Lurid pinky chocolate
バレンタインデーが近づくとそわそわとしてしまうことに男も女も大差はないらしい。
2月の14日を迎えたファントムハイヴ邸では、ちらほらと弟宛てに届きはじめたバレンタインカードを横目に名前が落ち着きを失いつつあった。

弟に届いたバレンタインデーのカードの中にはいくつか男性から届いたらしいものが紛れ込んでいるのが心配の種であるが、あの可愛らしい顔立ちでは男性から好意を寄せられてしまうのも無理はないかもしれない。
しかし、だからと言って弟に想いを寄せる紳士がこの世に存在するなど、姉としては許せるはずもない。
というか、ミッドフォード候爵の娘、エリザベスと婚約していると公に知られている弟にバレンタインカードを送ってくるなど男性であれ女性であれ贈り主は何を考えているのだろう。
朝食の席でファントムハイヴ伯爵宛てに届いたバレンタインカードを見て名前は憤慨したが、セバスチャンとシエルはさほど気にしていないようである。

セバスチャンは男性のものらしい筆跡のカードをいくつか銀盆の上に載せて主人に差し出し、“老若男女問わず万人に愛されるとは、さすがは坊ちゃん“と厭味のようなことを言ってシエルから脛を蹴飛ばされていた。
バレンタインデーのカードの末尾に並んだ“From Your secret admirer“─、“貴女の秘密の恋人より“の文字を見て、シエルもフンと、高慢に鼻を鳴らしていたのだ。
“名無しのバレンタインカードなど素直に受けとる奴の気が知れん“と言ってティーカップに口をつけて、特に気にした風もなくセバスチャンにカードの処分を命じていた弟の姿が目に浮かぶ。
─あの様子だと、シエルはカードの贈り主が男性であろうが女性であろうがどうでもよいのでしょうね。
最初から、バレンタインデーのカードを送って来る人間など相手にするつもりはないのだ。
その態度は頼もしいような、それでもやはり冷酷に過ぎるような。
しかし、些細な─男色家から目をつけられているという事実が些細と言えるかどうかは微妙なところだが─ことに動じないその姿勢は、当主として備えておくべき風格であろう。
名前は何となくすっきりしない心持ちを抱えて、大窓の向こうに広がる2月の曇り空を見渡す。
あのピンクやレッドや、淡いブルーのカードは無事に処分されたろうか。
厨房から噴き上がる煙に深くため息をついて、名前はバレンタインデーの午後を消費すべく紅茶で喉を潤した。



パーラーや図書室にこもって読書をしてもよかったが、たまには気分を変えて散歩に出てみることにしたのは、午後を少し回ったところ。
壁掛けの時計がボーン、ボーン、ボーン、と重たい鐘を12回ついてからのことである。
普段はあまり積極的に散歩に出ようなどとは思わないが、昨日フィニから“お屋敷の正門の周りにスノードロップがたくさん咲いてますよ!“と教えてもらったことを思い出したのがきっかけで、今日はぶらりと敷地内を歩いてみようかという気になったのだ。
屋敷の正門とはいえ、普段名前やシエルが引きこもっている本館からは広大なガーデンを抜けてさらにパークを過ぎた先である。距離にして4マイルか、それ以上はあるだろうか。
普段であれば馬車走るべき距離であるが、その日の名前ははたと、“そうだ、馬を出そう“と思いついた。
とにかくすべきこともない、屋敷に篭っていても面白くない。
フィニから教えてもらったスノードロップがどうしても見たいと、そういう気分になっていたのだ。
乗馬を趣味としているわけではないが、馬に乗れないわけではない。
そうと決まれば、とるんるんと鼻歌などを歌ってメイリンを呼び付け、外套を着込みウェリントン・ブーツを履いたのであった。


「リコリス、あんた馬に乗れたんだな。……って、オスカーが言ってる。」
「ええ、そう頻繁に乗馬を嗜んでいるわけではないのですけれどね。」
「意外だったわ、貴女そんなに颯爽と馬に乗れそうには見えなかったから。……って、エミリーが言ってる」
「そうでしょうねえ……、私はお世辞にもスポーツが得意とは言えませんし」


