少女たちのさえずりは朝の訪れの音がする。
10時の陽光の差し込む瑞々しい庭園の中心に設えられたティーテーブル。
その中心をぐるりと囲む色とりどりのドレスは、さながらカラーパレットのように鮮やかである。
未だ朝露の名残を留めた薔薇の香りをすう、と吸い込んで名前はゆっくりとウエッジウッドのティーカップを手に取った。
カップの底から立ち上るのは、愛らしさすら感じさせるローズとストロベリーの香り。
美しいストロベリーレッドに色付くその雫も、華やかに視界を彩る。
紅茶に合わせているのか、手にしたカップは木苺の文様に、下部はミルキーピンクのストライプ。
ピンクの上には金の飾り枠がきらりとキュートに輝く。
どうにも近頃、フレーバードティーに凝っているという茶会主催者の彼女の趣味であろうが、大変に洒落ている。
ソーサー、ポットに至るまでぬかりなくセットの茶器。
三段トレイには木苺のふんだんに使われたベリーのケーキに、薔薇のマカロン。
さすがは英国社交界きってのお洒落さんのお茶会だわ、と名前は感嘆の息を吐き出して、しずしずとカップに口を付けた。
マーガレット・バートン、といえば、名前ほどの年齢の少女であれば誰しもが知る英国社交界きっての人気者である。
名門バートン家の愛娘で、キラリと輝く美しい金の髪と華奢な身体つきの端正な少女。
近頃デビュタントを済ませたという彼女は社交界デビュー以降人々の中心に佇み、何人もの少女達を引き連れて茶会を催したりピクニックをしたりと、派手ながらも洒落たイベントを開いていることで有名であった。
マーガレットと友達付き合いをしたいと考えている女の子は星の数ほどいる。
そんな中、今回の茶会に何故か招待された名前は緊張を抱きつつも、新しいドレスを下ろす程度には浮かれていた。
美しい庭園にお洒落なティーパーティ。
前評判は嘘ではなかった。
名前はほわほわと頬を上気させて、茶会参加者達の同じく洗練されたドレスや化粧をきょろきょろと眺めた。
「ねえ、名前さんはどうお思いになられるかしら?」
「え?」
突然に話を振られた彼女は、ぴくりと耳を動かすとカップをソーサーに置いた。
ぐるりと彼女を見渡す8対の瞳にたじたじと落ち着かぬ様子でドレスのスカートを握る。
ジャスミン色のドレスに皺が寄ったところで、名前の隣に腰掛けていた茶会の主催者─、マーガレット・バートンは気の強そうな瞳を瞬かせた。
するとすぐに“メアリーさんのことよ“と彼女にこっそりと耳打ちをする。
メアリー、メアリー・ベッドフォード。
ベッドフォード公爵家の次女である。
何度か茶会やパーティーで顔を合わせたことのある少女の顔をふと脳裏に思い浮かべ、名前はえーと、と前置き的に唇を開いた。
「私はあまり親しくないのですけれど.......、とっても教養のある方だと伺っています。なんでも秋から慈善活動の一貫で養護院の子供たちのガヴァネスになられるとか、」
「“教養“。ふふ、貴女なかなか素敵な皮肉をおっしゃるのね。名前さん」
「え?皮肉?」
「“教養“なんて。貴女だってあの子のこと、賢ぶった嫌な子だと思っておいででしょう?」
「い、いやな子.......?」
どうにも嫌な雰囲気になったことに気がつきあたふたと辺りを見渡す名前をよそに、テーブルは次第に少女たちの嘲笑めいた笑声に満ちてゆく。
鼓膜をコソコソと撫でる生暖かい笑声は、背筋にゾッと悪寒を走らせるようだ。
調律をきちんとしていないピアノを一斉に鳴らしたみたいだわ。
口端をひん曲げて笑う彼女たちの表情に少しの恐ろしさを抱いた名前はすっかり小さくなり、泣き出しそうな表情で隣の席のマーガレットを見遣った。
しかし、マーガレットも一様に意地悪そうな光を瞳に宿してにんまりとほくそ笑んでいる。
名前は一体何事かと、恐る恐るとみなの会話を盗み聞きでもするような心持ちで窺い聞いた。
「女の身で慈善活動をするなんて、どういうおつもりかしら?」
「自尊心を満たしたいんでしょう。彼女、目立ちたがりだもの。」
