逃走劇


「当主がこんな格好してるなんてバレたらファントムハイヴ家末代までの恥だっ!!」


シエル・ファントムハイヴはその夜、終始落ち着きを失っていた。
平素であればぴしりと背を伸ばして闊歩する彼も、今宵ばかりは度重なるイレギュラーに苛立ったり慌てたり冷や汗をかいたりと、その麗しい面立ちはくるくると目まぐるしく表情を変えてゆく。
ふわふわと足首のあたりで揺れる重たいドレスのスカートは彼の羞恥心をこれでもかと煽り、大きなリボンの巻かれたハットなどは、ただでさえ小柄な自身をより小さく見せてしまうように思えてならない。
いくら潜入捜査であるとはいえ、自らがわざわざ女装などしなければならない理由には今ひとつ納得がゆかぬ上、上流階級出身の家庭教師に紛したセバスチャンが隣で愉快そうにしているものであるから、彼の機嫌はどんどんと急降下を続けていた。

彼の不幸は女装だけに留まらない。
頼りにしていた夜会の女王マダム・レッドは若い燕役の劉と執事のグレルを連れて周囲に男を侍らせ、すっかりパーティを満喫してしまっている。
恐らく、あの状態では援護は望めない。
その上、何故か婚約者であるエリザベスがパーティーに参加しており、早速と“可愛いドレス“を身に纏ったシエルに狙いを定めたらしく、先ほどから追いかけ回されている。
無論、“あの“エリザベスに捕まってしまえば、いくらモスリンたっぷりのドレスにツーテールのバンスで“変装“していたとて、彼がシエル・ファントムハイヴその人であることなどすぐに看破されてしまうに決まっている。
そして、恐らくはそれだけでは済まない─“シエル可愛いー!“だの、“やっぱりあたしのシエルは世界一可愛いわ!“だのと彼の名を大声で広間中に響かせる─ことは、新しい薪を焼べて燃え盛る火を見るより明らかと言っても過言ではなかった。


「女王陛下に顔向けできないっ!!」
「そんな大ゲサな」


エリザベスから身を隠すためテーブルの影に隠れた主人は、きつくテーブルクロスを握り締めてうわあああっ!と喚いては完全に落ち着きを失っている。
セバスチャンは淡々と返事を返したが、シエルは依然として自らの素性がこのパーティーの参加者全員にバレてしまうこと(もとい、ファントムハイヴ伯爵には女装癖があると噂が立つこと)を恐れているらしい。
キッと顔を上げた彼は、荒っぽくセバスチャンに吠え立てた。


「僕に女装癖があるなんて噂になるくらいなら死んだ方がマシだ!とにかく絶対に.......」


“ドルイット子爵は今日も美しくていらっしゃるわぁ。プラチナブロンドが金糸のよう!“


突如として響いたターゲットの名に二人は先ほどまでの緩んだ空気を正し、前方で歓談している二人の女性を鋭く見遣った。
人々の話し声と緩やかに流れる管弦楽器の旋律にガヤガヤとざわめく空気の向こう、派手なドレスの女性が二人、黄色い声を上げている。
羽毛の扇を優雅に揺らしている女性たちの視線の先を辿れば、まばゆいプラチナブロンドの男がラベンダー色のドレスの女を一人連れて、老夫婦と何やら熱心に話し込んでいる。
二人は瞬時にあの男が捜査線上に上がっていたドルイット子爵─アレイスト・チェンバーであると悟った。
シャンタンゴールドのテールコートに、落ち着いたブラックのタイ、首元に輝くブローチはまるで鳩の血を冷やし固めたような毒々しいレッドであるが、それが不思議と彼の儚げな雰囲気にぴったりと嵌め込まれて美しくすら見える。
セバスチャンはしげしげと彼を見つめると、ほう、と口を開いた。

「結構お若いんですね.......」
「挨拶するフリして近づくぞ」


シエルはきりりと真面目な顔を取り戻し、重たいスカートの裾を両手で掴んで立ち上がった。
目前に迫った犯人は、未だ連れの女の肩に腕を回して呑気に歓談を続けている。
今が絶好のチャンス、とばかりに口角を上げたシエルに、続いて立ち上がったセバスチャンはヒソヒソと耳打ちをした。