サイドサドルで馬に横乗りをする名前を、スネークが不思議そうに見上げてくる。
その肩やスラックスのポケットから顔を覗かせているのは、彼の言葉を信じるならばオスカーとエミリーである。
たとえ領地内の散歩といえど、お嬢様のお出掛けには違いないから─、と。
フットマンという役職を与えられている彼は、いくらか意気揚々と随伴に名乗りを上げた。
曰く、“貴女を一人で歩かせてしまったら私たちがブラックから叱られてしまうわ……って、エミリーが言ってる“との事である。
そんなこんなでスネークが散歩に随行しているわけであるが、彼も内心では蛇を散歩させたかったのだろう。
黒い縞模様のエミリーと体に緑のラインが走るオスカーを道に離し、ある程度自由に這わせてやっている。
その様子を馬上から微笑ましく見つめて、名前は白毛の馬をそろりと撫でた。
艶やかな美しい毛並みに掌を這わせると、ぶるる、と満足げに鼻を鳴らして馬もポテポテと枯れ葉に彩られた道を進んでゆく。
カサカサと葉を掻き別けて這う二匹の蛇と、蹄を鳴らして歩む馬と、そして2月のいくらか緩んだ北風と。
春や夏のような美しさはないものの、こういう冬の散歩も風情があってよいものである。
道の先に豪勢なファントムハイヴ邸の正門と一面に白く雪を降り積もらせたようなスノードロップの群生が見えると、名前はいくらか興奮したようにぱあっと顔色を明るくした。


「スネーク!!あれですよ!フィニが言っていたスノードロップ!」
「とっても綺麗ね、リコリスはあれが見たかったのかしら?……って、エミリーが言ってる。」
「ええ、私、冬場はとくにお屋敷にこもりがちで花を見ることもあまりありませんから……って、あら?あれはセバスチャン?」


正門のあたりで直立不動で何かを待っているような背の高い黒服の姿を目にして、名前は一時、馬を停止させた。
おとなしい白毛の馬はコツン、と蹄を鳴らして立ち止まる。
スネークは“郵便を待ってるんだろうよ。……ってオスカーが言ってる“と呟いて、エミリーとオスカーを抱き上げて大きく口を開いた。


「おおーい!ブラック!もう郵便の時間だったか?……って、オスカーが言ってる。」


背後からの呼びかけに答えるように、セバスチャンはゆっくりと彼らの方へ振り返った。
馬に乗った名前の姿を目にしていくらか驚いたように紅茶色の瞳を見開いたが、彼らがぽてぽてと歩んでゆくとやれやれと肩を竦めて名前を馬上から抱き上げる。


「お嬢様……、馬まで出してこんなところへ、どうなさったのです?」
「昨日、フィニからパークの先でスノードロップが咲いていると聞いたものですから、散歩がてら見に行こうかと。」
「全く……、花をご覧になりたいのでしたら私がお持ちしましたのに。嗚呼、こんなに頬が冷えて……」


するりとグローブに覆われた手で頬を包まれて、名前はほうっと頬を赤くした。
冷たい頬を包むセバスチャンの手も同じく冷たかったが、基本的にこうして執事から世話を焼かれることに喜びを感じている彼女である。
よほど嬉しかったのか、へらへらと頬を緩ませてセバスチャンの腰に抱き着いた。
いつもの細身のコートを身に纏った姿はやはりスマートで、ウェストベルトで引き締められるとより彼の細さが際立っている。
それでも顔を埋めた腹部はがっしりと硬い筋肉に覆われていて、男性らしい身体つきに名前はいつものことながらうっとりとため息をついた。


「郵便を待っていたのですが、ちょうどいい。スネーク、貴方も届いた郵便物を運ぶのを手伝ってください。」
「いいぜ!……って、オスカーが言ってる。」
「本日はバレンタインデーですから、坊ちゃん宛てのカードや贈り物が多くて困ってるんですよ。贈り主の分からない物を主人に手渡すわけにもいきませんし。」
「そうですよぉ……、それに今年はずいぶんと男性からのカードが多いそうじゃないですか。まったく、許しがたい侮辱です!婚約者のいるあの子にカードを送り付けてくるなんて、どこの変態さんでしょうか。」
「ええ、全く。英国広しといえど世の中には理解しがたいご趣味をお持ちの方もおられるご様子で。」
「スマイル宛てに贈られたチョコレートやクッキーは俺達が食べていいのか?」
「ええ。ただし毒の有無の確認を済ませてからですよ。……今朝届いたチョコレートボックスの中にもいくつか毒物の含まれているものがありましたから。」
「え、ええっ!?毒物!?」

名前の悲鳴に”ええ、”と相槌を打って、セバスチャンは更に唇を開く。
まったく迷惑を被っていると言わんばかりに眉根に皺を寄せ、スネークの方へ向き直った。


「単純な変態どころか、バレンタインデーに乗じて悪の貴族の命を狙う輩も多いということです。いいですねスネーク、食べる前に必ず銀器に載せてシルバーに変色がないかどうか確かめてから食べるようにと、他の使用人にも言っておいてください。」
「大丈夫よ、きちんと確認してから食べるわ!……って、エミリーが言ってる。」