「前々からいやに鼻につく方だったものねえ.......この間の夜会でもデザートをいただきながらトライフルの歴史なんて話し出して。」
「まあ、虚栄心の強い子。」
「だいたい、女の身でお勉強なんてなさってはしたないわ。なんでもあの子、わざわざ女学校なんかに通っていたみたい。」
「やだわ、あの頭の固そうな眼鏡はお勉強の弊害だったのね。」
「公爵家の次女だからって好き勝手やりすぎだわ。学校に通ったり慈善活動に手を出してみたり.......そのうち、ブルーマー・スタイルなんて言って丈の短いドレスを着たりするかもしれないわよ」
「やあだ、アメリカなんかにかぶれたらいよいよ終わりだわ」
クスクスと悪意に満ちたテーブルの上、所在なさげに佇む薔薇のマカロンをそうっと指先で摘んで、名前は気を紛らせるようにひっそりと口内を薔薇の甘い香りと砂糖の甘さで満たした。
どうやら、この茶会に集まった自分以外の少女たちはみなメアリー・ベッドフォードに敵意を抱いているらしいと悟り、“なんて恐ろしいところにきてしまったのでしょう.......“と密かに背筋に震えを走らせる。
お洒落で、洗練された人々のサロンだったはずの茶会が、次第に意地の悪い女の井戸端会議へと姿を変えつつあることに気がつくと、名前はすっかり恐ろしくなり、目立たぬよう小さく小さく肩を竦めるのであった。
ところで、メアリー・ベッドフォードと彼女は本当に親しいわけではない。
名前自身、彼女とは数えるほどしか話したことがない上に、この夏の社交期には一度も顔を合わせなかった。
しかし、だからと言ってこの場に混じり積極的に彼女の悪口を言う気にはどうしてもなれなかった。
親しくないからこそ、彼女に対する不満など考えたとて出てくるはずもなく、それに何より、こうして本人のいないところでこそこそと意地悪な陰口を叩くのはいかがなものだろうか。
幼少期より“清く正しく美しくあれ“と厳しい叔母からしつけられている名前である。
誰かの陰口を叩くなど、セントポール寺院が崩落したとてできるはずもない。
「ねえ?そう思うでしょう?」
隣から同意を求められた名前は、曖昧に笑おうと口角を吊り上げた。
しかし、嘘の下手な彼女である。
常日頃から執事に嘘を看破されている彼女にうまい愛想笑いなど期待するだけ無駄であり、そしてそれは当の本人も強く自覚している。
名前が“そう“思っていないらしいことは、その場の誰の目にも明らかであった。
「じゃあ、またいらしてね。名前さん」
「ええ........本日はお招きいただきありがとうございました。」
マーガレットにお辞儀をして、名前はバートン家の正門を後にした。
ようやっと気の重いお茶会が終わり、ほっと肩の力を抜く。
アールデコ調の丁寧な装飾に彩られたマーガレットのドレスをちらりとだけ視界に入れると、名前はもう一度振り向きざまに礼をして、カツカツと高いヒールを響かせた。
すぐそこの馬車停めに、セバスチャンが馬車で迎えに来ているはずである。
早く帰って落ち着きたい。
その一心でバートン家の正門階段を下るが、この茶会の参加者の他の迎えの馬車があたりに何台か停まっており、どれが自分の迎えであるかすぐには判別できない。
名前はきょろきょろいくつかの馬車からセバスチャンの乗っているものを探しだそうと、辺りを見渡した。
「ねえ、あの子どうだった?」
「名前・ファントムハイヴでしょう?ずいぶんとぼけた子だったわねえ」
ふと、先ほどの茶会で聞いた底意地の悪そうな囁きが鼓膜を打った。
きょろ、と後ろを振り向いてみれば、グレージュのドレスの少女とビビッドなイエローのドレスの少女が、ヒソヒソとこちらを窺い見ながら声を低めて何やら話し込んでいる。
その音律が確かに先ほどの茶会同様、悪意でコーティングされたものであったことに名前はゾッと背筋を凍らせた。
薔薇の植え込みの陰に隠れるようにこちらを見ている少女たちは、嘲笑を漏らしながら次々に名前に言葉の刃を突き立ててゆく。
“つまらない子“
“いい子ぶってる“