「男がいては警戒されやすいでしょうから私はここで見ています。教えた通りしっかり淑女を演じて下さいね」
「.......わかってる」


せっかくやる気になったところで、“淑女“のフリをせねばならないことにすぐさまげんなりと顔を青ざめさせたが、シエルはなんとか女物のヒールでコツコツ、と床を叩いて子爵の元へと進んだ。
会場のざわめきに紛れて、一歩近づくごとに子爵と思しき男の声が聞こえて来る。
“ああ、こちらは恩師のお嬢さんで─、“
“ロリーナ・リデルです、お初にお目にかかりますわ“
隣の女を紹介しているのか、やけに上機嫌らしい男のねっとりと鼓膜に絡みつく声に、シエルは忌ま忌ましい気持ちをドレスのフリルに紛れて吐き出した。
守備範囲が広いらしいとは聞いていたが、どうもあの会話を聞く限りは恩師の娘にまで手を出しているらしい。
捜査でもなければ絶対に関わり合いになりたくない相手である。
とはいえ、この男が切り裂きジャックであるとほぼ確定した以上、そうは言っていられない。
シエルは意を決してニコ、とぎこちない笑みを顔いっぱいに貼り付けて、機嫌よさ気に話を続けている子爵の会話に割って入るように口を開いた。


「こ.......こんばんわ、ドルイット子しゃ─、」


突然の挨拶に会話が止む。
マダムとセバスチャンに教えられた通り、少し首を傾げて可愛らしさ(とかいうもの)を嫌々アピールしたシエルは、振り向いた子爵の顔を大きな瞳で見つめようと努めたが─、


「.......」
「.......」


ラベンダー色のドレスを身に纏った女の顔が、屋敷に置いてきたはずの姉と同じであることに気がついてしまった。


「........」
「.......」


女の赤い双眸は、叔母と同じ深い深い紅。
今頃は屋敷で大人しく眠っているはずの姉が心底自慢にしている華やかな紅である。
ルビーを嵌め込んだような両の目はぱちりと瞬きを繰り返したかと思うと、シエルの空色の瞳の奥をじいっと覗き込むように見つめていたが、すぐさま視線をしどろもどろにさ迷わせ、しまいにはどこか申し訳なさそうにちら、ちら、と彼に許しを乞うような視線を送ってきた。


「.......」


シエルは落胆した。
そして同時に、抑えようのない怒りすら沸いてきた。
こちらは常日頃から姉を番犬としての職務に巻き込まぬよう心を砕いているにも関わらず、彼女は自分には内緒でこっそり屋敷を抜けだし、わざわざ事件捜査に首を突っ込んできたのだ。
ここがどれほど危険な場所であるかも知らず、のこのこと切り裂きジャックに近づきまでしている!
彼はこみ上げてきた怒りのままに掌を握り混むとギリギリと歯を食いしばり名前の手を乱暴に掴み上げた。
姉にこれほどの怒りを覚えたことは初めてで、感情のコントロールすら利かない。
なぜ姉はこうもお節介なのか!!
自分がどれほどとろくさく、足手まといになるか分からないのか!!
いっそのこと屋敷に縛り付けてくればよかった!!
彼は一層強く歯を食いしばると、己の職務も忘れて小さくなっている姉を怒鳴りつけた。



「姉さん!!こんなところでっ、何を─!!」
「あーっ、いたーっ!」
「!!」


心臓を縮み上がらせるほどにファンシーな少女の声が、彼の怒りを無理矢理に押しのけるように大きく広間に響く。
エリザベスの甘やかな声音はもはや魔法である。
どんな時でも辺り一帯に響くその通りの良さ、そしていついかなる時も婚約者の耳に届く声量、更にはその押しの強さなど、まさしくただ者でないカリスマ性の顕れであるに違いない。
シエルはエリザベスの声を受けとった瞬間に怒りを焦りに変え、ドルイット子爵の背後に隠れて“くそっ“と悪態を零した。
ちらと声の方向を確認すると、大きなリボンに飾られたエリザベスがこちらを指差しにこにこと見つめている。