空恐ろしい会話である。
しかし悪の貴族としての立場上、どうにもシエルの周りには物騒な話が多い。
名前は弟が心配でならないとおろおろと狼狽え、きょろきょろと辺りを見渡した。
もしや、いまこの瞬間にも弟の命を狙う不届き者が潜んでいるのではないかと思ったのである。
しかし広大なパークはただ静寂に満ちるだけで、彼ら三名の息遣いと蛇の身動ぎ、馬の鼻息以外の音は感じられない。
“毒物”と聞いた途端に慌て始めた名前をくすりと可笑しそうに見て、セバスチャンはそっと彼女の背に腕を回した。


その時である。
突如として正門外のフットパスからチャリンチャリンと聞こえてきた鈴の音に、名前はぴたりと動きを止めた。
あら?と正門へ駆け寄り、ファントムハイヴ家の敷地と正門との間の生け垣からそっと顔を覗かせてみる。
お陰で背に回した手が空回りしたセバスチャンは複雑な表情を浮かべたが、名前の方はポストマンが新品の自転車を颯爽と走らせてこちらへ手を振っているのに夢中である。
チリリン!と自転車の鈴が鳴らされる。
そろそろ、と名前も手を振って見せると、見知らぬポストマンは片手運転のまま器用に正門前で自転車を停止させ、からりと笑顔で口を開いた。
キキィーッ、ずさっ。
ゴムの車輪がブレーキに引かれて地面と擦れ合いながら派手な音を立てる。

「どーも、セバスチャンさん!午後の配達です!」
「ご苦労様です。………今朝より増えていませんか?」



セバスチャンはうろんげに自転車の荷台にくくりつけられた二つの木箱を視界に映した。
その様子にけらけらと愉快げに笑うポストマン。
彼は”こちらの坊っちゃんはとんでもないプレイボーイと見える”と軽口をたたいて荷台から木箱を二つ下ろし、セバスチャンに差し渡した。
大きな木箱には収まりきらないほどにカードや贈り物が詰め込まれていて、もはや蓋が空いてしまっている。
セバスチャンに代わってスネークが一つの木箱を受けとると、予想外に重かったのか”うぉ!?……って、オスカーが言ってる。”と慌てて木箱を持ち直した。


「ああ、スネークさん気をつけてくださいね。それ、見た目以上に重いですから。」
「スネーク、先にそれを屋敷へ持っていっておいてください。残りのもう一つは私が運びます。」

セバスチャンの言葉に無言で頷く。
”先に屋敷へ持っていっておくぜ!……って、オスカーが言ってる。”の言葉を残し、彼は馬を引いて屋敷へと先に戻って行った。


「……ああ、そうだ!お嬢さんにもカードと贈り物が届いてますよ。ほら、よかったですね!」
「え?わたし?」



去って行くスネークの後ろ姿とその後をついて這う二匹の蛇の姿をぼうっと見ていると、ポストマンは”思い出した!”とばかりに手を叩いた。
にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべると、麻のメッセンジャーバックから1枚のカードとハート型のボックスを取り出し、彼女へ差し出す。



「ええ、お嬢さんに。宛名もほら、名前・ファントムハイヴ様へってね。」
「ま、まあ……わたしに?そんなまさか……!」


ガサガサに乾燥した手で渡されたそれには、確かに名前の名が書かれていた。
目を惹く淡いパープルのハート形ボックスと、そこに添えられた一枚のカード。
そこには水の流れるような美しい筆記体で、”Dear, Lady Pantomhive”と記されている。
カードを抜き取って裏を確認してみれば、”From Your secret admirer”の文字。
─本命?のカード?
そろそろ、と可愛いラベンダーと金枠に縁取られたカードを開くと中には”名前嬢へ”から始まる四連の詩がしたためられていた。



「う、うそ……」
「嘘なもんですか。”秘密の恋人”からのバレンタインデーカードですよ。よかったですねぇ、お嬢さん。」


微笑ましそうに口角に柔らかな皺を寄せて、彼も頷く。
“じゃ、俺は配達の続きがあるんで!”
元気よく敬礼をして、ポストマンは自転車に飛び乗ってフットパスの先へと自転車を飛ばして走り去っていった。
帽子が風圧で飛ばされそうになるのを咄嗟に片手で抑え、再び片手運転で颯爽と走って行く。
びゅんびゅんと風を切って進む姿をぼけっと見ていると、そのうち、その制服の姿は遠く霞んで見えなくなって─、
ようやく、名前は平静を取り戻して深呼吸をした。



