お父様の髪はサラサラのブルネット。
瞳は優しい空の碧。
手は大きくて細長くて、石膏像みたいにつやつやしてる。
わたしは、お父様が世界で一番だいすき。
「お父しゃま!お帰りなしゃい!」
「ただいま、名前。いい子にしていたかい?」
「はいっ!」
大好きなお父様がお屋敷に帰ってくると、単調だった日常に大輪の薔薇が咲くようにぱっと明るくなる。
窓の外に馬車の停まる音が聞こえると、私はレッスン室から大急ぎで逃げ出して広間へ駆けた。
後ろから先生の慌てたように私を呼ぶ声が聞こえるけれど、レッスンなんかに構ってはいられない。
大急ぎで中央階段の手すりに飛び乗りすうーっとお尻で手すり上を滑り降りる。
開かれた正面扉の前、お父様がタナカにスーツのジャケットを預けている姿を目にして、わたしはうれしくて“お父しゃま!“と大きく手を振った。
「こら、危ないだろう名前」
お父様は全く怒ってなんかいない様子で私に言うと、階段のすぐ手前でわたしを抱き留めようと両手を広げた。
ぴょんっと手すりから飛び降りてそのままお父様の胸の中へ飛び込む。
わたしを抱き留めたお父様の腕は細いけれど逞しくて、首筋からはふんわりと爽やかなお庭の匂いがした。
安心するお父様の匂い。
太陽と薔薇と草と、清潔なリネンとシャボンの香り。
眠れない夜もこの香りに包まれると安心して眠れる、わたしの大好きな匂い。
「お父しゃま〜〜」
「全く、.......この時間、お前は発音のレッスンのはずじゃなかったかな?」
「お父しゃまが帰ってこられたのがうれしくて.......抜け出してきちゃいました.......」
「悪い子だ、まだ“お父様“と言えないんだね」
「ごめんなしゃい.......」
「いいんだよ、名前は可愛ければ、それで。」
うまく舌が回らなくて上手に話せないわたしは、毎日発音のレッスンを受けている。
上流階級の令嬢に相応しい言葉と発音の訓練を続けているけれど、五歳になった今でもうまく“お父様“ “お母様“と言えないままだ。
時々は上手に話せないことを周りの子供達にからかわれて悲しくなることもあるけれど、お父様が“名前は可愛ければそれでいい“と言ってくれるから、これでいいのかなあ、と思うようにしている。
上手に話せるようになりたいけれど、お父様の言うことに間違いはないからきっとこれでいいのだ。
わたしはぎゅうっとお父様に抱き着くと、すりすりとお父様の白いほっぺたに頬擦りをした。
「ああ、すまないね。今日のレッスンはこれで終わりにしてやってくれる?」
後ろからずっと聞こえていたけれど聞こえないフリをしていた“お嬢様!“という神経質な叫声に、お父様はやんわりと片手を上げてそう告げた。
お父様の首筋越しに中央階段の方を見遣ると、鬢にほつれの見える先生が大きく肩で息をしている。
彼女はお父様にぎゅうぎゅうと甘えるわたしに視線を向けるとすこしだけ肩を竦めてきびすを返して去って行った。
どうやら、お父様の言う通りに今日のレッスンは終わりにしてくれるらしい。
先生の着込んでいたお堅いブリックレッドのスカートが廊下の先に消えたのを確認して、わたしはさらにお父様の胸にしがみついた。
やった、と小さく笑うと、お父様は大好きな大きな手でゆっくりとわたしの頭を撫でてくれる。
“レッスンをサボったこと、お母様には内緒にできるね?“
小さく耳元で囁かれて、うんうんと頭を振る。
はい、と返事をすると、お父様はわたしを抱え上げて階上へと脚を進めた。
きっとお父様の書斎に連れていってもらえるのだと確信したわたしは、お父様の美しい髪の揺らめきに目を輝かせながら一本一本の髪を弄ってにっこりと頬を緩ませた。
「今回のおしごとは、ディーおじしゃまは一緒だったのですか?」
「ディー?お前は最近、ずいぶん彼のことを気にするね」
お父様の書斎には本がたくさん置いてある。
ズラリと本の並べられた背の高い本棚で飾られた先、窓際にお仕事机があって、お父様は肘掛け椅子にどかりと座って長い脚を机に投げ出して居眠りをするのが好きだ。
