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信乃たちは浜路たちにも汐慧の事を説明しに行き、相部屋へ戻って来ると荘介は壁を殴っていた。それが思いの他強かったのか、少しだけ凹んだその壁からは砂埃のようにパラパラと石屑が落ちていく。その様を目の当たりにしている信乃は驚きのあまり唾が上手く呑みこめないでいた。ここまで感情的に荒れている荘介を見るのは、長年一緒にいる信乃でさえも初めてだった。どう声をかけていいのか、彷徨う手は宙を彷徨うだけで何も思い浮かばなかった。

歯がゆい思いが心中を支配するが、信乃も内心焦っていた。汐慧が捕えられたことは少なくとも信乃さえも動揺させるには多大な影響力を及ぼしたのだ。小文吾の話を推測するに、拷問されているかもしれない。彼女は信乃も感じ取っている程神秘的で、だけど、妖とは違う異質の空気を放つ特殊な人間。きっと鬼を捕えたその坊主たちならば、彼女を痛めつける事もするかもしれない。その可能性が胸襟を占めては何も手につかなくなる。暫くして、荘介が囁いた。



「信乃」
「うん」
「汐慧は……消えたりしませんよね?」



荘介の弱音を初めて聴いた信乃は、拳を握りしめては、何も答えることが出来なかった。
そんな二人の様子を少しだけ空いた扉の隙間から浜路は静かに見つめていた。



「呆れた。こんな時間に何してるの?」



信乃たちから聴かされた汐慧の事で目が冴えてしまった浜路は薄ぼんやりと廊下に洩れる灯りがある室内へ入れば、そこにはワインを煽る要がいた。彼も聴かされたのだろうと、浜路は思うが、それでも口からでたのは彼を批難する言葉。そんな浜路の存在に気がついた要は彼女を視界に捉える。



「いいワインだよ?君も座れば?」
「遠慮するわ」
「…君はホントーに愛想がないね。そんなトコも素敵だけど…」
「あんまり飲み過ぎるとキツネちゃんたち心配するわよ?」



浜路の言葉に要は鼻で小さく笑う。そんな要に追求する。



「――いや。そういう回りくどい心配をしてくれるのもいいけど。君も少しは汐慧を見習った方がいいよ。あの子はホントーに、聖女の様な慈愛の持ち主だよ」
「…悪かったわね、生意気でひねくれてて」
「そんな君も好きだけど……。ごめんね、ちょっと慰めて」


ワイングラスを傾けて要は視線を落とす。そんな珍しく落ち込んでいる要の姿を目の当たりにして浜路はこれ以上虐めるのも可哀想だと思い、批難の言葉を閉じた。



「あなたも参ったの?今回の事」
「うん。今回は、少なからず僕も関与しているからね」
「そう……」



浜路は先程断ったにも関わらず要の向かい側のソファーに腰をかけた。付き合ってくれることを了承してくれた浜路に対して要は「 ありがとう 」と言う。



「莉芳がね、珍しい程に怒ってた。凄く恐かったな」
「想像が出来ないわ」
「だろうね。普段からあんまり感情の乏しい人だから…でも、あんな風に剥き出しに出来る程汐慧の事が大切なんだって実感させられたよ」
「そうなの?」
「うん、そうだよ。見ててわかるほど」



グラスを軽く揺らしながら言うと浜路はまだ信じられないかのような不思議な表情をするから「 今度教えてあげるよ 」と要は言いながらグラスを空にする。静かにテーブルの上に置くと継ぎ足す事を一度だけ止めた。



「珍しいって言ったら、荘介もかしら」
「へぇー、そうなんだ?」
「ええ。荘介があんなに取り乱すなんて……、面白いものが視れたわ」



浜路の満悦な笑みに要は、少しだけ恐ろしそうに浜路を見つめた。グラスに注ぎながら浜路の続く言葉に耳を傾ける。



「あの子が来てから荘介が色んな表情をするようになったの。それまで信乃の事や私の事ばかりでいつも笑顔ばかり浮かべていた荘介が、困ったり、恥ずかしがったり…何より愛おしそうに汐慧の事を見た時は……本当に、涙が出そうだった」
「…成長を喜ぶ母親みたいだね、浜路」
「五月蠅い。…だって荘介って自分の事は後回しなんだもの。それを信乃も私も心配していたの…だけど、それがそうじゃなくなるかもしれないっていう可能性が出て来たんだもの。あの子には頭が上がらないわ」
「そう言えば、嫉妬してたね」
「ええ」



楽しそうに会話をする二人は笑い合う。互いに思い出しては可笑しいのか小さな笑い声をあげる。



「汐慧は儚げで病気的で繊細そうに見えるのに、芯はしっかりしてる。信乃とは違う信念を持ったとっても格好いい人。だから、私、汐慧が大好きだわ!」



浜路の飛びきりの笑みに要は瞳を細めて頭を垂れた。



「ごめんね、浜路」



そう言うと、浜路は俯きながら鼻を啜った。彼女が膝を濡らすから、斑点のように模様がネグジュアリーにつく。彼女を泣かせてあげるために、要は静かにワイングラスを傾ける。今宵の月は、一段と鈍く光っていた。


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