Melancolia


ふら、と遠心分離機にかけられたような奇妙な揺れを頭に感じ、名前は咄嗟に手すりにしがみついた。
掌に金属の手すりの冷たい感触を得た途端、頭から血の気が引いてゆくような心地がしてくらくらと視界がぼやけてゆく。
これは─、立っていられない、
がくん、と膝から力が抜けると、しゃがみ込むまでは早かった。
廊下のタイルの上に膝が触れる、その冷たさすらもどこか他人事のように感覚が鈍い。
感覚に呼応して鈍くなってゆく頭の働きに抗うことすらできず、胸の奥ではむかむかとした吐き気が渦巻き始める。
徐々にホワイトアウトしてゆく屋敷の廊下の先、やや慌てたように走り寄って来る黒い影のようなものを認識したが最後。
そこで名前の意識は、ぱったりと途切れた。







「ん.......、」


意識の浮上はいつでも突然だ。
前触れもなく、まるで予定されていたかのように瞼がゆるりと上がると、一番に視界に飛び込んできたのはベッドの天蓋を覆うバーガンディーのカーテンであった。
“これは.......、わたしのベッド、“
ぼうっとした頭の端で自らの現在地を確認すると、ずくずくと血流が勢いよく巡るような心地の悪い頭痛が彼女を襲う。
金づちで殴られた感覚にも似ている頭痛と、身体の倦怠感。
指先一つですら動かしたくないほどの怠さにはもう一度瞳を閉ざして眠りの世界へ降りていきたいような気もするが、名前は何とか己を律して身体を起こそうとベルベッドレッドの掛け布を前へ追いやった。
重たい頭を片手で押さえつつ何とか身を起こすと、シャッと軽い音と共にベッドカーテンが外から開けられる。
のろのろと顔を上げると、カーテンを片手にセバスチャンがやや心配そうに眉を下げて立っていた。


「セバスチャン.......、」
「気がつかれましたか。お身体の加減はいかがです?」


彼はそう言うとするりとカーテンの内側へと足を踏み入れ、名前の額に手をやった。手袋の外された右手はそっと壊れ物に触れるように彼女の額に当てられる。
ぴと、とくっついた彼の掌は氷のように冷たく、靄でもかかったかのようにすっきりしない頭には気持ちがよい。
じんわりと熱を吸い取る彼の掌に甘えて頭を預けると彼はやや驚いたように目を見開いたが、つう、と細長い人差し指で額の中央部を撫でた。
“きもちいい。“
冷たい指先が額の上で螺旋を描くように滑ると、くぐもった熱がすうっと引いてゆく。
名前は熱い身体を持て余し、ハァ.......と熱の篭った吐息を唇から零した。


「.......少し熱がおありになるようですね。」
「ここ最近、ずっと熱っぽくて.......でも、臥せってしまうほどではないのです。けれどなんだか気分もすっきりしなくて.......頭も痛いし身体も怠くて........、」
「目眩は?」
「少し。」



セバスチャンは“やはりですか“と呟いた。
てきぱきと背後に停めてあったカートからグラスを手に取ると、硝子の水差しからたっぷりと水を注ぎ、彼女に手渡す。
名前は差し出されたクリスタルグラスの淵に熱っぽい唇を当てると、こくこく、と少しずつ水を喉へと導き入れた。
食道を滑り落ちてゆく水の冷えた感覚に、彼女は初めて自身の喉がカラカラに乾いていたことを知った。
ぺったりと張り付いていた喉の内側には、冷たいミネラルウォーターがするすると滑り込んでゆく。
名前が乾いた身体の内側を潤そうと水をちびちびと飲んでいると、セバスチャンはその横で、カートから茶色い遮光瓶と中に黄色い油のようなものが入った硝子瓶を取り出した。
二本の瓶を名前の顔の前で軽く振ってみせると、瓶の中に錠剤でも入っているのだろうか、カラカラと軽快な音が鳴る。
彼は遮光瓶の蓋を開けると小さな薄ピンクの錠剤を掌に二粒ほど取り出すと、名前に手渡した。


