「―で、ここどこ?」
「あんたさっき知ってる風だったわよね!?」
霧のロンドンに相応しく、一歩馬車から足を踏み出せばやや曇りがちかと思われるはっきりとしない空模様と対面することとなった。
ゆるゆるとかすかに差し込む陽の光がぼんやりと辺りに散ってゆく。
寒いわけではないが暖かいわけでもない。晴れているわけではないが、曇っているわけでもない。微妙に尽きるロンドンの天候とは裏腹に、劉と敬愛するマダムの態度と物言いは随分とはっきりとしていて、名前は密かにくすくすと小さく笑みをこぼした。
”伯爵‥‥、まさか……”などと嘯いていたわりには、さすがの劉もこのような薄気味の悪い店構えは見たことがなかったらしく、きょろきょろと店頭に置かれた墓石や薄く蜘蛛の巣の張った棺桶などを興味深げに眺めている。
その横では、盛大にツッコミに勤しむマダムを抑えるべくバーネット邸の執事がどうどう、と彼女の呆れを通り越した怒りを細い身体で受け止めているが、当の劉は知ったことでないと言わんばかりに店頭に並べられた商品(?)に目を向けるばかり。
これには、叔母の憤懣は一向に治まるどころか増す一方である。
「劉とシエルの知り合いかと思って来てみれば、なんなのこの店は!怪しい予感しかしないじゃないのよ!しかも劉は何も知らずにここまできたワケ!?」
ちらりと頭蓋骨をかたどったモチーフを戴く店の看板に目を向け、気味の悪さを覚えたか、両腕でその赤いスーツに覆われた身体を抱いてみせる。
その様子に名前もふふ、と笑って口を開いた。
「大丈夫です、叔母様。こんな外観ですけれど、危ないところではありませんから。」
「危なくはないかもしれないけれど、怪しくはあるわよ。一体何の店なの?」
その問には、シエルの隣で事の顛末をさして面白くもなさそうに見ていたセバスチャンが答えた。
何の店―、それは看板にある通り。
つられて名前も頭上でやや斜めを向いて店名を知らせる頭蓋骨と目を合わせた。
「坊ちゃんのお知り合いが経営なさっている葬儀屋さんですよ。」
「葬儀屋?」
訝しむようなマダムの声に続いて、伯爵は色んな知り合いがいるねえ、とのんきそうな劉の声が追って聞こえてくる。
そのやりとりを背後にしながら、セバスチャンがややヒビの入った飾り格子に彩られたドビラを開ける。シエルと名前はそのまま勝手知ったる店内へ足を踏み入れた。
「いるか、葬儀屋」
ひやりとした店内にシエルの言葉がするりと転がる。
変声期にさしかかろうとしている彼の声音は特徴的で耳に愛おしい。
そう思うのは姉としての贔屓であろうと常々周囲には言われるが、一言その言葉を耳にしただけで来客者をシエルだと判別した男がここにいるのだから、姉の贔屓目も馬鹿にはできまい。
「……ヒッヒ……」
満月の夜のように中途半端に薄暗い店内に、こちらも特徴的な男の声が響く。
どこから聞こえるものかよく判別がつかないが、くぐもったように聞こえるので恐らくは店の奥にいるのだろう。
ヒッヒ……。
ゆっくりと聞こえてくるそれは彼の口癖、と言って差し支えないか。
変わった男だというのは重々承知しているが、名前はいつもこの笑声を聞くと背筋に悪寒が這うような複雑な気持ちがする。
どうも只者でないような、いや、変わった男なのだから只者でないのは確かなのだが。
「そろそろ……来る頃だと思ってたよ……」
悪寒から目をそらすように店内に目を巡らせるが、やはり前回に訪れた時と大して変化していない。店頭におかれていた棺桶と同じモデルのものが乱雑に放り出され、ところどころの棺桶の上には火のともった蝋燭がぽつりぽつりと置かれている。現状、この店内の明かりはこのやや頼りない灯火のみである。
