20
竹林が風を凪げば葉音は屋内にも届いた。笙月院の立派な門構えをくぐった瞬間、対応が急変した。市中では取り押さえた重罪人のような扱いだったのが、まるで掌を返したかのように畏まった坊主たち。
「神子様とお見受けいたします」
「先程のご無礼をお詫びいたします」
『…何故、神子とお思いになられたのですか?』
「それは青蘭殿が貴女様の神神しい程の気を感じ取られたからでございます」
青蘭…確かその名は先程率先していた彼のことか。白猫に引っかかれた男…寄生虫を宿らせた人間だ、欲深いは力のためか。瞼を伏せてゆっくりと息を吐き出す。
『それで、犬田小文吾さんのお兄様は返して頂けますか?』
「…つもる話もございましょう」
「謁見の準備を致します故、こちらにてお待ち頂けますようお願い申し上げます」
縁側を歩き、一室の障子が開けられていた。その中へ通され座布団の上に座れば深々とお辞儀をして坊主たちは去る。
闇に囚われた者は力に反応する。私が旧市街区を歩いた結果が招いた事だと推測する。
迂闊だった。帝都は人の出入りが多く貿易にも盛んな場所。人にとりつく魔もまた多いと言うこと。これだけの邪気に気づけないのは人の雑念と気配が盛んだから感じ取れなかった。軽はずみに見過ぎていた罰があたったのかもしれない。荘介さんのことも……。
『はあ…悪い事はしないのが得策だな』
畳から立ち上がり瞼を閉じる。今は反省をしている場合ではない。一刻も早くここから小文吾くんのお兄さんを見つけ出して、抜けださなければ……。
念の強い場所を辿ろうとすれば襖の隙間から桜の花びらが舞い込んだ。
『さくら』
宙を可憐に舞うその花びらが掌に落ちればコエが聴こえた。
(( 沼藺 ))
まるで苦しそうな男性の声。きっとこの声は犬飼現八―――。
旧市街区のあの時キコエた強い願いの声とそっくりだ。そして強すぎる願いは形をなしてその姿が私の目の前に佇んでいた。女性……きっとこの人が沼藺さんだ。
彼女が指を差す。その方向へ導かれるように障子を開け見つからないように移動した。進めば進むほどにその声は強く、はっきりと聴こえてくる。
(( いつになったらお前は俺を迎えに来てくれる?まだ血が流し足りないか? ))
離れの薄暗い通路から、冷めたい風が吹き抜ける。彼女がとある重度のある扉の前で立ち止まりその奥を指し示す。
(( それともいっそこの心臓をえぐり取って差し出せば、お前と会えるんだろうか―――? ))
まだ声は聴こえてくる。嘆きにも等しくも悲しい声。
(( こんな姿になってもお前は笑って迎え入れてくれるだろうか―――? ))
もう二度と会えない人は確かに私にも居る。最後にあったのはいつだろうか?幼すぎて忘れてしまう程の長い月日。あの頃の淋しさ、切なさが蘇り、眼から零れる雫で前が見えない。
その戸に手をかけて躊躇いもなしに開閉させると、隙間から零れる様な異臭が更に胸を痛ませた。
ゆっくりと音をたてずに扉を閉めて中を物色する。周囲は既に陽が暮れてしまっていたにも関わらず、この室内には月光の淡い光が差し込んでいて、何とも言えない幻想感が漂っていた。その月明りに照らされた一角に、意中の人物が確かに存在していた。
『……ッ』
魔を封じる札結界が張り廻られた挙句の果てに鎖で両手首を繋げて、身体の至る所には何かで抉られたり、斬り刻まれた痕が無数に散らばっている。治りかけていない場所さえもあるため血が流れていた。前のめりになっている身体が少しだけ揺れて俯いていた男の人が私の声に反応して顔を上げる。虚ろな眼に私の姿が反射される。それはまるで鏡のようで…。頬に信乃と同じような花の痣がある、綺麗な男の人だった。
