2月14日、午後一番。
名前は二輪の花を抱いて、名前のないバレンタインカードを困惑気味に眺めていた。
ソーマと朝食を摂った後、雪のちらつくロンドンの街を自室の窓越しに見つめていた彼女に届いた一つのプレゼント。
凛と咲き誇る純白のマドンナリリーと妖艶に花開かせる血に染められたようなイングリッシュローズ。
洒落た黒いリボンで結ばれた二輪の花は、誰からのプレゼントであるのか皆目検討もつかぬ代物である。
添えられたカードに名前がないあたりを見ると恐らくは家族でも友人でもない異性の誰かからのプレゼントなのではあろうが、果たして自分にバレンタインデーの贈り物を送ってくるような異性がいるだろうか、と考える。
頭の隅々までを掻き回して思いつく限りの異性を思い浮かべるが、該当する者は誰一人として存在しない。
エドワードとは先日、14日に先駆けて既にプレゼントの贈り合いをしているし、グレイやフィップスとはバレンタインデーを祝うほど親しくはない。
劉からは先日、崑崙の新商品であるというチャイナドレスを受け取っている。
同じ屋敷内にいる以上、ソーマとアグニの線も考えにくい。
葬儀屋は.......、
考えて、名前は“ないない、“と頭を振った。
葬儀屋とも、バレンタインデーにプレゼントを贈り合うような間柄ではない。
その上、彼女はあの奇妙な男が苦手である。
彼女が可能な限り接触を持たぬようにしている以上、わざわざ彼からコンタクトをとってくることもあるまい。
であれば─、
「一体誰からなのでしょう.......このお花.......」
名前はすん、とユリの花弁の奥へと鼻を鳴らした。
まるで花びらの一枚一枚から湧き立つような甘く痺れる花粉の香りは、品の良い青っぽさを含んでいる。
次いで、薔薇が競合するようにすうっと爽やかな甘さで鼻先をくすぐってゆくのだ。
彼女の愛用の香水にもユリと薔薇が使用されているが、もしや身元の知れぬ誰かはそれを知ってこの二輪を贈ってきたのだろうかと彼女はふむ、と考えた。
手にしていたカードに手がかりがないかと、ふいと視線を手元へ落とす。
Happy Valentine's Day.
From your secret admirer;
善いバレンタインデーを。
貴女の秘密の恋人より。
黒とゴールドの飾り枠に縁取られたシックなメッセージカードに並ぶ文字は、几帳面そうな細長い文字。
なんとなく、どこかで目にしたことのある文字だ、と名前は再び頭を捻ってうんん....、と悩ましげな唸りを上げた。
“From your secret admirer“とは、バレンタインデーに意中の異性に贈り物を送る際のお決まりの言い回しである。
英国では、基本的に誰かへ好意を寄せること自体が秘匿される傾向にある。
よって、バレンタインデーのメッセージカードに贈り主の名を書くことは恥ずべき行為とみなされる。
2月14日の贈り物は、恋心の比重が高ければ高いほど贈り主の存在を曖昧にさせるのだ。
これまで名前も、何度か友人や知り合いがバレンタインデーに“your secret admirer“─貴女の秘密の恋人からプレゼントを受け取っているのを見たことがある。
これまでは“誰かから想いを寄せられているなんて、いいですね“とモテない自分の身の上を嘆きながら羨ましげに“your secret admirer“の文字の羅列を眺めていたが、こうして実際に自分が受け取ってみると誰からのプレゼントか分からないというのは不便なものだ。
どなたか存じ上げませんけれど、はっきりご自分の名前をお書きになればいいのに。
名前は白い指の先で黒いリボンの端を弄んで、カードと花をサイドテーブルの上へ置いた。
こんな時、シエルならばよく回る賢い頭ですぐに贈り主を特定してくれるだろうか。
ふとそんな事を考えると、愛おしい弟のサラサラとした髪の揺れる様や可愛らしい大きな瞳、気怠げな色っぽい声が恋しくて、きゅうと胸が締め付けられる。