扉とおなじくヒビ割れのある壁には、重厚な額縁のみがいくつもかけられていて、その主役たる絵画のない様もこの店の異様な雰囲気を助長する。
これには先ほどまで威勢の良かったマダムもきりりと引き締めていたシエルも、一転して冷や汗をのぞかせていた。
バーネット邸の執事に至ってはいそいそと主人の洋服の裾を握りしめているし、基本的に何事にも動じない劉ですら神妙にしている。
「よう〜〜〜〜こそ、伯爵……」
ぎいいいい……。
思いの外、身近で唸りをあげた棺桶に動転し、どすん!と派手な音を立ててマダム・レッドの執事が腰をぬかした。
彼が倒れこむ音に次いで動転した名前も、彼らに準じて反射的にシエルの肩をしっかりと抱きしめる。
しかし、セバスチャンは相も変わらず澄ました顔で突っ立っているだけである。
たかだか物音に自分が大げさに反応してしまっただけに、セバスチャンの澄ました様子に若干の理不尽な怒りを覚えつつも恐々と音の軌跡を辿る。
ひやり、その先を目の当たりにした瞬間に心臓が冷えた。
自身のすぐ隣に立てかけられていた棺桶の扉が微妙に開いている。
中からは、この店の店主がにやにやと大きく口を開けてこちらを見ていた。
このほの暗い店内において、動きの察知し難い黒いコートのような変わった衣装に、同じく漆黒の三角帽子。
その内側からは、つやつやと輝く銀の美しい長髪が流れているが、手入れには興味がないのか一部を編んでいる以外にアレンジをするつもりはないらしい。
顔に大きく傷跡が横切っていることにも目が行くが、そちらにばかり気を取られて名前は彼の瞳の色をみたことがない。
正しく言えば、目があるかどうかすら確認したことがない。
こうしていつも訪れる度に彼女ら姉弟と執事を見分けているのだから瞳はあるにはあるのだろうが、かと言って目がえぐれていたとしても、葬儀屋ならば問題なく何らかの手段で視界を補っていそうではある。
そんな、浮世離れして魔界に片足を突っ込んだような雰囲気の男が、シエルが奥の手としてとっている情報屋、アンダーテイカーである。
好きか嫌いかと聞かれると、名前の場合はいつも苦手だと答えている。
「おや、お姉さんも一緒だねえ。姉弟してやっと小生特製の棺に入ってくれる気になったのかい…!」
いそいそと棺から這い出して、どうも女性と子供用らしい小ぶりな棺に無言で手をやった葬儀屋に、名前は抱きしめていたシエルの肩をより強く抱いた。
この発言には、マダムと劉も葬儀屋の歪んだ趣味を感じ取ったか複雑な色をその顔に浮かべている。
彼らと違い、葬儀屋と一定程度の付き合いのある名前は冗談だと頭では理解が及んでいる。しかし、この男はいつか本当に自分もシエルも、もろともお手製の棺で埋葬してしまいそうだ。
背を這い続ける寒気も同じことを忠告しているようにすら感じる。
「へ、変なことを言わないでください!シエルも私も、貴方の世話になるのはまだ早いでしゅ!」
「お嬢様、噛むほど怖いのでしたら黙って坊ちゃんの後ろにお隠れになったらどうです。」
「シエルの後ろに隠れては姉が廃ります!!」
かっこよく啖呵を切ろうとしたもののいまいち決まり切らないのは、セバスチャンの言った通り、彼女が葬儀屋に大して一定の畏怖と威圧感を抱いているからに他ならない。
当のシエルは姉のように葬儀屋を恐れてはいないようだが、姉として弟を守るというお節介な使命感は、シエルの背後にいそいそとその身を隠すことを良しとしなかった。
その意固地な様に呆れを空気ににじませて、セバスチャンは名前を自身の背後に引っ張りこんだ。
成人男性(という表現は幾分不自然であるが)として見てもかなり背の高い部類に分けられるセバスチャンの背を壁にすれば、直接的に葬儀屋と対峙せずに済む。