「〜っ、逃げるぞ!!」


エリザベスに見つかってしまっては、何より最優先されるのは彼女の追尾を振り切ることである。
シエルは姉の細い手首を力づくで引っ張り、その場を逃げるように後にした。









「そこのあなた達、待ってー!」


人の間を縫って逃げても逃げても、エリザベスは諦めることなく彼らの後を追って来る。
これほどの人混み、そして多様な装飾のドレスに視界が狭められている中で一向に彼らを見失う気配がないあたりはさすがと言うほかない。
赤や黄、華やかなピンク、様々な色彩のドレスと辺り一帯を覆うリボンやフリルの障害物を掻き分けて逃げるも、彼らの体力にも限界がある。
元来、肉体労働に向かないシエルはすでに息が上がっている。
加えて、姉の方も運動が得意でないことを彼は知っていた。
もはや、このまま逃げ切ることは不可能なのではないか─、
このまま捕まって、世間に女装癖のある伯爵として認知されてしまうのではないか─、
そう諦めかけた時、がしっ!と力強い大きな手がシエルの腕を掴み、彼らは前へと引き寄せられた。



「こちらです、お嬢様方」
「!」


会場の熱気に揺れる黒色の髪が彼らの視界を掠める。
彼らが驚きに声を上げる間もなくセバスチャンは二人の手を引くと、敢えて人の集団を迂回して小走りに先へと進んでゆく。
確実にエリザベスの目を欺くよう、シエルや名前と似たようなデザイン、色合いのドレスを着た女性の側を通って逃走経路を確保する様子はさすがとしか言いようがない。
二人はセバスチャンに手を引かれながら、上がる息を何とか抑え込んで先へ先へと進んで行った。
そして遂にある程度エリザベスから距離を保つことに成功すると、休む間もなくセバスチャンは暇そうに立ち尽くしていたボーイの手にある盆とレモネードを目ざとく見つけ、軽く手を翳してきっちりと髪を纏めているボーイを呼び止めた。


「貴方、あちらのレディにレモネードを」
「はい!」


暇で仕方なかったのだろうか、ボーイは元気よく返事をすると軽やかな足取りでエリザベスの前へと立ち塞がってくれた。


“レモネードはいかがですか?“
“え?“


うまくエリザベスの足止めに貢献しているらしいボーイのはきはきとした声と、突然に声をかけられて戸惑っているらしいエリザベスの困惑したような声が交互に後ろから聞こえてくる。
一刻も早く逃げ去りたい彼らはエリザベスが足止めを食らっている隙にそそくさと人波を縫って広間を突っ切ると、なんとかバルコニーへと転げ込むように逃げきった。





「危なかったですね」
「何故僕ばかりこんな目に.......」


ぴゅう、と冷たい夜の風が彼らの髪をふわりと持ち上げる。
名前は露出した肩をなで上げる肌寒さに小さく身震いをしたが、弟の方はそれどころではないらしく、ぐったりとバルコニーの欄干にもたれかかっていた。
名前はゼエハアと大きく肩を上下させている弟を心配そうにあわあわと見ていたが、次第に落ち着きを取り戻したシエルは気難しい表情を浮かべて姉の姿を爪先から頭のてっぺんまでじろりと見遣る。
するとようやっと息が落ち着いたか、よろりと身体を起こすとすっかり平素とは異なった化粧にドレスを身に纏う姉を鋭く睨みつけ、彼は厳めしく口を開いた。


「.......姉さん、説明してもらいましょうか。屋敷で大人しく待っているはずの貴女がなぜここにいるのか。」
「.......あ、あの.......」


弟の冷たいアイスブルーの瞳に睨みつけられると、名前はきゅううっと心臓が縮みこむような胸の痛みを覚えた。
これは、怒っている。
平素からシエルは怒りっぽい方ではあるが、それでも実の姉に対してはここまで怒りを露にすることはなかったというのに、今宵ばかりは尋常でないほどに怒っている─。
名前は、つい先刻まで自分だけおいてけぼりにされた寂しさ、怒りをすっかり忘れてしまったかのようにみるみるうちに瞳に涙を溜めた。
先ほどまでは、彼女自身も弟や執事に対してひどく怒りと苛立ちを覚えていたのだ。
“わたしだってやればできるのに“
“わたしの話なんて誰も聞いてくれない“
自らを襲う理不尽さに、確かに腹を立てていた。
であるのに、こうしてシエルの怒りを一身に浴びると、どうにも申し訳なさや罪悪感が込み上げて、この夜の空気の中に消えてしまいたくなる。
名前は助けを求めるようにセバスチャンを見上げたが、彼は素知らぬ顔で眼鏡のフレームを光らせるばかりであった。