シエル、シエル─、
早く帰ってきてください、と小さく呟いて、彼女は肘かけ椅子に深く沈み込んだ。
暖かな光に満ちた室内では薔薇とユリの甘い花粉がじんわりと満ちて、波紋が広がるように魅惑的な香りが広がってゆく。
まるで花の匂いに溶かされてしまいそう、と名前はゆるりと瞳を閉じた。
彼女の寂しさごとごちゃまぜに掻き混ぜてゆく白と赤は、彼女を慰めることはなく、されど彼女を突き放すこともなく。
その在り方は、やはり誰かと似ているような気がして─、
名前はもう一度、悩ましげに吐息を吐き出した。
「おい、正気かお前.......」
「はい、至って正気でございます。」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「ええ、私に任せていただければ、14日の間にタウンハウスへ戻ることも十分に可能です。」
「.......」
「14日のうちに、どんな手を使ってでもお姉様にお会いになるのでしょう?」
シエルはその顔色を青ざめさせて、ごくりと唾を飲み込んだ。
彼の目前には、ごく一般的な4人乗りの馬車。
屋根付きのブルームタイプの馬車である。
美しい木目の生かされた車内は実に見事で、深紅に染められた皮張りのソファの座り心地も悪くはない。
しかしそれは、平素彼がロンドンで使用しているものとは決定的に異なる点が一つだけ見受けられた。
最も、この一点が異なっている以上、この奇妙な乗り物を『馬車』と形容することが適切であるかどうかは怪しいのであるが─。
「おい.......もう一度聞くが、これは本当に『馬車』なのか!?」
「ええ、形状は馬車です。車を引くのが馬ではないというだけで。」
御者席から、セバスチャンが声だけで返事を寄越す。
車内にひっそりと座り込んだシエルは窓を少し開けて、本来馬が繋がれているべき場所へともう一度ちらりと視線を遣った。
彼の空を映したような瞳に映り込むのは、大きく巨大なイヌ。
荒々しく逆立った黒色の毛並みなど、明らかにこの世のものではない予感しかしない。
野良犬というにはあまりに力を持て余しているような、血に飢えているような。
ギラギラと獰猛な光を宿した瞳孔などは、まるで不躾な『客』を屠る時のセバスチャンに似ていた。
「その“イヌ“は通行人を襲わないんだろうな」
「はい、恐らくは。」
「おい!恐らくってなんだ!」
「─ああ、坊ちゃん。お静かに。これ以上お話になると、舌を噛みますよ。」
「お前、僕の話を─っうわああああ!!」
びゅん!!
前触れもなく走り出した獣に引きずられるように、馬車は駆け出した。
いや、駆け出した、といえる話ではない。
それはまるで制御の利かない暴走馬が引いているようにガタンガタン!と縦へ横へと揺れて、ともすれば車自体が壊れてしまうのではないかと思えるほどに軋みを響かせている。
シエルは急いで口を閉じ、姉へと用意したプレゼントの包みを細い体で抱きしめた。
放っておいては、馬車の揺れの導くままに壁にぶつかって中身が粉々に粉砕されかねない。
しかし、次第にイヌが疾駆する速度をあげるにつれて、プレゼントの無事を確保するどころの話ではなくなってゆくのをシエルは感じていた。
あまりの馬車(犬車?)の縦揺れに顔を真っ白くさせながらソファに横になる。
─間違いない、このままだと酔う。絶対に吐く。
既に三半規管がおかしくなり始めているらしく、耳の奥でぐわんぐわんと奇妙な遠心力がざわめき始めている。
シエルがぎゅう、と瞳をつむったその時、御者席のセバスチャンがぱしん!と鞭を奮ったらしい音が耳鳴りを始めた鼓膜を大袈裟に打つ。
狂ったように速度をあげるイヌ、更に揺れを増す車内、胃の奥からじわじわと染み出る胃液。
うぷ、と口元を抑えた彼の姿が、運転中の執事に見えているはずがない。
しかし、セバスチャンは御者席からくるりと車のほうへと振り返り、2月の風にランプブラックの髪を揺らして楽しげに言い放つのであった。