加えて不気味な店内の装飾を必要以上に目にせず済むので、本来ならばファインプレーの執事に礼を言うべきところだが、基本的に人に礼を言うこと、謝ることが何よりも苦手なお嬢様育ちの彼女である。
ひとまず、この小憎らしい執事の黒い燕尾服の背面に大人しく隠れておくことにした。
「お姉さんはまだダメみたいだけど、伯爵はどうだい?棺に入ってみる気になったのかい?」
「そんなワケあるか。今日は……」
啖呵すら切れない姉と冷静に揚げ足を取る執事の三文芝居のおかげで驚きからの恐れも和らいだか、普段と変わらぬ不遜な態度を持ち直したシエルが口にする。
しかしながらその言葉は最後まで紡がれることはなく、半ばで伸びきった黒い爪に覆われた指に押し止められた。
不健康気味で青白く細いその手は、まぎれもなく葬儀屋のものである。
店内は妙に埃っぽく不摂生な気がするのに、本人の身なりはおどろくほど整っているのだからやはり彼の本質は解せない。
「言わなくていい。伯爵が何を言いたいのか、小生にはちゃ〜〜んとわかっているよ。」
葬儀屋は口元だけをゆるりとあげて言った。
長く伸びた爪に気を留めることもなく、まるで無邪気な子供が次は何で遊ぼうか?と思案するように蝋のように白い指を口元へ寄せる。
それがまた言葉にならない狂気を孕んでいるようで、名前はセバスチャンの燕尾を皺になるほどに握り、ついで空いた右手で雰囲気に圧されて黙りこくった叔母の手を握った。
「ああいうのは『表の人間』向きの『お客』じゃない。小生がね、キレイにしてあげたのさ。」
ゆるりゆるり、どこまでも彼の口端は歪に上がる。
それとは比例するように、シエルの口元はきゅっと意を決したように下がってゆく。
キレイにする―、葬儀屋が”客”の身を整えたのだ。生身の人間のように風呂に入れて、化粧を施して、服を着せるだけで済むはずがない。
あまり想像したくない葬儀屋の”客”の姿に名前は眉根を寄せ、その隣の叔母も同じような顔をしていた。
「…その話が聞きたい。」
短くシエルが言う。
もとよりそのつもりであったのか、葬儀屋もひとつ首肯してぐるりと店内を見まわして口を開いた。
「じゃあ話をしよう。お茶でも出すよ。そのへんに座ってもらえるかい?」
そのへん、と言っても彼の店内に椅子などない。
あるのは、夥しい数の棺桶だけ。
つまり腰かけろというのはこのなかの棺桶のいずれか。
ぞぞぞ、と背筋から流れ落ちた悪寒が足元から這い上がってきたように感じ、名前は危うく気を失うところであった。
不道徳の極みであるように思われるが、いそいそとシエルがそれこそ”その辺”に腰かけたのだから、彼女とて座らないわけにはいかない。
セバスチャンの背後を抜け出し、倣って”シエルの隣に腰かけようとした瞬間に、はっと何かに気がついたような執事の低い声が彼女めがけて飛んだ。
「お嬢様、足元に虫が……」
「えっ、きゃ、きゃあああ!!セバスチャン!!何とかしてください!!」
「姉さん、ただの虫です。このくらいは僕が。」
「ああシエル!!そんな、ああ!!」
手にしたステッキでトントン、と床をたたき虫を威嚇して姉の足元から追い出す。
そのままそれは、カサコソと細い線のような足を蠢かし、店の奥へと消えていった。
ふん、とやや得意げに足を組みなおしたシエルには男気を感じたが、虫如きで弟に守られてしまった自分が情けない。
しゅん、と頭を垂れた彼女を一瞥、彼女を幼い頃から見てきた叔母はようやっとこの店内の空気に慣れたか、ふうと息を吐いた。
「……名前が虫を一人で退治できる姿を、私は見ることができるのかしら。」
その言葉の真意に気が付いていたのは、ただ二人。
(ほの暗い夜の底から/Book of jack the ripper W)