彼の目の前まで行くと膝を床につけてしゃがみ込み彼の首とお腹にそれぞれ手を当てる。脈拍はかなり弱くて身体の衰弱や疲労も人間では有り得ない程弱っている。内臓はもっと酷い。ほとんどが機能していない。中も傷ついているけれど、どうやって……。
これで生きている方が不思議な状態で短い息を吐きだす目の前の男性に、私は声をかける。
『あなたは犬飼現八さんですか?』
「お前はっ?」
『私は犬田小文吾くんの友人です』
「あいつの…?」
『助けに来ました。ここから出ましょう?小文吾くんや女将さんも心配していますよ』
繋がっている鎖を外そうと立ち上がり触れようとした瞬間。繋がっているというのにその彼に手を叩かれた。
「やめろ。余計な事をするな!俺は沼藺の傍に行きたいんだ……!!」
彼の悲痛な叫び声に私の手は止まる。傍に行きたい、どんなことをしても。彼女の傍に行きたい。現八さんのコエはずっとこの言葉たちを繰り返す。まるでうわ言のように、何度も何度も。
天井から漏れ出た水が私と彼の間に落ちる。冷たい石畳みの上に落ちては跳ねる。それが止まらない程定期的に降るから彼は顔を上げた。その瞳には明らかに動揺している色を見せた。
「お前っ、泣いているのか?」
頬には涙の跡がくっきりと残る程に私はずっと泣いていた。その事に彼は気がついたのだ。
少しだけ開けた唇。ゆっくりと息を吸いこんで私は再び鎖に手をかけた。
『わかります』
「え」
『私は父様を亡くしました。でもどうして死んでしまったのか私には記憶がありません。不幸の事故だと皆が口にしましたが、そんな事はどうでもいいんです。私が聞きたかったのは、父様が本当にこの世から消えてしまったのかという事でした。認めたくありません。離れたくありません。だって独りぼっちになりますから…』
私の様な中途半端な人間を理解してくれる人など他人には到底不可能だと思うから。身内の死はそれだけ私の精神を蝕んだ。
『一層の事死んでしまえればどれだけ楽か…何て。柵も定めも私には唯の重荷でしかないのですから』
もう何もしたくない。まだ人間の姿のまま死ねるなら本望だ、そんな事まで考えていた。
『だけど気がついたんです。死ぬということはもう父様の事を思い出すことも出来ないんだと。全てが消えてしまうんだという事に。気がついたんです。一緒になれるとか同じ場所に行けるとか、そんなことよりも父様と過ごしてきた楽しい事や嬉しい事も全て忘れて、消えてしまう事の方が私には耐えられない…!!』
優しくて大きなあの掌にもう一度会いたいと思うけど、抱っこをされたときの温かな感触。頭を撫でられた時の大きな掌。そしていつも私を見守ってくれていたあの優しい笑顔。私には父様との沢山の思い出がある、これが全て消えてしまう事の方が辛くて哀しい事のように思えたから。
『なかったことにしたくないんです。辛い事も哀しい事も確かにあります。でも楽しい事だって嬉しい事だって同じようにあったはずです。だから…お願いします…そんな哀しい事、言わないでください』
死にたいって言わないで。
『あなたには同じ気持ちを分かち合える家族が居るじゃないですか。だから、ここから出ましょう。辛くても哀しくても淋しくても、それでもこんな所で死んでは駄目です。絶対』
小文吾くんが、女将さんが旦那さんが、皆さんが待っています。あなたの帰りを……。
鎖を外すと腕がゆっくりと降りて、彼は石畳みの上に座り込む。はらり、と綺麗な涙を溢した。
「俺は……、生きてもいいのだろうか?」
『…生きて下さい』
止まらない涙の顔で微笑むと現八さんはそっと腕を伸ばして私を抱きしめた。
もう、声は聴こえない。具現化した彼女の姿も消えていた。前を向こうとしている証拠だった。
肩口が生温かく水滴を含んでいくのを感じながら、私は瞳を閉じて残った涙を溢し合った。
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