「坊ちゃん、ヨークを出てビショップソープへ入りました。ロンドンまであと、7時間ほどです」と。
名前は、飽きもせずに贈られてきた薔薇とユリの花を眺め続けていた。
しかし、その二輪は今やキラキラと蝋燭の火に輝く細い透明な花瓶にすっぽりと収められいる。
あまりにぼんやりと花を見つめつづける彼女に気を遣って、アグニが屋敷の奥から美しいダイヤの花瓶を引っ張り出してきて彼女の寝室のサイドテーブルに二輪の花を挿してくれたのだ。
既に入浴と夕食を済ませた名前は寝台の上でぺたりと座り込み、心をぐちゃぐちゃに掻き乱してゆく薔薇とユリの香りにとろんと瞼が重くなるのを感じていた。
いけない─、どうしても、この花の香りを嗅ぐと眠くなる。
ごしごしと目を擦り、先ほどアグニが持ってきてくれたチャイをこくりと飲み込む。
時刻は夜の帳もすっかり下りきった午後23時。
外ではガス灯の光がぼんやりと路地を照らし、インクをこぼしたような空はしーん、と静まり返っている。
人っ子一人いない静かな夜。
暖炉が薪を燃やす音だけがひっそりと室内に満ちている。
名前はうつらうつらと頭を揺り動かしながら、重みを増した瞼をなんとか持ち上げて壁掛け時計へと目を遣った。
カチカチと規則的に時を刻む長針は、一つ、一つと文字盤の上を進んでゆく。
14日が終わるまで、あと一時間。
名前は遂にはぽす、とシーツの上に横たわって、輝かしいガラスに生けられた花弁の輝きから目を逸らした。
寝てはいけない、きっとシエルは帰ってくる。
あと一時間以内には、今日が終わるその時までには─。
「結局、シエルも執事も帰ってこなかったな。」
ソーマはぼすん!とベッドに座り込み、アグニの手渡すチャイを受け取って呆れたようにため息を吐いた。
23時30分。14日が終わるまで、残りわずか30分。
この時刻になってしまっては、名前が彼らに会うには絶望的であると言う他なかった。
何より自分も就寝の準備に入っている上、彼女はとうに自室へ下がってしまっている。
今頃はきっと、虚しい想いを胸に抱いて眠りの底に脚を着いているだろう。
ソーマはガシガシと解いた髪をかきあげて、カップに口をつけた。
「.......だが、まあ。寂しいことに変わりはないんだろうが、午後に届いた花のお陰で多少はマシだったのかもな。あれが届いてからは贈り主のことを考えるのに頭を使ったようだし、シエルがいない寂しさも紛れたかもしれん。」
「.......それにしても本当にあのお花はどなたからのプレゼントだったのでしょう.......」
「まさか!名前が寂しがっているだろうとシエルが贈ってきたものだったりな!」
ソーマはぱあっと顔を輝かせて言うが、アグニは彼の希望的観測は紛れもなく“希望的“な見方であるとぎこちなく口元を緩めた。
切り花を郵便で送るなど、ロンドン市内でなければできぬ芸当。
4日間も帰邸していないシエルがロンドンにいるとは考えにくい。
非常に残念なことではあるが、きっとあれはロンドン市内に住まう名前に想いを寄せるどこかの紳士からの贈り物だったのだろう、と彼はこの小さな謎に終止符を打った。
チクタク、チクタク、
時計の方も、14日という日にピリオドを打ち込むべく非情な針を進めてゆく。
彼はふと時計の長針が[を指そうとしていることに気がつき、あれこれと想像を膨らませているソーマをそっと制して横になるよう促した。
「もう一日も終わります........ご就寝のお時間です。」
ソーマは不服そうな色を見せて黄金の瞳を瞬かせたが、次第に眠気が襲ってきたのか、諦めたかのように大人しくシーツの上に横たわった。
“全く、どこにいるんだろうな、アイツら“
口を尖らせて言う彼にそっと羽毛の掛け布をかけるとアグニは静かに一礼し、寝台から一歩、後ずさる。
「では、お休みなさいま─」
ガラガランガラン!!!!!!