「僕は言ったはずです、“ゆっくり屋敷で休むように“と。」
「だ、.......だって、あの、わたし体調は悪くないって言いまし─」
「誰も貴女の体調なんて心配していない!!“足手まといだから待っていろ“の意味だとなぜわからないんです!!!」
「─!、」


その言葉を吐き出した時、シエルは瞬時に“しまった“と冷静な頭の中では後悔をした。
“誰も貴女の体調など心配していない“
嘘だ、体調の心配はしておらずとも、姉の身は常に案じている。
“足手まといだとなぜ分からないんです“
これは事実だ。しかし、敢えてこんなことを言う必要はなかった。
非情な言葉の刃は、つぎつぎに姉の柔い肌を切り裂いてゆく。
─ああ、姉さんが泣いている。大粒の涙を流して泣いている。
姉の泣き顔は嫌いだ。
彼女は世界で一番惨めになったかのように、世界で一番不幸になったかのように悲痛に泣くのだ。
しかし、せっかくのチャンスをふいに潰された怒り、姉に対する気遣いを無下にされた苛立ちが彼の奥底に巣くって、頭の中ではやめようと思えるのに口をついて出る暴言は止まらない。


「いい加減理解してください!迷惑なんです!貴女が僕について来たって、何の役にも立ちはしない!!」
「そんなおかしな変装のようなことまでして─、僕やセバスチャンにバレないとでも思いましたか!?」
「姉さんのへらへらした顔を見ているだけで虫酸が走る!僕らの生活は遊びではない!貴女はファントムハイヴ家がどれほどの宿業を背負っているか─、どれほど血塗られた仕事を請け負っているか知らない!」
「貴女のようなとろい人は、この家に生まれるべきではなかった!!!」



言い終えた時には、シエルの息は再び上がっていた。
大きく肩を上下させて瞳孔を見開いて姉を睨みつける。
止まらない憤懣のままに無抵抗の姉を傷つけるのはひどく心地がよかった。
まるで自分の苛立ちがすっかり外へ移し出されるようにすっきりとする。
しかしそれ以上に、うさぎのように目元を泣き腫らした姉のたどたどしい視線が心臓をえぐるほどに痛い。


「─っ、」


シエルは視線の先を見つけあぐねて、目線を足元へと落とした。
こうして感情の抑えが利かない自分が嫌だ、すぐに泣く姉が嫌だ、
隣でにやにやと笑っている執事はもっと嫌だ。
しかし、こうする他に心の奥底に巣くう激情をどうにかする術は、12歳の少年には見つけられなかったのだ。
冷たい夜風は、気まずい無言を保つ彼らの間を無遠慮に通り抜けてゆく。
女物のドレスを着て露出している肩にその冷気がひやりと粟立って、シエルは先ほどよりも余計に心が掻き乱されたように感じた。



「......ごめんなさい、」


ぽつりと姉のか細い声がシエルの頭上に落とされる。
それは涙の雫のようにぽつりと落とされたかとおもうと、すぐに消えてしまう弱々しい声だった。
しかし、その悲痛な余韻はじわじわとバルコニー一帯に広がって、彼の心の内側の一番弱い部分にぴりぴりと滲みてゆく。
何も言うことができずに視線を足元に落とし続けていたシエルの視界から、淡いラベンダー色のシューズがこつ、と音を立てて消える。
思いきって顔を上げると、姉は一雫の涙を残して、彼らの前から逃げるように去っていった。
ラベンダー色の薄いドレスがふわふわと会場の奥へ溶け入るように消えてゆく。
大きなレモンイエローのバックリボンが悲しげに揺れたかと思うと、姉の姿はすっかり会場の熱気と色とりどりのドレスの色彩に紛れて、彼らの視界から消えてしまった。



「あそこまでおっしゃらずとも宜しかったのではありませんか?」
「.......うるさい」


執事の窘めるような物言いが気に食わず、乱暴に言葉を返したシエルの眼前にはあのラベンダーの色彩はすっかり消えて、派手なダンスパーティの様相だけが視界を一面に塗り潰してしまっている。
“うるさい、“
もう一度、誰に言うでもなく呟いたシエルは、己の未熟さと姉の陰欝な物言いに掌を強く強く握り締めた。




(逃走劇/Book of Jack the ripper ]X)










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