そういう時、わたしはお父様のお腹のあたりに乗せてもらって一緒にお昼寝をする。
お母様にはよく“寝過ぎ“だと叱られるけれど、いつもお父様が“名前はこれでいいんだよ“と言ってくれるからお母様に叱られてもあんまり気にならない。
今日も、リラックスしたように机に脚を乗せて椅子に深く腰かけたお父様のお腹へ乗せてもらった私は、お母様に叱られる心配もよそにそわそわと前髪を弄りながらお仕事のお話とディーおじさまのお話をせがんだ。
「だってね、ディーおじさまのことがとっても気になるのです」
「ふうん.......ディーが好きなの?」
「えっ、」
かああっと頬が熱を持つのがわかる。
思わずディーおじさまのお顔を頭に思い浮かべてしまったわたしは、何も言えなくなってお父様の胸に顔を埋めた。
こんなに真っ赤になった情けない顔をお父様に見られたくない。
その一心での行為だったけれど、耳までおなじように赤くなってしまっていたからきっとあんまり意味は無い。
ぐりぐりとお父様の胸に頭を擦り付けてみたけれど、顔の赤みは一向に引かなかった。
「気に入らないなあ.......」
「?」
お父様の胸で頬の火照りを冷まそうと躍起になっていると、頭の上からお父様のちょっとだけ冷たい声が聞こえてきて、わたしは顔を上げた。
ぱち、と瞳を瞬かせると、お父様の宝石みたいな瞳と視線が巡り会う。
声とは裏腹ににっこりと優しく微笑んだお父様は、私のほっぺたをよしよしと指の背で撫でると困ったように言った。
「名前に誰か好きな人ができるのは、嫌だな」
「どうして?」
「お前が結婚して俺の目の届かないところへ行くなんて、寂しくてどうにかなりそうだからね」
「そうなのですか.......?」
「そうだよ。だから、絶対に結婚なんてさせない。お前はずうっと、“お父しゃま“って笑って俺の上で昼寝をしていればいいんだ」
「.......」
ぎゅう、とお父様に抱き寄せられてわたしはすこしだけ混乱したけれど、ぼんやりする頭の奥で“そうなんですね“となんとなく考えていた。
お父様が結婚させないというのなら、きっとわたしは結婚はできないのだろう。
ほんとはちょっと、ディーおじさまと結婚したかったのだけれど─、
そして真っ白なお姫様みたいなウエディングドレスが着たかったのだけれど─、
お父様が必要ないというのなら、きっと本当に必要ないのだ。
わたしは徐々に瞼が重たくなってきて、ふわあと小さくあくびを漏らした。
すると、お父様も誘われたように同じ欠伸をこぼす。
お父様にぽんぽん、と頭を撫でられて、わたしは広いお父様の胸に頭を預けて瞳を閉ざした。
上手にお話できるようになりたい、結婚もしたい。
でも、お父様の胸の中にいればどちらも必要のないもので、お父様の腕の中にいればわたしは幸せなのだ。
まるで魔法にかけられたように夢の世界に引きずられてゆくように、わたしは意識を手放した。
優しい体温と、静かな心臓の音と、春のお庭の匂いに包まれて。
何一つ不安のない世界で、私は息をしていた。
「お嬢様?」
セバスチャンに目を覗き込まれて、彼女はハッと瞳を見開いた。
とろりと蕩けたローズの瞳をぱちぱちと瞬いたかと思うと、ごしごしと指の先でこすって眠気を飛ばそうとしているが、眼球に傷がついてはいけない。
セバスチャンにやんわりと制止されると、名前は気怠げに脚を寝台の上に投げ出してぽやぽやとシーツを胸のあたりまで引き上げて白い裸体を隠した。
「ごめんなさい、寝ていました」
「お疲れですか?.......今日は、いつも以上に乱れておいででしたから.......」
「なっ、み、乱れてなんかいません!!」
意地悪く口元に手をやって笑うセバスチャンに顔を真っ赤にして声を荒げると、名前はシーツを更に目元まで引き上げて赤らんだ頬を隠した。
ぐるぐると巡る先ほどまでの行為を思い返し、“乱れていた“と言われても否定できない己の痴態に更に頬の温度を上げた彼女をよそに、執事は晒されていた上半身を隠すように軽くシャツを羽織り名前を抱き寄せる。