「ほ、本命のカードと贈り物……、わたしに?そんな……!!」

恐る恐るとボックスのリボンを解いてみると、中には小綺麗なチョコレートが行儀良く座っていた。
つやつやと鏡面のように輝くそこからはふわりと甘いカカオの香りが漂う。
すう、とショコラの魅惑的な匂いを肺に溜め込むと、名前はぽわ、と頬を染めて一粒摘んでみた。


「ひ、ひとつだけ……いま食べてもいいですよね……!」
「お嬢様、いけません」
「あ!」

唇に乗せてとろかそうとしたチョコレートはぱしっとセバスチャンに捕らえられ、すぐさまボックスへと押し返されてしまった。
“ああ……、“と残念そうなうめき声を上げる名前に構うことなくボックスどころかカードまでもを押収したセバスチャンは、それらを抱えていた木箱の奥へ乱暴に突っ込む。
ひどいひどい、と腰元のあたりで騒ぎ立てる名前を華麗に無視すると、セバスチャンは彼女の肩を抱いて屋敷へと踵を返した。


「さあ、お屋敷へ戻りましょう。パークにも馬を繋いでおりますから、お嬢様はそちらにお乗りください。」
「セバスチャン!!私宛てのカード……、」
「いいえ、お見せするわけには参りません」
「どうして!!」


そこでセバスチャンは足を止め、思案げに彼女の瞳を見つめた。
澄み渡るピジョン・ブラッドの瞳の奥には、美しい猟園の芝と霞んだイングランドの空と、美しい執事の姿が映し出されている。
少女とも淑女とも判別のつかぬ、曖昧な年頃の女の目。
一切の濁りのないそれはひどく美しい。
この世の不条理を知らぬ輝き。
澄み渡った瞳に写る自身と、かちりと視線がかち合う。
セバスチャンは静かに息をつくと、木箱を道端に置いて力強く名前を抱き寄せた。


「!!」
「……お分かりになりませんか?」
「え?」
「……」
「セバスチャ……─っ!ん、ん……」


それは突然の、嵐の如きキスであった。
息すらつかせぬ激しく熱いキス。
ねじ入れられた舌はすぐさまに名前自身のそれを絡め取り、歯列をなぞって上顎を撫でる。
ゾクゾクと這い上がる快楽に、彼女はへにゃりと腰を抜かした。
立っていることさえできない、飲み込まれて食べられてしまうような口吻など、このわずか十七年の生で体験したことがない。
とりわけ、セバスチャンがこうも感情的で暴力的とすらいえるアクションを起こすのは初めてのことで─、
がしりと腰を支えられたまま、彼女はふにゃ、と頬を赤くした。




「……あ、あの、あの……、」
「……これでお分かりでしょう。貴女に想いを寄せるどなたかがこの世に存在する。それだけで私は正気を失いそうなほどに気分が悪い。」
「えっ、え……?」


セバスチャンは手の甲で口元を拭うと、再び名前を抱き寄せた。
いつもとは違う、強くて加減のない力で引き寄せられると頬がぼすん!と彼の腹のあたりに押し付けられる。
しかしその手荒い動作に彼の本心が含まれているようで、心の奥がびりりと甘く痺れた。
気分が悪い、それはつまり、嫉妬?
彼女の疑問に答えるように、セバスチャンは頷いた。
ゆっくりと薄い唇を開くと、名前の耳元をそっと吐息で擽る。


「ええ、嫉妬です。私のような者はどう足掻いてもお嬢様を手にすることはできない……しかし、生まれが良いというだけでお嬢様にカードや贈り物を公然と送ることのできる男が確かにこの世界には存在する。そういう人間が、私は羨ましく……そして、妬ましい。」



まるでロマンス小説の一節のような瞬間であると、名前は思った。
切なげに睫毛を伏せたセバスチャンが、ぎゅ、と力なく自身を抱き締める。
ひゅるりと吹いた2月の凍風に揺れる猟園の芝はカサカサと乾いた音を立て、色彩の乏しい空は雲を垂れ込めて二人を覆う。
令嬢と執事という自分達の関係の儚さと不毛を体現するかのような、冬枯れの景色。
それでもそれは、許されない恋であるからこそ美しく、ロマンチックなのであり。
こういう荒涼とした冬の空もかの有名な「嵐が丘」を彷彿とさせて、非常に─、よい。


「し、知りませんでした……貴方がそんなにも私を想っていただなんて……」


熱に魘されたようにぽうっと頬を激しく染めた名前は、甘えるようにセバスチャンに抱きついた。
背に回された彼の大きな手が、後ろ髪を優しく撫でる。
ふにゃりと瞳を閉ざすと、まるで自分達が駆け落ちをした身分違いの恋人のように思われて、名前はどきどきと先程までセバスチャンの唇が触れていたそこに指先を添えた。



