソゴソと自身の背後にしまっておいた明るいブラウンの包みを取りだし、静かに微笑んでソーマに差し出した。


「そうです、バレンタインデーですから。はい、貴方にも。」
「なんだ?.......チョコレート?」
「ええ、英国のバレンタインデーでは、チョコレートを贈り合うのが最近の流行りなのです。」


手渡された包みの黒いリボンを解き、ソーマはべりべりと紙の包装を乱雑に破いて中身を取り出した。
大人しい色合いの包みの中から飛び出してきたのは、目の覚めるようなピンク色のハート型のチョコレートボックス。
キャドバリー社の刻印の入ったボックスの匂いをくんくんと嗅いで、ソーマはぺろりと唇を舐めた。
内側から香るカカオと砂糖のとろけるような甘さは、否応なしにヒトを誘惑する。
朝食の最中であっても、その甘い固まりを口に放り込んで舌の上でとろかしてしまいたくなるほどに。
思わずソーマはボックスを開けてチョコレートを口にしようとしたが、アグニが隣からサッとショッキングピンクのハートを取り上げてしまったため、それは叶わなかった。


「アグニ〜.......」
「つまみ食いはいけません、王子。こちらは11時のお茶の時間に。」


取り上げられてもなお、“一欠片だけだ!“と我が儘を言う彼にくすりと笑って、名前はもう一つの包みを背の高いアグニに差し出した。
ソーマの我が儘に苦笑する彼に“貴方にもどうぞ“と微笑む。
すると彼は鷹のような黄金の目を大きく見開いた。
しかし、すぐにふっと口元を緩めるとソーマ宛のチョコレートボックスをテーブル上に置いて名前に向かって両掌を合わせた。


「名前様、私のような者にまでお気を遣っていただきまして.......」
「バレンタインデーですもの。プレゼントはたくさんの人に贈れば贈るほど楽しいものです。」
「ありがとうございます。」


もう一度掌を合わせ名前に深々と頭を下げたアグニは、“朝食後のお茶の用意をして参ります“とチョコレートボックスを二つ、カートの上に載せて厨房へと去って行った。
その後ろ姿はどこか気分が弾んでいるようにも見える。
やはりバレンタインデーはいいものだ、と先日から沈んでいた気分を少しだけ浮上させて、名前はスコーンを割ってクロテッドクリームをぺたりと塗った。
彼女の寂しげな眼差しは完全に癒えることはなかったものの、この朝食の時間だけは愛おしい二人の不在を少しだけ忘れることができた。
どこかぎこちなかった口元がゆる、と緩むと、ソーマはナンをカレーにくぐらせながら名前の名を呼んだ。


「心配するな」
「?」
「シエルも執事も、祭りが終わるまでには必ず帰ってくる。」


にっ、と白い歯を見せて言うソーマに、名前は“そうですね、“と静かに微笑んで雪の降りしきる窓の外へ視線を巡らせた。
もしかして、極端に小さな影と極端に大きな黒い影が見えはしないかと期待して。
しかし、冷たい朝の冷気に凍てついた窓の外はただしんしんと雪が舞落ちて、昨日と変わらぬ煤煙がロンドンの上空を覆い隠すばかりであった。












「.......おい、午前の列車は取れたか。」
「いえ、申し訳ありません。一等席は既に満席でございまして.......午後一番の列車の一等席を確保して参りました。」
「午後だと!?ここからロンドンまで、午後の列車なんかで帰ったら今日中にタウンハウスに着かないだろう!!」
「申し訳ございません。」
「くそっ.......」


シエルは黒地のケープを凍風にはためかせ、出立する汽車が黒煙をあげる様を忌々しげに見つめた。
ロンドンよりも遥か北方─、ヨークの街には細かな雪の結晶がちらちらと降り注いでいた。
ちっ、と舌打ちをした彼はケープに溶け込むように舞落ちる雪を叩き落とし、イライラと前髪をかきあげた。
女王の命によりタウンハウスを飛び出してはや四日。
たかがドラッグの売人を追ってヨークまで出向くことになろうとは、誰が予想し得たであろう。
ほんの一日で片がつく仕事だと姉を置いて屋敷を出てきたが、はやくも今日が2月14日。
バレンタインデーを楽しみにしていた姉は、今頃は泣いて自分達の帰りを待っているだろう。
そう考えるだけで、姉の泣き腫らした赤い瞳を想像するだけで、シエルはぎゅうっと心臓を冷たい手で掴まれているような気分になる。
きっと、今にも姉さんは自分達を待っているというのに。


