耳元でぴょこりぴょこりと揺れる作り物のウサギ耳を少し気にしつつ、名前は自室のソファに腰かけた。
ずしん、と身体が沈み込むような感覚に身を任せると耳の横でウサギ耳がまたゆらりと揺れる。
彼女は忌々しげにだらしのない垂れ耳を掴んで、盛大なため息をついた。
エリザベスからの御達示でイースターの今日一日はみながこのウサギ耳のカチューシャを身につけることとなったが、名前が手に取ったウサギ耳は中の針金がうまく伸びていないのか耳がたらりと垂れ下がってしまっている。
他の皆は耳がぴしりと伸びたネザーランドドワーフ風であるのに、名前一人だけが耳の垂れたフレンチロップ風のウサギの仮装となってしまい、彼女はそれを内心ではひどく気にしていた。
エリザベスは“お義姉様かわいいわ!とっても似合う!“としきりに彼女の垂れた耳を褒めてくれ、エドワードも“この中で垂れ耳が似合うのはお前くらいだ“と慰めのような言葉をかけてくれたが、やはり一人だけ耳が垂れているとどうにも格好がつかない。
その上、フレンチロップなんていかにも動きが鈍くてまるで自分とそっくりなような気がして、余計に自己嫌悪に苛まれるのであった。
どうにも嫌な気持ちになってこっそりイースターパーティをしていたローズガーデンから抜け出して来てしまったが、自らのその行いすら子供っぽく馬鹿らしい気がして、自室に戻れば自己嫌悪は治まるどころか増してゆく。
“どうしてこんな事をしてしまったのでしょう。“
“こんな些細なことを気にして、馬鹿みたい。“
気にしないようにすればするほど、底なし沼に足をとられるように卑屈の深みにはまってゆく。
“きっとみんな私のこと、馬鹿な娘だと思っているわ“
“誰にも告げずに部屋へ下がったりして─、もう庭に戻れません“
すっかりしょげてしまった彼女に呼応してうさぎ耳もしょんぼりとその耳を文字通り垂れ下げている。
きっと彼女のそんな姿を見れば、あの悪魔の執事や筋金入りの意地悪なグレイ伯爵は腹を抱えて笑うだろう。
ロンドンの霧のように曇りがちな薄暗い気分をうまく消化できず、名前はぺたりと頭とうさぎ耳を下げて座り込むしかないのであった。
そうしてどれほどの時間、うじうじとぺールグリーンとホワイトのストライプのスカートの裾を弄って塞ぎ込んでいただろうか。
少なくとも時計の短針が優に一周はしたのではないかと思ったその頃、変わらずスカートの裾をいじいじと弄っていた名前の耳に、控えめなノックの音が響いた。
「.......」
名前は知らんぷりをした。
どうせ、セバスチャンが誰かに頼まれて彼女を呼び戻しにきたに決まっているからである。
そして、恐らくはこの室内に彼女と自分以外には誰もいないのをいいことに、子供のように拗ねて塞ぎ込む名前に冷たい言葉を浴びせ掛けて馬鹿にするのが目に見えている。
絶対に返事なんてしてやるもんですか、
ささくれ立った気持ちのままぎしりと開かれた扉の音を流し聞いていたが、背後から“お嬢様、“と予想通りの人物の声が聞こえると、彼女はぷいっと顔を逸らした。
「.......お嬢様、庭にお戻りになりませんか?」
まるで彼女の機嫌を取るように、うさぎ耳のカチューシャをつけたセバスチャンが優しい声音で言う。
