ハッピーバレンタインデーU
名前の部屋へと近づくと、中からは“ふふ、ふふ、“と至極嬉しげに笑っているらしい声が小さく聞こえてきた。
それはこの世の幸せを一人で蓄えてしまったかのような、そんな気配すら漂うふわふわと軽い音である。
セバスチャンは予想通り、と一人ごちて重厚なマホガニーの扉をコンコン、と二回叩いた。


「はぁい、」
「夜分遅くに失礼いたします、お嬢様。お茶をお持ちいたしました。」
「セバスチャン!」


彼が扉を開けるまでもなく、室内からバンっ!と勢いよく外開きの扉が押し開けられる。
開け放された部屋の中では、名前が愛らしいローズピンクのルージュを大事そうに抱えて満面の笑みで彼を待ち構えていた。
セバスチャンはカラカラとカートを室内に引き入れ、ぴょこぴょこと後ろをついて来る名前に茶を提供すべく、温めたカップをカートの下段から取り出した。

一方、名前は大人しくベッドの縁に腰を掛けるかと思いきや、扉の隣のスツールからごそごそと紙袋を取り出し、セバスチャンの背後でにこにこと微笑むばかり。
彼は幾分困ったように彼女の方を振り返ったが、ふいにベッドサイドに置かれた花瓶が視界に入ると、にい、と口角を上げた。
しかしそれも一瞬のことで、名前が瞬きをした隙にはいつも通り完璧な作り笑いを貼付けて彼女をベッドに誘導し、ぽすん、とシーツの上に座らせた。


「お嬢様、お茶を─、」
「おかえりなさい、セバスチャン。はい、」

話を聞く素振りすら見せず、ベッドに座ったまま名前はセバスチャンを見上げてブラウンの包みを差し出した。
リボンの色は、深い味わいのあるカトレア・レッド。
幾分小さな包みを恭しく跪いて受けとると、セバスチャンは目を細めて質感を確かめるように手袋越しの指先で包みをなぞった。
固い箱のような物の感触、中身はジュエリーボックスか。
そんなことを考えながら名前を見上げると、彼女は満足げに頷いてぱたぱたと脚を揺らしていた。



「開けてくださいな。」
「ええ、お嬢様にお茶をお注ぎしてから中身を拝見いたします。」


彼は立ち上がってポットを取り出すと、自身の瞳の色と同じ色の茶をカップに注いだ。
トポトポ、と流れ出てきた紅茶がカップの底を打つ音が穏やかに室内に満ちてゆく。
それと同時に、溢れ出すようなアールグレイの香りが広がって、名前はどこか懐かしさに胸をいっぱいにした。
無論、アグニの用意してくれるチャイは大好きだ。
しかし、こうしてたったの4日であっても彼の淹れたお茶の香りを嗅いでいないと、どこか懐かしくこそばゆいような気持ちに満たされる。
たっぷりと香り高いアールグレイの湯気を吸い込んで、名前は差し出されたカップを両手で受け取った。
しかし、口をつける気配はなく、ワクワクと彼の方を見つめている。
セバスチャンはその視線に気がつくと、困ったように微笑んで渋味のあるレッドのリボンをするりと解いた。



「今年も食べ物ではありませんから、ご安心を。」
「毎年お気遣いいただきありがとうございます。..….....これは、」
「カフスリンクスですよ」


セバスチャンは瀟洒なジュエリーボックスに収められたカフスボタンをしげしげと眺めた。
ボックスの中央に鎮座するそれは、オニキスが嵌め込まれた銀枠のカフスボタン。
黒々としたブラックオニキスは、静かな光を湛えてひっそりと輝いている。
それは執事としてあくまで影の存在であろうとする彼の腕元にあっても決して目立ちすぎることのない、品の良いボタンであった。
セバスチャンはほう、と息を漏らすと“お嬢様はセンスが良くていらっしゃる“とどうやら世辞と本心が半分ずつ混ぜられたらしい言葉を唇から紡ぎ出した。


「そうでしょう?シエルにもカフスリンクスを贈りました。あの子のは少し派手なくらいがいいかと思って、パールに金枠のものを。」
「それはそれは........坊ちゃんも今頃はたいそうお喜びになっておられるでしょう。」


その言葉を聞くと、名前はえへん、と自慢げに微笑んでカップのふちに唇をつけた。
その唇はさきほど弟から贈られたルージュを試し塗りしたのか、愛らしいピンクに色付いていて、いつも以上にふっくらと誘うように揺れている。
白磁のカップのふちにぷるん、と唇が当てられると、くっきりとピンク色の跡が刻まれた。
そして、こく、こく、と暖かい紅茶が彼女の喉を伝う度に、細い喉がゆっくりと上下する。
その魅惑的な白い喉笛を見つめながら、セバスチャンはダイヤの花瓶に生けられた二輪の花をちらりとだけ見て、訳知り顔で嘲笑のような、はたまた照れ笑いのような、判別つき難い表情を見せていた。


「そう、あのね、今日の午後に届いたのです。そのお花。」


紅茶を口にして温かな吐息を吐いた彼女が、はたと彼の視線の先にあるものに気がついたように言う。
名前はぐっと腕を伸ばして花瓶の隣に置かれたカードを手に取ると、“見てください“とセバスチャンに漆黒のそれを手渡した。
“your secret admirer“
“貴方の秘密の恋人より“
細長い文字の羅列を視線で辿って、セバスチャンはすぐに名前にカードを返した。
その口元は美しい曲線を描き、まるで人を試しておもしろがっているチェシャ猫のような意地の悪い表情を浮かべている。
名前は、また“お嬢様にカードを贈る奇特な方がおられるのですね“とでも厭味を言われるのでしょうか、と身構えたが、意に反して彼はふっと牙を見せて呆れたように微笑むばかりであった。



「お嬢様、ご存知ですか?」
「?」


セバスチャンが名前唇に人差し指を滑らせて、艶めかしい低音を響かせる。
つう、とピンク色に色づいた彼女のルージュを拭うように豊かな唇をなぞった彼は悪戯っぽく瞳を細めると、名前の頬をするりと撫で下ろした。



「マドンナリリーの開花は7月、イングリッシュローズの開花は春。どちらもこの時期には決して咲くはずのない花です。」




人間の力ではね、
彼の言葉に合わせるように、ボーン、ボーン、と壁掛け時計が0時の時を告げる。
響き渡る時計の鐘は、まるで彼女の頭の中で直接鳴っているかのように大きく深く、その重厚な音色で室内の空気を滑りゆく。
バレンタインデーの終わり、その間際になって、彼女は一日考えても答えの出なかった“admirer“の姿をしっかりと捉えた。
2月15日の早朝。
その一日が、頬を上気させることから始まるなどと誰が予想し得たであろう。
名前はそっとカップをカートの上へ置くと、おずおずと左手を彼の手に伸ばし、きゅう、と手袋に包まれたその細い指先を握ったのであった。
触れた指の先から、言葉にならぬ喜びが少しでも伝わればいい、と願って。




(ハッピーバレンタインデーU/sebasutian)




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