「うわああああああ!!!!」
キキィーッ!!!!
ガシャン!!!!!!!
ドカン!!!!!!!!
「坊ちゃん、深夜ですよ。そのように大きな声をお出しになられてはご近隣の方々のご迷惑になります。」
「うるさい!!お前の運転が荒いせいだ!何度か死んだかと思ったぞ!!」
ソーマとアグニはぱちくり、と顔を見合わせた。
一体何が起こっているのか分からない、と言わんばかりに見開かれた彼らの金色の瞳は目一杯まで瞳孔が開かれ、互いの顔がくっきりと映り込んでいる。
二人が驚きに動きを止めている間にも、階下では不機嫌な少年の荒々しい声と落ち着いた男の低い声が賑やかに壁を打って跳ね返っている。
バン!と性急に正面玄関が開かれた音と共に“姉さん!“とシエルの声が響いた途端に、ソーマはぴょこんと飛び起きて裸足のままに駆け出した。
“シエル!帰ってきたんだな!“
嬉しげに髪を揺らして駆ける彼の後を、慌てて燭台を手にしたアグニも追う。
部屋の扉を開いて廊下へ飛び出すと、蝋燭の小さな明かりの中、ちょうど螺旋階段を昇ってきたシエルがゼエハアと肩で息をして深紅の包みを大事そうに抱えて立っていた。
「シエルー!遅かったな!!」
「引っ付くな!」
ぴょん!といつも通りにシエルに飛びついたソーマは迷惑そうに眉をひそめた彼に顔を押し退けられているが、それでもなおシルクハットごとぐりぐりと彼の頭を撫で回している。
そうこうしているうちに背後の階段から上品な革靴が絨毯を摺る音が忍ぶように鳴って、燭台を手にしたセバスチャンが外套を身に纏ったままの姿を現した。
「こいつらの相手をしておけ」
「あっ、おい!シエル!」
するりと猫のようにソーマの腕をくぐり抜けたシエルはセバスチャンにそう命じると、ケープもシルクハットも身につけたままに、セバスチャンから燭台をぶん取り暗闇の廊下の奥へと駆けて行った。
暗闇の廊下の奥へ奥へと、心細い蝋燭の明かりで闇を切り開くように進んでゆくシエルの背で、黒色のケープと大きなリボンが揺れている。
その後ろ姿を追おうと裸足の足を踏みだそうとしたソーマをアグニがやんわりと留めて、言い聞かせるように穏やかな声を彼の頭上に落とした。
「ソーマ様、お二人にして差し上げましょう。」
「.......仕方ない、か。俺は気の遣える男だからな。」
ふわあ、と欠伸をしたソーマに“お気遣いいただき、ありがとうございます“とセバスチャンが頭を下げる。
セバスチャンを見てぎょっとしたソーマは、そそくさとアグニの背後に隠れた。
どうやら、びくびくと震えているあたりを見ると彼は未だにセバスチャンが苦手らしい。
しかし、ソーマは意を決したようにひょっこりと顔だけを覗かせると、おずおずとセバスチャンの機嫌を窺うように小さく口を開く。
セバスチャンはにこりと非の打ち所のない(しかしわざとらしい)満面の笑みを浮かべて彼の言葉に耳を傾けた。
「お、お前も後で名前に会ってやれ。あいつ、昨日しこたまプレゼントを買っていたからな。シエルだけでなくお前にも何か用意しているだろう。」
俺は寝る!アグニ、ついて来い!