“坊ちゃんが真っ先にお嬢様がいないとお気づきになりましたよ。他の方も心配しておられます“
何を馬鹿なことを、と名前は思った。
きっとシエルは下らないことを気にして自室へ下がった彼女に呆れているに違いないし、他の人たちも心配どころか、今頃は彼女の拗ね具合を話しのネタにせせら笑っているに決まっている。
名前は変わらずスカートの裾とそこに誂えられた繊細なビーズ刺繍を人差し指と親指でつまんで弄っていたが、セバスチャンはそんな彼女の様子をちらと見ると彼女の顔の方へ無理矢理に回り込んで、困ったように眉を下げて口を開いた。
「本日のためにお可愛らしいドレスを仕立てられたではありませんか。よくお似合いですし、もう少し皆様に新しいドレスをお見せしては?」
「.......」
「お嬢様が気にされているうさぎ耳も、たいへん似合っておいでですよ。フレンチロップのような穏やかな雰囲気がお嬢様にぴったりで。」
「.......そ.......き、」
「はい?何とおっしゃいましたか?」
「.......嘘つき.......」
ぽつりと名前はしょんぼりと頭と耳を下げたまま呟いた。
セバスチャンは彼女の恨みがましげな言葉を受け取ると、“さて、困りましたね“と一人ごちて名前のうさぎ耳を優しくつまみ上げ、他の皆と同じネザーランドドワーフ風に上へと立てて見せる。
セバスチャンは俯いたままの彼女に気遣いすることなくその立てた耳をしげしげと見ていたが、すぐにパッと手を離して彼女のうさぎ耳をフレンチロップの垂れ耳へと戻してしまった。
「私は嘘は申しません。やはりこちらの方がお可愛らしいですよ。穏やかでのんびり屋で人懐こいフレンチロップ、まさしくお嬢様にそっくりではありませんか。」
「.......だって、嫌です.......とろい所ばかり似ていて.......」
「おや、似ているのはとろい所ばかりとは限りませんよ?」
セバスチャンはにっと微笑むと、すっかりしょげて睫毛を下げている名前の前で続けざまに口を開いた。
その口ぶりは穏やかながらもどこか生き生きとしていて、思わずその優しい声に聴き入ってしまう。
彼女は落ち込んでいたことをほんの少しだけ忘れかけて、彼の言葉の美しいバリトンの響きを耳で追った。
するとセバスチャンが自分を愛おしそうに見つめてくるので、少しばかり落ち込んでいた心の色を恥じらいに塗り替え始めたその時、セバスチャンは名前の頭をよしよしと愛玩するように撫でた。
「フレンチロップは飼いウサギの中では最も人気があります。おとなしく飼いやすいことがその主たる理由であると言われていますが.......」
「は、はい、」
大人しくて飼いやすく、人気─、“お嬢様と同じく愛されるウサギです“とでも言ってくれるのだろうか、と名前がそわそわとし始めると、セバスチャンは“ですから“と言葉を続けた。
「フレンチロップを飼われている方から聞きますが、この種のウサギは大型で太りやすいことだけがネックだと。」
「.......はあ、」
「ね?お嬢様にそっくりでしょう?太りやすい、とろい、共通項が二つも。」
眩しい笑顔で言ったセバスチャンに、名前は“ひどいです!!“と一つ叫んでぽろりと涙を流した。
こんなものは、慰めどころか追い討ちだ。