“娼婦みたいな身体“
“それで男性を誘ってる“
“根暗っぽい“
“楽しくお話もできない“
留まることのない陰口は、名前の脚を地面に縫い付ける。
すっかり動けなくなってしまった名前は、目頭が熱くなるのを感じていた。
「ファントムハイヴ家の人間だからって、呼ばなくてよかったんじゃないの?」
「マギーのお母様たってのご希望だったそうよ。ファントムハイヴ家と繋がりが欲しいのですって。」
「ということは、これからのお茶会全部にあの子を呼ぶのかしら」
「そうだと思うわ。」
「ええ.......嫌ねえ、場が白けるじゃない」
「同感。」
これ以上は、もう聞いていられなかった。
ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
どうして私がこんなことを言われなくてはいけないの。
一体私が何をしたというの。
怒りこそあれ、内気な名前は彼女たちに反撃する術を持たない。
その隙にも彼女たちのお喋りな口は淀みなく回りつづけ、名前をじりじりと追い詰める。
“ご両親はお亡くなりになったみたいだし、あの家は変わってるわよね“
“ああ、覚えてる。2年前の火事でしょう。変わってる家だし、誰かの恨みでも買ってたんじゃない?“
どうして、お父様やお母様の悪口まで言われなくてはならないの─、
ゆらりと膝から力が抜けた。
スローモーションのように視界の動きが停止して、辺りの音が遠のいてゆく。
ガツンと後頭部を何かで殴られたような衝撃的な悪意に瞳を閉じて、名前は身体中から力を手放した。
ぐらり、今日のために下ろした新しいドレスの裾が地面に擦れる。
するすると地面に吸い寄せられるように崩れ落ちそうになったその時、ガシリと腕を掴む者があり、名前は涙に濡れた瞳で恐る恐ると顔を上げた。
「セバスチャン.......」
「お嬢様、お迎えにあがりました。」
彼は、辺りに小さな悲鳴のような少女たちの黄色い声が上がるのにも気にせずごく平然と彼女を抱き上げた。
“きゃあ“と媚びたような、いかにも女の卑しさのようなものが透けて見える声音に、名前はぎゅっと身を固くする。
また悪口を言われるんじゃないかしら─、
涙の滲む瞳を強く閉ざすも、セバスチャンは何一つとして気にしていないような顔で、コツコツと革靴の底で地面を鳴らして馬車へと脚を進める。
辺りは先程までの喧騒が嘘のようにしいんと静まり返っていた。
誰もが、この美しい執事の一挙手一投足から目が離せぬというように。
呼吸すら忘れて黒色の彼と、その腕に抱えられたジャスミン色のドレスの彼女に見入っている。
セバスチャンは無表情な御者の乗る屋根付きのブルーム馬車の扉を開くと、その長い体躯を押し込むように乗り込んだ。
車内のふわふわとした上等なソファに名前を下ろすと、自らも彼女の隣へと脚を窮屈そうに曲げて座り込む。
ぼふん、とソファの赤い生地に名前の体が沈み込むと、彼はチラと彼女の目尻に溜まった涙の雫を視界に入れて、扉越しに外を鋭く睨みつけた。
馬車の扉から“出してください“と御者へ呼びかけると扉をパタンと閉める。
外の意地悪な喧騒と沈黙を締め出して、馬車は静かに静かに、その場から彼女を連れ出した。
コツコツと馬の蹄が石畳のストリートを打ち付ける音に身を任せて、名前はすっかり憔悴して瞳の光を無くしていた。
どうして楽しいはずのお茶会でこんな想いをしなくてはならないの。
どうして誰かの悪口なんかでおいしいスイーツを台なしにしなくてはならないの。
何度脳内で反趨しても、先程の出来事は心にべっとりと煤を塗るように彼女の気持ちを落ち込ませる。
そして何より、大好きな両親─それも故人である─の陰口を平然と言ってのけた彼女たちに何一つとして言い返せなかったことが悔しくて悔しくて、たまらないのであった。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
隣からセバスチャンが彼女の前髪をつるりと撫でて言う。