変わらずセバスチャンに怯えつつ、ソーマは燭台を手にしたアグニの背を押すように自室へと戻って行った。
主に背を押されたアグニは苦笑いを浮かべながらセバスチャンを振り返り、“セバスチャン殿、お疲れ様でした“とだけ口にしてソーマの部屋の扉を開け、室内へと消えて行った。
ソーマとアグニのきらびやかな装飾の布がぴらりと扉の向こう側へ消えてしまうと、セバスチャンは途端に真っ暗になった廊下で一人、静かに踵を返して階下へと下りて行った。
帰邸したばかりで一息つくこともせず、馬車から飛び出した主は真っ先に姉の部屋へと向かって行った。
今頃は、恐らくバレタインデーのプレゼントの渡し合いをして小さな団欒を楽しんでいる頃合いであろう。
「とっておきのお茶をご用意して差し上げなければなりませんね。」
セバスチャンは外套を脱ぐこともせず、厨房へとその黒色の姿を闇に紛れさせた。
頭の中で茶のブレンドと蒸らし時間、そしてティーセットの組み合わせを思案しながら。
「姉さん!」
バアン!と扉を開けた先では、名前が寝台の上でびくりと肩を跳ねさせていた。
もう眠りにつく手前であったのか愛用の赤いガウンも脱ぎ去られており、純白のナイトドレス姿。
夜着を着た姉の姿は数えるほどしか見たことのない彼であるが、大胆に露出された胸元や細かいレース、細いリボンで絞り上げられた手首がどうにも色っぽく見えて、彼はみるみるうちに顔を赤くして俯いた。
就寝しようと無防備な姿の女性の部屋にバレンタインデーのプレゼントを渡すために押し入るなど、自分のしていることはとんでもなく破廉恥なことなのではないかと今更になって恥ずかしく思えたのである。
たとえそれが実の姉であっても、これは許されぬ愚行なのではないかと。
しかし名前の方は突然の弟の帰りに大きく瞳を見開かせ、唇を小さく開いてベッドから身体を起こした。
ひらり、レースの裾が暗闇に揺れて、白い足首が露出される。
シエルは気まずげにじっと姉の足元だけを見つめて、俯いたまま深紅の紙袋を差し出した。
「どうぞ」
「?」
「どうぞ」
「.......もしかして、」
帰ってくるなり言葉少なに紙袋を差し出す弟に首を傾げたが、彼の真っ赤に染まった首元と引き結ばれた口を見て、名前はおおよその事情を察した。
バレンタインデーは、まだ終わっていない。
時刻は23時50分。
一日は、まだ後10分残されている。
名前はぽろ、と小さな涙の雫を落として紙袋を受け取った。
するとシエルは用は済んだとばかりにくるりと後ろを向いて、ずんずんと大股に扉へと進んでゆく。
"待って!!!"
名前は叫ぶように言って、背後から弟の手を取った。
握った手は小さくて、繊細で、指などは折れてしまいそうなくらいに細い。
けれどファントムハイヴ家当主の証─、ディープブルーの宝石が埋め込まれた指輪をはめた中指は骨ばっていて、どこか男性らしい手に成長しつつあった。
「ありがとうございます。」
ぎゅう、と弟の手を握りこむ。
シエルは無言のままであるが、名前はにこりと満足げに唇を開いて、"私のために無理をして帰ってきてくれたのですね"と口にした。
一方シエルの方はピタリと動きを止めていたが、ぎこちなく彼女の方を振り返ると、"別に"と呟いた。
別に、貴女の為ではない。
彼の言わんとすることはそんな所だろう。
しかし、精一杯の背伸びもぽろりぽろりと涙を溢し続ける姉の前では、どこか格好がつかない。
加えて、さも"急いで帰ってきました"と言わんばかりにケープもシルクハットも脱いでいないせいで、彼がよほど焦って帰邸したことなど、誰の目にも明らかであった。
それも、姉に14日中に会うためだけに下僕の悪魔の力を借りて魔犬に馬車を引かせてまで帰ってきたなどと。
くそ、と自分でも理由のわからない悪態を心の中で吐き、シエルは今度こそドアノブに手をかけた。
どうあれ、プレゼントは14日のうちに渡したのだ。
これ以上、姉の前で恥を晒す理由はない。