珍しく優しく話しかけてくるものだから少し期待していたが、やはりこの執事の本質は性悪である。
名前は“ひどいひどい、“とそれこそ子供のように泣きじゃくりながら両手で涙を拭っていたが、セバスチャンはその横で意地の悪い顔をして今にも噴き出しそうに肩を震わせて笑っている。
ひとしきり名前の泣きじゃくる様を楽しむと、彼は“ああ、おかしい“と喉の奥から搾り出すような声で呟いて、彼女の肩をそっと抱いた。
「申し訳ありません、お嬢様があまりにお可愛らしいので少し意地悪をしてしまいました」「も、もう騙されませんから.......!どうせ嘘なんで─、」
「私は嘘は、申しません。」
しい、と人差し指を名前の唇に優しく当てると、セバスチャンは挑戦的に微笑んだ。
その動作にぐっと黙り込んだ彼女に“いい子ですね“と囁くと、彼は名前の垂れ下がったウサギ耳と泣いて真っ赤に腫れかけた目を交互に見つめて口端を上げた。
「赤い目に垂れた耳の可愛いウサギさん、お可愛らしいですよ、名前様」
「う.......、」
「どうしようもなく加虐心を煽られますねえ.......ウサギ小屋で生涯飼って差し上げたい」
「う、ウサギ小屋.......!?」
不衛生な藁を敷き詰めたウサギ小屋に押し込められる自身の姿を想像してぞっと顔を青ざめさせた彼女は、わたわたと血相を変えて“小屋は嫌です!せめてお部屋に.......!“と慌てたが、その必死な様子があまりに愚かで愛らしく、セバスチャンは今度こそ短く噴き出して笑った。
肩を震わせて笑うと、彼は名前の頭を垂れ耳ごと撫で下ろして“貴女が望むのならどこへでも“と微笑んで、ポケットにしまっている懐中時計を取り出す。
ぱか、と銀の蓋を開くと、時刻はまだ名前が庭を離脱してからそうは経っていない。
セバスチャンは名前に時計の繊細な文字盤を見せると、意味ありげにウィンクをしてみせた。
「時間はまださほど経っておりません。どうなさいますか?ウサギさん。」
今ならば、誰かに勘付かれることなく容易く庭へ戻ることができる─。
つまりはそう言いたいのであろう。
名前はぐっと掌を握ると、そろりそろりと立ち上がった。
差し伸べられた執事の手を取ると彼女は刻まれた涙の跡を気にしてしきりにごしごしと頬を擦ったが、彼は心配ないとでも言うように名前の指先を親指の先で撫で下ろす。
執事は固く閉ざされていた彼女の私室の扉を容易く開け放すと、“さあ、“と名前を白光に満ちあふれる部屋の外へと連れ出したのであった。
「あ!名前お義姉様が戻ってこられたわ!」
中庭扉をそっと開けて皆が食事をしていたローズガーデンへ戻ると、エリザベスがぴょこぴょことうさぎ耳を揺らして駆け寄ってきた。
どすん!と抱き着いてきた彼女を抱き留めると、年若い従姉妹は彼女の唇をじっと見つめて“まあ!“と歓声を上げる。
名前は涙の跡や血色を失った唇から部屋で拗ねて泣いていたことを悟られるのではないかと身構えたが、エリザベスはにっこりと瞳を細めて“素敵!“と一際嬉しそうに微笑んだ。
「お化粧を直してこられたのね!お義姉様のルージュ、とっても可愛いー!!」
え、?と疑問を差し挟む隙はなかった。
どちらでお買い求めになられたの?どのメーカーのもの?ファントム社の新商品かしら?