「っ.......!」


ヨークの街で急ぎ用意した姉へのバレンタインデーの贈り物を抱えて、セバスチャンは涼しげな顔でコートの裾を冬の風に揺らしている。
彼に持たせている深紅の紙袋をイライラと見つめていると、その視線に気がついたセバスチャンはにい、と口端を意地悪く持ち上げて小さな主を見下ろした。


「残念ですが.......名前様にプレゼントをお届けするのは明日になりそうですね。」


ひらひらと紙袋を小憎たらしく揺らしてみせる執事の脚の脛を蹴飛ばしてやりたい気持ちになりながら、シエルは“黙れ“と低く唸った。
彼らの前方では、午前最後の汽車がロンドンの街へと向けてゴォーッと黒煙を吐き出しながら線路の先へ先へと車輪を進めてゆく。
ついにプラットフォームから出て行ってしまった列車の轟音を聞きながら、シエルはくるりと振り返り、駅を出て街中へと大股で進んで行った。
口角を上げたままのセバスチャンは、憤懣の納めどころを探しているように肩を怒らせるシエルの後ろを長い脚を伸ばして着いて行く。


「どちらへ?」
「馬車を探す。」
「ロンドンまで馬車で帰られるおつもりですか?」
「午後の汽車よりはまだマシだ。」
「それでも今日中にはロンドンには......」
「うるさい!黙って僕の言う通りにしろ!」


振り返って吠えるシエルに、セバスチャンは"やれやれ、"と肩を竦めた。
すると、間髪入れずに彼のコートの襟を掴んだシエルは、“貴様.......“とセバスチャンを撃ち抜くように鋭い瞳で見上げる。
執事は何時にも増して殺意に塗られた主の視線にゾクゾクと愉悦を走らせ、命じられた通りに馬車を探すべく、街中をぐるりと見渡した。
その瞳は、穏やかな紅茶色ながらもどこか性格の悪さがにじみ出ている。
バレタインデーに引き離された姉弟、互いに互いを想い合いながらも、14日の間にプレゼントを贈ることすら叶わない─。
あまりに甘く愉快すぎるこの状況に堪え切れずにセバスチャンがくすりと笑声を漏らすと、背後からシエルがステッキの先で彼の脛をばしん!と叩いた。


「お前.......、そんなに僕が姉さんにプレゼントを贈れないことが面白いか!」
「ええ、とても。なぜって、私は既に名前様にバレンタインデーのプレゼントをお送りしておりますからね。ヨークに着いたその日に、郵便で。」
「なんだと!?」


シエルの大きな声が冷たい雪雲に覆われた空を切り裂くように天に満ちる。
通行人にちらほらと振り返られたことにも気を留めず、執事のコートの襟を再度むんずと掴んでガクガクと彼を揺らそうとするも非力なシエルの力では体格の良いセバスチャンはびくともしない。
ただにんまりと彼を見下ろして、“残念ですねえ.......今頃名前様は寂しい想いをなさっておいででしょう“と嗤うばかりである。
シエルはぐっと掌を握り込み、セバスチャンの瞳を睨みつけて口を開いた。



「陰険な奴め!」



幼い当主の叫びも、英国中を覆うぶ厚い雪雲に吸い込まれ、ロンドンにいる名前には届かない。
それを承知で、悪魔は味わうのだ。
哀れな姉と弟に起きた小さな小さなバレンタインデーの悲劇にたっぷりと糖蜜をかけて、その甘美な悲哀を舌の上でとろかして。
それは、さながらバレンタインデーに贈られるチョコレートのように甘い悲劇。
堪らなく美味、と言わんばかりに舌の先で牙を一舐めしたセバスチャンは、曇天の空を見上げて降りしきる雪を身に浴びるのだった。






(アンハッピーバレンタイン/sebastian,ciel)




prevnextHP
ALICE+