「昨晩はよくお眠りになれましたか?」
「いえ.......、少し夢見が悪くて眠れなくて」


言うと、名前はごしごしと目を擦った。
常に不眠症ぎみで眠りの浅い彼女であるが、昨晩はよほど眠れなかったのか、目の下にはくっきりと濃いくまが刻まれている。
そのおどろおどろしい紫色のくまをそうっと指先でなぞると、名前は手渡された錠剤をぼんやりと見つめた。
薄いピンク色の錠剤。
遮光瓶のラベルには「ドクターウィリアムのピンク・ピル」とラベルが貼られている。
掌に置かれた二粒の錠剤は、たまにこうした不可解な倦怠感や頭痛に貧血、気分の落ち込みに見舞われた際に彼女がいつも服用する薬であり、セバスチャンも在庫を切らさぬよう常に気を遣っている薬の一つでもあった。


「クロロシスですね。ここ数日は少々お忙しかったですし、じきに五月になりますからね.......」
「クロロシスなんて古臭い言い方をしないでください─、“恋の病“ですわ」


名前がむくれつつも大人しく錠剤を口にしたのを見届けて、セバスチャンはふっと苦笑した。
彼の言うクロロシス─別名では萎黄病というが─とは、はっきりとした原因は定かではないものの名前くらいの歳のレディに多い病であり、症状は倦怠感、息切れ、貧血、食欲の低下、頭痛、ヒステリーなど多岐に渡る。
不思議と未婚女性ばかりがこうした不可解な身体の不調を訴えるため恐らくは病というよりは少女特有の心理的憂鬱が原因ではあろうが、巷にはクロロシスのレディで溢れ返っていることもあり、一種の通過儀礼病のような扱いを受けている厄介な病である。
多感な少女時代に多いことも手伝って、世間では「恋の病」などと可愛らしい言い方をする者もあるらしいが、恋愛の悩みごときで床に臥せることになるとは人間も大層なものだ、と彼は肩を竦めた。


「恋の病、ねえ。どなたかお好きな方でもおられるので?」
「知っているくせに、本当に意地悪な人ですね」


微熱にやや蒸気した頬をむうっと膨らませた名前は、からかうように言うセバスチャンに言い返すともう一度グラスから水を少し口にした。
いつも以上に眠たげな瞳はうるうると潤んで、彼女の体調の悪さは一目瞭然。
頭の痛みが引かないのか、時に瞳をぎゅうっと閉じたりなどしている。
まったく、あの弟にしてこの姉ありか─。
しょっちゅう環境の変化についてゆけず体調を崩し喘息の発作を起こす主と、毎年決まって五月に臥せってしまう名前に姉弟らしい繊細さ(無論、皮肉である)を見出だし、セバスチャンはこっそり、やれやれとため息を吐き出した。

とかく、クロロシスは薬を飲み、ゆっくりと休養を取る以外に打つ手はない。
これは当分、名前のピアノのレッスンや茶会参加は控えた方がよいか、とセバスチャンはつらつらと人間の優に十倍は優れた脳内で考えながら、先日読んだ医学書の内容を思い返していた。
セバスチャンが医学書を何冊か読んで仕入れた知識によれば少女の萎黄病は歳を経て婚約者を得、家庭に入れば徐々に治まるそうであるが、いつまでたっても見合いが上手く進まない名前の萎黄病はいつになっても治まりそうにない。
更に言えば、彼女は不思議と五月に入ると平素の不眠がいっそう加速して一睡もできない日々が続くため、どうにも名前の萎黄病は四月の末から五月にかけて起こりやすい。
セバスチャンは“今年もこの季節がやってきたか、“と何度でもため息をつきたい気分になりながら、気怠げに枕に頭を沈み込ませている名前を横目で見てもう一方の硝子瓶の蓋をも開け放した。


「念のため、ひまし油も飲んでおきましょう。」


キュポン、と開け放たれた蓋からは、何ともいえない嫌な匂いがゆっくりと立ち上る。
名前は、即座に硝子瓶から顔を背けた。
焼けただれたコークスのような、ピーナッツが大炎上した後のような、とにかく胸がムカムカする気持ちの悪い匂いが瓶の口からじわりじわりと室内に充満してゆくようで、名前はうっ、と手で口と鼻を押さえた。
ひまし油を飲めば元気になる、と幼少の頃より体調の優れない時には飲まされてきたが、どうにも嫌なトウゴマの匂いがするのと、喉にべったりと張り付くような油の感触が気持ちが悪いので名前はひどくこの油を嫌っている。
一般的には大麦湯に混ぜるだとか、オレンジジュースやミルクに混ぜて飲めば匂いも感触も気にならないと言われているが、名前の体感では何に混ぜてもまずいものはまずい。
彼女はうう、と小さく唸ると、執事におねだりをするように上目遣いで見上げ、“あの、“と小さく口を開いた。