エリザベスの怒涛の質問攻めにたじたじとしていると、したり顔で彼女の隣へ歩みよってきたセバスチャンがエリザベスに人の良い笑みで語りかけた。
「レディ、こちらはお嬢様が数年前にパリでお買い求めになられた商品でして.......残念ながら現在では廃盤になってしまったものでございます。」
「そうなの?残念.......、でもとってもとーっても可愛いわお義姉様!」
“わたしもお化粧を直してこようかしら!“
言うと、彼女は連れて来ていたポーラの元へ軽やかに駆けて行った。
恐らくはルージュを塗り直すか、パウダーをはたき直すかするつもりなのだろう。
うさぎの跳ねるように去って行ったエリザベスの後ろ姿を呆然と見ていた名前であるが、セバスチャンがさも“上手くやりました“と言わんばかりの笑みを湛えているのに気がつくと動揺しがちに彼を見上げた。
「私、お化粧なんて直してな......」
「ファントムハイヴ家の執事たるもの、お化粧くらいスマートに直せずにどうします?」
満足げに言う彼に疑心を抱きつつ人差し指で己の唇に触れてみれば、ぺたりと指先にオイルのルージュが馴染んでゆく。
あら、と人差し指を見てみれば、ほんのりと血色のよい紅に色付いていた。
いつの間にルージュなんて引いたのかしら─、
きょろきょろと焦ったように彼を見上げるが、執事はただ無言でにこりと微笑むばかりだ。
真相は悪魔のみぞ知る。
結局のところ、彼が不可思議な力を使って名前の化粧をいつのまにか直していたと納得するほかない。
名前はありがたいような気味が悪いような複雑な気分になりながら、彼に礼を言った。
「姉さん、」
「.......、シエル!」
カサカサと芝を踏み締めてやってきた弟の声に、名前はぴくりとうさぎ耳を揺らして反応した。
振り返れば、リジーと揃いで仕立てたイースタースーツを身に纏ったシエルが春風に髪を靡かせて立っていた。
その大きな瞳はじっと名前の瞳を見つめ探るように頬へ視線を移したが、花のように色付いた唇を空色の眼に映すと、彼はやや安堵したように口を開いた。
「突然姿が見えなくなったのでどうしたのかと思いましたが─、詮索は不要なようですね」「あ、ええ、そうですの。ごめんなさい、心配をかけて。少しお化粧を直していただけなのです。エッグハントでムキになってしまったものですから、ルージュがよれてしまって。」
ねえ、?と慌ててセバスチャンに同意を求めると、彼は“嘘はついていない“と言わんばかりの表情でにこりと彼女に微笑みかけた。
シエルはセバスチャンを疑うように猜疑の目を向けていたが、姉の言葉を信じるようである。
ほう、とため息のような安堵の吐息のような物を吐き出すと、シエルは側にあったガーデン用の椅子を手で引き寄せどかりと座り込んだ。
彼女もそれにならって手近の椅子に腰掛けると弟は膝の上に肘を付き、言いにくそうに視線を足元へ落としてぼそぼそと口を開いた。
「.......その、今朝から調子が悪いようでしたので.......、少し気にかけていました。それだけです」
「まあ.......、なんて優し─、」
「優しいわけではありません。ただ─、客人の前で弱いところを見せられては困ると思っただけです。」
特に、グレイ卿がいる以上は。
苦々しげにぼそりと吐き出したシエルにくすりと笑うと、名前はにこりと彼の手を握った。
彼女にはこの気難しい弟の言わんとすべき事がすべて手に取るように理解できていたのである。
客人の前で弱みを見せるな云々などといっていたがそれはあくまで建前であり、シエルの本心はたった一人の姉の身を心配していたのだ。
可愛い頬をほんの少し赤らめているのが、その何よりの証拠であった。
「大丈夫ですよ。私、もう誰にも弱いところなんて見せませんから。」
貴方とセバスチャン以外には、絶対ね。
名前は彼の頭をよしよしと撫でて、くすりと笑みをもらした。
そして、春風が肌を撫でる感触に瞳を閉じ、先程までの自身の弱みを深く深く胸の内に押し込める。
私はシエルのお姉さんで、ファントムハイヴ家の長女なのだ。
もう無邪気な学生ではないし、わがままを許される子供ではない。
些細なことに傷つきがちな弱い自分は、今日のこの日だまりの中へ置いていこう。
可愛いシエルやエリザベスに心配をかけてまで拗ねて部屋に閉じこもっていたことが急に馬鹿らしくなって、名前はすっくと立ち上がった。
芳しいスプリングローズの香りに満ちた空気を胸いっぱいに吸い込むと、体の先にまで春が芽吹いてゆくような、先程までの鬱々とした気分が乾かされてゆくような、そんな気がする。
垂れ下がったうさぎの耳をぴょこりと揺らすと、名前はシエルの手をぎゅうっと握った。
この春の日に誓ってくだらないことで貴方を心配させたりはしないと、
そう誓うかのように。
(Honey bunny/sebasutian,ciel)