しかし冷たい金のドアノブにかけた手を上からやんわりと名前の柔らかい掌に包まれ、シエルは無理に迷惑そうな顔を作って姉を振り返った。
「何か用ですか」
「渡すものだけ渡していなくなるおつもりですか?」
穏やかに微笑んだ名前は扉の隣のスツールへ手を伸ばし、ハロッズの紙袋を取った。
アグニやソーマに渡したものと同じ、ブラウンの包み。
しかし、掛けられたリボンの色は鮮やかなホリゾン・ブルー。
名前はぽろ、ぽろ、と頬を滑り落ちる涙を隠すこともなく、彼にプレゼントを手渡した。
「……」
「私からも。ね?」
呆然と包みを見ていた彼は、すぐにむんず、と紙袋を掴むと頬を更に真っ赤に染め上げた。
耳元まで燃え上がるように赤くした耳を隠すこともできずに扉を開く。
足早に姉の部屋を出ると、彼はぱたん!と扉を閉ざした。
完全に扉が閉じる直前、ちらと見えた名前の目尻にはたっぷりと涙の雫が溜まっていた。
目はうさぎのように鮮烈な赤い色で、頬にはうっすらと涙の筋が浮かんでいた。
しかし、それでも姉の表情に痛ましい所がなかったことが、彼の心を温かく溶かしてゆく。
雪の降りしきるヨークの街で、彼を苦しめ続けた惨めたらしい姉の姿はどこにもない。
このほんの数分の逢瀬が、名前の2月14日を喜ばしい一日に変えたのだ。
まるで魔法にかけられたように、そしてあるいは力づくで、ヒトならざるモノの力を使って。
扉の向こうでは、名前が"ふふ、"と笑う声が聞こえている。
礼を言う余裕すらなかった彼は、自分の口下手さに嫌気を抱きながらもカツカツとヒールを鳴らして名前の部屋を後にした。
これでいい。
姉にプレゼントを渡し、姉からプレゼントを受け取り、そして姉の柔らかな微笑みを聞くことができた。
これ以上のことはないのだ。
暗闇を燭台の灯りだけを頼りに進んでいると、カラカラとカートが廊下を進む音が響き、彼は足を止めた。
灯りを前方へと差し向けると、幾分びっくりしたような表情を浮かべているセバスチャンが紅茶を載せたカートを押して暗闇の中を進んでいる。
その姿は、まるで暗闇からぬうっと這い出てきたように夜の色に染まっていた。
よくよく見れば、この執事も密かに焦っていたのであろうか。
自分と同じく外套を着たまま、まさしく“急いで帰ってきた“という体のセバスチャンをフン、と鼻で笑って彼は足を止めた。
「坊っちゃん、お嬢様と団欒を楽しまれているのでは無かったのですか?」
「用は済んだ。この夜更けだ、これ以上部屋に留まっては姉さんの迷惑になる。」
短く言うと、シエルは再び暗闇にヒールの音をカツンカツンと響かせて自室へと戻って行った。
セバスチャンは、背後から目ざとくシエルの耳元がうっすらと赤みを帯びていることを発見し、“なるほど、“と内心でぽん、と手を打った。
“姉さんの迷惑になる“とは言ったが、結局のところは急いで帰ってきたことを名前に悟られて恥ずかしくなったのだろう。
こういう所は、やはりまだまだ思春期の少年らしい機微ですねえ。
愉快げに人差し指を口元に当てて笑ったセバスチャンは、くつくつと喉の奥で笑声を堪え、すかさず銀色のカートを引いて彼の後を着いてゆこうとした。
しかし、彼が革靴の底で方向転換をしようとしたその隙に、振り返ったシエルがセバスチャンを片手で制す。
彼は執事が面白がっている空気を敏感に感じとったのか、いつも以上に傲慢に口を開いた。
「お前は姉さんに紅茶を持って行け。僕は先に部屋に戻る。」
「御意。」
頭を下げた彼が再び首を上げた頃には、シエルは燭台を手に遥か前方へと足を進めていた。
彼の手で瞬く蝋燭の不安定な火が揺れて、薄ぼんやりと照らされていた廊下の明かりがぐにゃりと歪む。
セバスチャンはふっと息をつくと、今頃は眠気も忘れて室内できゃあきゃあと騒いでいるに違いない名前の元へと、足を早めた。
時刻は午後23時55分。
14日が終わるまで、あと5分の世界。
(ハッピーバレンタインデー/ciel)