21
「――ん?」



微かに聴こえた気がして振り返るが、雪慈の後ろには何もない。当たり前な事実だと言うのに、雪慈は呆然と後ろを見つめる。そんな雪慈を遣い回しにしていた莉方は怪訝そうに聴く。



「どうした、雪慈」
「…いや。いつもオレの後ろをついて回っていた汐慧がなと思って。昔から人見知りはしない子だったけど、なんつぅーか。親代わりのオレからすると寂しいもんだな」
「…巷ではお前のような奴をロリコンというらしいな。この書類の資料を持ってこい」
「せめてシスコンって言ってくれるか莉芳。てか何でお前にパシられてんだ、オレは」
「…汐慧が自由に使ってくれていいと言っていたからな」
「オレはそんな子に育てた覚えはありません!!」
「育てられた覚えもないだろ。いいから早く持ってこい」



書斎の椅子に座りながら黙々と仕事をする莉芳の手厳しい言葉に、雪慈は悪態つきながらも指示通り資料を取り書斎を退出した。嵐のような雪慈の存在に莉芳は溜息を溢しながら書面に記載していると、扉を数回ノックする音がして荘介の「 失礼します 」という声に莉方は顔を上げる。
その訪問者は、信乃と荘介の二人だけでそこには、彼が待ち望んでいた彼女の姿はなかった。それを確認してから、莉方は興味を失ったかのように再び書面と対面する。そんな莉芳の態度に信乃が腕まくりをして殴りこみに行こうとするので、荘介が静かに止める。



「あなたが信乃を呼んだ目的は何ですか?」



荘介の単刀直入なその問いかけに、莉方は再び顔を上げペンを机の上に置き溜息を吐きながら背もたれに身体を預けて引き出しの一段目を開ける。そこには彼に不釣り合いな藍色の手鏡が大事そうに鎮座されていた。それをじっと見つめている信乃の視線を遮るように莉方は目的の小さな小箱を取り出し、紐を解き、中を見せると信乃はまるで探し物を見つけたかのような勢いでその義と孝の字が書かれた珠を両手に持ち上げながら眺めた。



「失くしたかと思ってた!!」



信乃が興奮気味にそう呟くと同時に部屋の扉が開閉される。勢いよく開いた扉はどうやら足で開けられたものの様で、中へ入って来た両手に沢山の紙の山を抱える雪慈にその場にいた全員が納得した。



「莉芳。持って来たぞ…って、何だ。信乃と荘介じゃねぇか!やっと帰ってきたのか、お前等」
「ただいま戻りました」
「ただいま雪慈」
「ああ……で、汐慧はどこだ?」



資料を机の上に置くと信乃は答えにくそうに頬を掻きながら、荘介を仰ぎ見るが。荘介は終始笑顔をのまま答える気はなさそうで、仕方なしに信乃が事情を説明する。



「汐慧は―その、犬田小文吾っていう古那屋の店の息子と一緒に、居ると、思う……」



簡潔的でストレートな説明は信乃らしくて分かりやすいのだが、あまりにも分かりやす過ぎたため、雪慈と莉方が身体を硬直させた。



「信乃……俺の耳が腐ってなかったら、小文吾って名前は男だよな?」
「あ、えっと……いい奴だぞ?」
「信乃。お前がいながら何をやっている」
「莉芳、お前。会った時よりすげー失礼だな。更に失礼だ」



大の大人に攻め立てられる信乃は、この室内から速くも逃げ出したくなったようで。腰が引き気味だった。いつもなら荘介が助け舟を出してくれると言うのにその荘介は終始笑顔のまま。寧ろ、荘介のその笑顔が信乃には不気味すぎて頼れなかった。



「えっと、あ!これ荘介の義で、俺のが孝って書いてあんだ!」



そう言ってそれを指を鳴らしながら近づいてきた雪慈の眼前に付きだすと、雪慈はその珠を見て瞳を細めた。



「信乃。これはお前達のか?」
「え、ああ…そう、だけど……」
「南総里見八犬伝」



雪慈が呟くように囁いたその言葉に莉芳だけが反応を示した。



「莉芳。まさかこいつらって八犬士?」
「そうだ」
「八犬士?」



疑問詞ばかり浮かべる信乃に向かって莉芳が説明を始めた。



「それと同じような玉が後六つある。その玉は伏姫と八人の若者に由来する」
「その玉を持つ者を八犬士って言うんだ」
「なにそれ?」
「里見家に伝わる伝説だ」
「伝説?」
「昔、大陸からやってきた玉梓という女がいた。その女は美貌と才知溢れる話術で次々と人を騙し、陥れ、朝廷へ取り入った。その後国の暗黒時代が到来、大地が荒れ、人々は餓え、殺し合って国は荒れた。そこへ八人の若者を伴った一人の姫が現れ」
「へぇー」



莉芳が信乃のために語っていた物語は、その発案者によって打ちきりになる。一方信乃は飽きたのか、室内に設置されている一人掛け椅子に腰を下ろし、肘をかけ顎を乗せ、興味の失った声で気だるそうに先を促す。



「それで?」
「聴きたいと言ったのはお前の方だが?」
「長い噺になりそうで今、猛烈に後悔中。はあ…汐慧だったらよかったのに」
「何だと?」
「あいつの方が読み方上手いもん。汐慧も知ってんだろ?」
「まあ、知ってると思うが」
「じゃあ後で汐慧に聴くからもういいや」



そんな信乃の態度に莉方は溜息を溢しながら、用件だけは忘れずに伝えることにした。



「とにかく、玉は全部で八つ。残りの玉とその持ち主を探し出せ」
「はあ?…んなコトできるかっボケ―――!!世の中にどんだけ人間がいると思ってやがんだ!?今すぐ新聞広告でも出しやがれ!!」
「出来ればそっと探したいんだが」
「その絶対ムリ―!」



そう叫ぶ信乃と莉芳のやり取りを荘介は暫くの間終始黙って話の展開を見つめていた。そんな三人の会話をさも興味がないように雪慈は壁に背を預けてもたれかかる。雪慈が推測した通り、ここは八犬士が実在する世界だった。雪慈は普段からあまり本を熟読しているような純朴ではないためこの世界の手がかりを得たとしても、汐慧に聴かなければわからぬ情報ばかり。だが、八犬伝だけは彼女から教えて貰った中でも一番に記憶しているものだった。だから、記憶の掠れた部分がざわめく。確か彼女は……。だけど、一向に思い出す事も出来ず、結局は彼女が帰って来てから話し合わねばなるまいと雪慈は只管に彼女の帰りを待つという結論に至った。



「それにその玉は、荘介と実の親を繋ぐたった一つのもんなんだ。お前に渡すわけには」
「その玉の持ち主を探せばいいんですか?」
「っ、荘介?」
「そうだ」
「わかりました」



それだけを言うと荘介は退出した。そんな荘介の背を追いかけようと呼びかける信乃に対して莉方は彼を止める。



「信乃」
「なんだよ」
「荘介の事だが。五年前のあの日以来特に変わったところはないか?」
「っ、それ、どういう意味?」
「与四郎の姿になるだけじゃなく別な部分で変化はなかったかと聴いている」
「ねーよ!」



信乃の否定の言葉が何故か虚しく響いた。雪慈は聴いてはいけないような内容に少しだけの罪悪感に苛まれる。



「お前は気づいてないかもしれないが「聴きたくない」



莉芳の言葉を遮り、莉芳も口を閉ざし信乃の次の言葉を待った。



「譬えあったとしても、荘介は荘介だろう?」



参章 人鬼は神子を抱き咽び泣く 完
ALICE+