すると彼の首筋から父親からしたものと同じ、春先の庭の香りがして名前はくんくんと彼の胸に顔を寄せて鼻をひくつかせた。
「.......お父様の夢を見ていました」
「先代の?」
「ええ.......貴方、お父様と同じ香りがするのです。.......それになんだか、手つきや声や.......目元も似ているような気がして。」
“シエルにはこの話はしないでくださいね、あの子.......先代の話はタブーみたいですから.......“寂しげに付け足すと、名前は抱き寄せられたままセバスチャンのうなじのあたりを指先でこすって彼の襟足の髪をゆるゆると弄り瞳を伏せた。
大好きだったお父様。
“ずうっと俺の上で昼寝をしていればいい“と、そう言ったのに。
ヴィンセント・ファントムハイヴは彼女を置いて帰らぬ人となってしまった。
“お父様“と上手に発音できるようになった名前は、ぼんやりと自分は彼と結婚するのだろうかと性交に疲れた頭で考えた。
しかし、暗闇の中で怪しく光るセバスチャンの赤い瞳を目にして、馬鹿げた考えを捨てる。
馬鹿馬鹿しい、この悪魔は私と結婚などしない、してくれない。
そもそも悪魔と人間、使用人と令嬢、何から何まで立場が違いすぎる。
名前はセバスチャンが羽織ったシャツの裾をちょいちょいと引っ張って、“お父様の願いの一つは守られそうだ“とぼうっと思った。
「私とあんな淫らなことをした直後に父親のことを思い出すとは、貴女も淫乱でいらっしゃる」
「ち、ちがいますってば!ただ.......本当に貴方がお父様にそっくりなものですから.......私はお父様が大好きでしたし.......」
しどろもどろになって話す名前を最初は愉快そうな視線で照らしていたセバスチャンであるが、次第に彼女が“いかに自分がお父様が好きだったか“を話し始めると瞳に不満げな光を織り交ぜて彼女をみすえた。
面白くない、そう言わんばかりに名前の頭頂部を睨みつけると、遂に我慢ならなくなったか唇で名前の口を封じる。
んっ、と苦しげな声が上がると乱暴に唇を離し、彼はぺろりと名前の唇を一舐めして彼女を胸の中へ閉じ込めた。
「何を怒っているのですか.......?」
「面白くありませんね、いくら父親とはいえ、お嬢様の好きな相手のお話を聞くのは。」
「......お父様ですよ。シエルと同じ、わたしの家族です。」
「貴女にとっては家族でも、私にとっては一人の男です。貴女の魂が他のものに向けられていることが我慢ならない─、いつもは私で頭をいっぱいにしているでしょう?」
「.......すこし独占欲が過ぎるのではないですか?貴方は私にはこれっぽっちも好意を向けてくれないのに、私の好意は全部欲しがるのですから.......」
「悪魔とはそういうものです。」
セバスチャンは枕に頭を預けると、名前の頭の下に腕を潜り込ませて彼女を更に引き寄せた。
彼女もやれやれとばかりにセバスチャンに身体を預けるとゆるりと前髪を撫でられて瞳を閉じた。
大好きなお父様、大好きな執事、この身体を横たえる場所はここでいいのかと─、
一抹の不安と疑心を抱きながら。
「........おやすみなさいませ、お嬢様。」
ふうっとベッドサイドに置いていた燭台の火を吹き消すと、そこはもう月のない新月の暗闇に染められた暗闇。
闇の中でうっすらと浮かび上がる名前のサックスブルーの髪の輝きにキスを一つ落として、彼は呟いた。
「貴女が今後─、しばらくは先代のことを思い出されませんよう.......。」
暗闇で呼吸をする彼女にとって、この世界が父の腕の中と同じ安息の世界であるとは言い難い。
しかし、この悪魔の腕の中は父に守られていたその世界に近しいことは、紛れもなく真実なのである。
それが彼女にとって幸か不幸か、彼にとって好都合か不都合であるかはともかくとして。
(碧の記憶/sebasutian,vincent)