04
ユラリと立ち上がった瞬間、歪んだ結界が徐々に張り巡らされていく。その感覚はまるで水の中に溶け込むような漂流に似ている。周囲の空気が正常になっていく反面。彼女の空気だけが冷気を纏うように冷たく突き刺さった。



「本腰が動いたみたいだ。お前にもう用がないから大人しく寝てな」
「うっせぇよ、お前。少しは黙れ糞ガキッ!」



蹴りが腹部に直撃したオレはそのまま地面に倒れこんだ。折角防げてくれた傷口が再び開いたのか吐血をしたまま立ち上がる気力が失っていた。浅い呼吸を繰り返しながらも炎を練成するオレに汐慧の小さな声が頭の中に響いた。



『 大丈夫 』



その言葉通りに彼女の利き手には愛刀、螢雪が握られていた。その刀身からは淡い光が放たれる。遠くからでもわかるその清浄な空気にオレの心は凪いだ。落ち着くような感覚。身を委ねてしまいそうな程の安らぎと安心感。だが禍々しい人ならざる者にとってはただの有害にしかならない。苦しそうに息をしながら男は地面に刀を突き刺す。



「へぇ…あながちアンタが人神だと納得だな」
『……』



無言だ。汐慧のその瞳には最早光がなかった。何も映さない虚無にも似た彼女の無表情さは流石に背筋が凍る。
人と神の境界線。まさに突きつけられているこの差の現実を男は物ともせずに向かっていく。だがその炎は意図も簡単に沈下した。彼女が少し手を上げるだけで炎は綺麗に消え、刀は手元から無くなる。無防備な男に攻撃を与える事など造作もないかのように薙ぎ払えば。その衝撃波で男は吹き飛ばされる。その攻撃により顔を覆い隠していたマントが取れて素顔を曝すことになる。



「つぅ……凄い力だ。今までの奴らより強力だな。これを手に入れれば俺の【願い】は着実と近づく…」
『…魂が半分だけ…』
「…やっぱ視えるんだ」



何も語らないにも関わらず彼女の良心が発動したのか、これまで躊躇しなかった剣先はぶれ始めた。そこを見逃さなかった男は座り込んだ地面を蹴り、素早く近づき、突然の距離に驚くが、素早く体勢を立て直し男の脇腹を峰打ち。あくまで相手の命を取らぬ戦法を読んでいたかのように、不敵に笑った男は隠し持っていた短刀を全く別の方向に投げた。自暴自棄だとオレは思った。よくあることだ。でも汐慧の瞳は焦燥の色を浮かびあがらせ、彼女は素早くオレの方へ螢雪を投げ放つ。
螢雪が地面に突き刺されば自動的に簡易結界が施される。短刀がオレに向かって投げられた事を彼女は読んだのだ。だがその所為で隙が生じる。そう、オレを庇うあまり彼女の背後には三日月形に唇を歪ませた男の表情があった。



「汐慧――!!」



オレが叫ぶと同時に、汐慧は背後から心臓を一突きにされ。血潮がオレの目の前で飛び散る。その深紅の赤に、言葉を失った。巫女装束の白が紅い血で染まっていく様は、まるで椿の花をあしらわれた少女のようで、口から零れ出た血が喉を伝う。崩れ落ちる汐慧の身体を男よりも先に受け止めるためにオレは螢雪の結界から抜け出し渾身の力を込めて抱きとめた。かかえた汐慧はみるみる冷たくなっていくその身体を震える腕で抱きしめた。熱を少しでもわけ与えるかのように…。



「汐慧、汐慧……!」



悲痛な叫び声が涙と共に頬を伝う。そんなオレに向かって手を伸ばして涙を拭う汐慧は微笑んでいた。


『なかないで』



いつもそうだった。彼女はいつも…辛いときに辛いと言わない。苦しくて痛い時でも彼女は泣かない。泣き虫な癖に。そんなお前がオレの後ろを着いてきては笑うその幼い君をただ護りたかった。護るために全てを捨てでも傍に居る事を選んだと言うのにオレは……!
後悔ばかりがまるで付きまとってくる。もう二度と戻っては来ない優しい記憶は頬を静かに伝う涙と共に蒸発した。



「…業火に焼かれて消え失せろ」



近づいてきた男の足音に寄って静かにそう囁いたオレの言葉と共に僅かにしか残されていなかった神力を行使する。炎を身に纏い青白く燃え上がる狐火が一斉に男へ放たれる。目くらましのために放ったソレに気を取られる男の目を盗んでオレは彼女を抱えながら立ち上がり、よろける身体で森の中へと駆けだした。未だ、炎に苦戦している男は彼らの背中を見送ることしか出来なかった。



「逃がさない、絶対手に入れてみせる……水神」

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