「あの、飲むのなら卵酒にしてください.......ちゃんと砂糖も入れて、カラント・ジェリーも入れてくださいな」


名前が言った瞬間、執事は人の良い笑みの裏側で盛大に舌打ちをした。
たかだか油を飲むのにわざわざ卵酒に調理し、ジェリーまで入れろというのだから面倒なことこの上ない。
しかし、名前はこうしなければ頑として油を飲もうとしないので、彼はいつも卵酒を調理するハメになる。
今日とて彼は“ご心配なさらずとも、はじめから卵酒に混ぜてご用意するつもりですよ“と穏やかな笑みを何とか取り繕った。
すると名前はひどく嬉しそうにやった、と笑うものであるから、彼も腹立たしいような満更でもないような、おかしな気分になる。
緩い熱の篭った名前の面持ちは今だうっすらと頬が赤らみ、浅い呼吸をせわしなく繰り返しているが、卵酒が用意してもらえることがよほど嬉しいのか、表情だけはやけに緩んでいる。
“先ほどまで鬱々とした顔をしていた女がこうして多少なりとマシな顔をするなら、調理の手間くらいは安いものでしょうかね、“
セバスチャンはフッと笑うと、我が儘なお嬢様のご所望のモノを用意すべく室内を後にしようとした。
が、一つ愉快な悪戯を思いつき、この我が儘なレディをからかってやろうとにんまりと口端を上げて再び寝台の名前へと顔を寄せる。
彼女はうとうとと少しの眠気がようやく襲ってきたか、瞳はもはや閉じられようとしていたが、彼は彼女の健やかな眠りを守る気はないらしい。
気遣いもなく名前の輪郭を右手でやんわりとなぞると、彼は小さく、囁くように唇を開いた。


「もう一つお薬を飲んでいただきましょうか。お嬢様。」
「.......?」
「よく効くお薬でございますよ、“恋の病“にはね。」



ちゅう、と密やかなリップ音が耳に届いた時、名前は閉じかけていた重たい瞼を無理矢理に押し上げた。
せっかく彼女に舞い降りてきた眠気という名の妖精たちは、突然の口づけに驚いて一目散に四方八方へ逃げて行ってしまう。
名前はきっぱりと覚醒してしまった頭と熱い唇で過去に何度か触れたことのある彼の唇の感触を敏感に感じ取り、思わずぎゅっと両手を握った。
アツい、身体が、先ほどまでとは比べものにならないほどに─、血流が一気に促進されたかのように、全身が燃えるようにアツい─。
何度か口角を変えて口づけられて、彼がようやく満足したのか彼女の下唇を軽く食んで唇を離した時には、名前は恍惚として口も利けないほどに身体から力が抜けていた。
彼がにこりと微笑みかけてやれば、恥ずかしいのか両手で顔をすっぽりと隠してしまう始末。
まさしく狙い通りの効果を得られたセバスチャンはくつくつ、と喉の奥で至極おかしそうに笑うと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ね?よく効く薬でしょう?」
「.......本当に.....っ意地悪ですね.........!」
「滅相もない。私はお嬢様が一日もはやく快復されるのを願うばかりです。」


ゆるりと名前の切り揃えられた前髪のあたりを撫でると、彼は今度こそひまし油の硝子瓶を持って彼女の部屋を後にした。
パタン、軽い音と共に扉が閉まると、名前は“あう.......“と形容のしがたい複雑な呻き声をあげて枕に顔を突っ伏した。
眠れなくなってしまった、せっかく数日ぶりに眠れそうだったのに。
恨めしげにセバスチャンの顔を脳裏に思い浮かべたが、恨むどころか先ほどのキスを思い出してしまい、結局名前は眠れぬ日々を過ごすことになるのであった。
思春期特有、“恋の病“特有の身体の倦怠感と頭痛と、くらくらと現実が遠退くような目眩と共に。



(憂鬱質/sebasutian)






















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