名前はぼそりと、掠れた声で“最高です“と呟いた。
「.......おおよそのことは見当がつきますが。何か粗相でもなさったのですか。」
「ええ、.......とんでもない粗相だったのかもしれません。周りの方に合わせて悪口が言えなかったのです。」
じわり、とまた新しい涙の雫が目頭に滲む。
セバスチャンは名前の肩を優しく包むと、そっと彼女を抱き寄せた。
彼も、名前が周りから疎ましがられやすいことは重々と承知している。
極端にとろく、毎日幸せそうにへらへらとしている彼女が周りの人間の苛立ちを煽りやすいことは実際に事実であり、時に弟のシエルですら仕事が忙しい時などは姉を疎ましそうな目で見ていることが多々ある。
しかし今日のようなあからさまな悪意に晒されては、いかに疎ましがられ慣れている名前とて深く傷つくことは明らか。
それも、彼女たちファントムハイヴ家にとってデリケートな問題─亡くなった両親のことを持ち出されたとあっては。
さすがに、卑劣な陰口であったとセバスチャンも認めるほかない。
そして彼を今怒らせているのは、さして名前と親しくもない人間の群れが彼女を深く深く傷つけたということである。
一介の人間が名前の心に消えそうもない傷をつける。
たかが、たかが人間が!
セバスチャンは名前の泣き腫らした目尻にギリ、と牙を食いしばった。
この女をこうして泣かせて良いのは自分だけだ。
この女に傷をつけてよいのは自分だけだ。
他の─、それも人間などに自分の玩具を弄ばれるなど!
セバスチャンは今すぐあの場の少女たちの首を飛ばしてしまいたい衝動に苛まれ、名前の後頭部を強く抱きしめた。
「人間というのは、優れた他者を妬む生き物ですから。陰口の一つや二つ叩かなくては自己を保つことすらできないのです」
吐き捨てるようにセバスチャンが言う。
名前は彼の胸の中で、ぼろぼろと涙をこぼしながら“でも、私は他の方に妬まれるような優れた物は何一つ持っていないのに“と涙にしわがれた声でぜいぜいと零した。
「見せしめ、でしょう。同調できない人間として異端審問にかけられたということです。─哀れなお嬢様。悪口くらい、他の方に合わせて適当におっしゃればいいものを。」
ぐす、と鼻を啜っただけで、名前は何も答えなかった。
セバスチャンとてこんなことを言いながらも理解していた。
この娘に他者の陰口など叩けるはずがないと。
蝶よ花よと育てられ、両親の愛情を一身に受けて育った彼女に、誰かを“妬ましい“と思う気持ちなどそうそう生まれるものではないと。
しかし無防備に他人に傷つけられた彼女に、怒りの矛先がお門違いと知りながらも向いてしまう。
彼はチッと彼女に悟られぬよう舌打ちをして、名前の赤く腫れた目尻にキスを落とした。
「お気になさいませんよう─、と言う方が残酷でしょうが。本日の出来事はお忘れになることです。」
「.......はい、」
「レディ・マーガレットのお誘いは、今後お断りするということでよろしいですね?」
「.......はい、」
答えて、名前はワッと泣き出した。
彼の胸にワンワンと泣きついて“あの子たちと仲良くなれると思っていたのに“と悲痛にしゃくりあげる。
セバスチャンは、何も言わずに彼女の後頭部をぽんぽんとあやして瞳を赤く燃え上がらせた。
二度とあの人間たちに彼女を近づけはしない─。
彼女を社交界になど出してたまるものか。
名前が望むと望まないとに関わらず、不必要に茶会などに出すまい、と強く手の甲の紋章に誓って、彼は窓外の景色を睨みつけた。
窓の外のロンドンは、二人を嘲笑うような快晴。
雲一つないスカイブルーの空にセントポールの鐘が低く鳴り響いて、鳥たちの羽ばたきが遠くで聞こえる。
賑やかなマーケットを足早に通りすぎ、往来の賑やかな喧騒に背を向けて彼らは先を急ぐ。
馬車の揺れと車輪の回る音とが永遠の時のように感じられる車内で、二人は身を寄せ合って各々悲しみと怒りを持て余し、タウンハウスへの道中を消費するのであった。
(Queen Bee/sebasutian)