「……もう……、カードが見たいなんて言いませんから。貴方が嫌な思いをするなら、届いたカードもプレゼントも、私は触りません。シエル宛のカードと一緒に処分して下さいな。」
「……お嬢様……」
「ええ、貴方がわたしを好いてくれているのなら、他の人の心なんていりません。ただ貴方さえいてくれれば……」


混じりけのないルビーの瞳がセバスチャンを映す。
それは恋の炎を灯した、暖かな輝きで彼を包んだ。

「……貴女には敵いません」

静かに落とされた言葉は名前の睫毛を撫で、柔らかな慈愛で包む。
執事は屈んで、もう一度キスを落としたのであった。
今度は優しく、慈しむように。
ようやく手に入れた宝物を離さないとでも言うように─、



















「おい!!!!!誰だこんなカードを送ってきたのは!!!!!」

時刻は午後。
五時のティータイムには少し早い昼日中、年若い当主の怒声が響き渡る。
領内中に聞こえるのではないかと思われたその響きは平素の彼よりもいくらか低い唸り声と共に屋敷中を巡り、それから数瞬遅れてドン!と拳を振り下ろされたデスクが悲鳴を上げる。
静かな執務室に突如として響いた乱暴な振動に、マントルピースに飾られていたグラスシェイドがぐらりと揺れる。
主の赫怒した様を黙って見ていた執事は、黙って彼の怒りが収まるのを待っていた。


「セバスチャン!この馬鹿げたカードの贈り主を突き止めろ!いますぐ、今日中にだ!」
「……御意。」

平静を取り戻すにはどうも時間がかかる。
セバスチャンは主人の手に握られた金枠にラベンダーのカードを忌々しげに見下げて、やれやれとため息をついた。

「……君の瞳は鳩の血溜まりのように輝き……、ビロードの如き髪は……イングランドに幸福をもたらす天使の息吹……?なんだこの意味不明なポエムは!こんな趣味の悪い詩を送って来るド変態が姉さんに想いを寄せているだと……考えただけで虫酸が走る!贈り主を見つけ次第殺せ!」
「坊ちゃん、お言葉ではございますが裏の力で表の世界を侵食しないというのが貴方のスタンスだったのでは」
「うるさい!こんな変態カードを送ってくる奴はどうせロクでもない奴に決まっている!女王陛下に憂いをもたらす存在にちがいない!そうなる前に僕が始末する!」


名前宛に送られたカードを体よく回収した彼は、速やかに主人にこの件を報告した。
カードの送り主がどこの誰であるかは不明だが、その家の当主の了解も得ずに令嬢へ求愛を行うなど言語道断。執事としては見逃すわけにはいかない。
セバスチャンは怒りにうち震えるシエルのデスクにそっとあのチョコレートボックスを差し出すと、眉を潜めて口を開いた。



「……それから。これがただのカードだけで済めばよかったのですが………」
「なんだこれは……チョコレートボックス?」

コトン、とハート型の蓋をはずして脇へ置くと、やはりなかには照りの良いチョコレートが収まっていた。
単に”高級そうだ”というだけの、何の変哲もないチョコレートである。
しかし、それをシエルが摘まもうとした瞬間、セバスチャンはカッと目を見開いた。


「坊っちゃん!」
「?」


がしりとシエルの手首を掴み、チョコレートをボックスへ差し戻す。
シエルは頭上にクエスチョンマークを浮かべたが、執事はボックスごとチョコレートを主人から引き離して息をついた。



「触れない方が懸命です。」
「……何かあるのか」
「僅かですが……、毒物の匂いがいたします。」
「!なんだと!」
「ええ、ごく微量ではございますが毒物……ストリキニーネでしょう。その匂いが。」



執事はボックスの匂いを吸い込むと、”確かです”と言い添えた。
シャンデリアの輝きに照り返るチョコレート達は、無言でボックスに鎮座するばかり。
シエルの方はガタン!と椅子から立ち上がり、それからデスク上のチョコレートを気味が悪そうに見遣った。
艶々と輝くこの甘い菓子の中に、毒物。
自分宛にもいくつか似たような物が贈られていたようだが、宛先が姉となれば危機感が違う。
年若い当主は、”それはつまり、”と言葉を飲んだ。
それに無言で頷いて、執事も言葉を返す。


「ええ─。送り主は、お嬢様に危害を加える可能性があるということです。」







(Lurid pinky Chocolate/sebastian)



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