トホ、トホ、トー!前進、進めーッ!!
実は元陸軍中将だったという山田座長に話を聞いたところ、アシリパちゃんを誘拐したキロランケというアイヌの男は、北上で待機している仲間と合流するだろうという話だった。豊原から北に約五三十キロ、国境を越えたロシア領の港町に樺太で最大と言われる『アレクサンドロフスカヤ監獄』があるようだ。
杉元の目的である、『不死身の杉元ハラキリショー』でこの大都市豊原に俺の名を轟かすことはかなわなかったが現地の新聞には二行だけ載ったらしい。その他はほとんど少尉のことばかりであった。
「寒いねぇ、杉元」
「ほんとにね。ナマエさんは後ろでよかったの?」
「え? なんで。どこでも大丈夫だよ」
今まで私は二台あるソリのうち、前方を走るソリに乗っていたのだが今回は荷物の都合で体の小さい者を一人後ろに乗せようという話になり、だったら私が後ろのソリに乗るよと名乗り出たのだ。今回は杉元、私、チカパシ、谷垣の順で並んで座っている。新鮮なメンバーで、これはこれで楽しい。いつもエノノカの小さな身体を抱き締めて乗っているから、杉元のような大柄な成人男性の腹回りに手を回すのはちょっとだけ抵抗がある。こんなに雪が降っているとそんなことも言っていられないのだが。
「いや、あんた。いつも鯉登少尉と居るだろ」
「あの人がよく世話を焼いてくれるからね」
ありがたい話だよ。前方のソリで移動する少尉を見る。にしても雪が酷くなってきた。ごうごうと四方八方から雪が身体を打ち付けて、視界も悪い。焦ったような声で杉元が叫ぶ。
「もう前が見えねえ!」
「杉元! リュウたち着いて行けてる?」
「いや……リュウ! 何やってんだ! 列から離れるな!」
「何か理由があるんじゃないのか?」
「リュウに橇引かせるなんざやっぱ向いてなかったんだよ、こいつは猟犬だ!!」
どこへ行く気だ、まっすぐ走れと杉元がリュウを怒鳴りつける。なんとなく分かってきたぞ。これはまずい。そうしてわんこ達に任せてソリを走らせていると、銃声が聞こえた。まだ近い。
「今の銃声じゃないか?」
「もしかしてはぐれた?」
「終わった」
死んだ目で降り積もる雪を眺めると、杉元に軽く頭をどつかれる。谷垣がポンポンと私の背中をさすって鼓舞してくれた。ゲンジロちゃん……。
「ナマエ、諦めんな!」
「銃声はどっちから聞こえた?」
「たぶんあっちだよッ!」
「よし……!」
チカパシの言葉を信じて、できるだけ銃声が聞こえた方に出て空に向かって谷垣が銃を撃つ。あんなにうるさい銃声が、豪雪の中ではさして役に立たないことに、無性に怖くなった。
「駄目だ! 月島軍曹たちを見つけるよりもどこかに避難しよう!」
「風をよけられる場所を探すんだ!」
犬ゾリを走らせること数分。出てきたのは海岸だった。何とかしないと死ぬぞ、と杉元が零す。寒さからか恐怖からかはわからないがガタガタ震える身体で首元のショールを握りしめる。耳が冷えて、痛くて、酷い頭痛がした。
にしてもここら一帯は雪ばかり。風を凌ぐ場所なんてなく、杉元と谷垣はひたすら凍った地面をナイフで掘っている。手伝うよと申し出たけど、そもそも短刀は無いし体力の無い私は掘り進める前に死んでしまうだろうから、もうチカパシと温めあっていろとの谷垣からのありがたいお達しであった。
「ヴヴ……サム……」
「どうだ?」
「ついた!」
浅くはあるが窪みができた。穴の周りにソリに積んでいた荷物を重ねてどうにか高さを作る。ナマエ、と呼ばれて杉元を見ると毛布を被っている。右脇にはチカパシが丸まっており、左腕を上げて私を手招きした。何も考えずに飛び込む。幾分かマシになった気がする。谷垣はというとソリを解体して手に入れた木片で火を起こしている。今しがた点火したようで、それを土で埋めた。
「どうして消すんだ!?」
「橇一台分の薪なんてあっという間に燃え尽きる! だが埋めれば土の中でゆっくり燃えるんだ! この上で横になれば少しは長く暖まれる!」
「さすがマタギの谷垣さんだぜ……!」
「さすまた……」
「おいナマエしっかりしろ!! 穴が浅すぎる! これでは風よけにしかならん! おまえらちょっと来いっ!!」
話半分に人の会話を聞いて、適当なところを勝手に拾い上げる私をみた谷垣が私の肩を揺らし、慌てて穴から出ていく。かと思えばソリを引いてくれていたわんこを引き連れて戻ってきた。そのわんこを私たちの上に乗らせる。杉元がしみじみと言った。樺太犬の掛け布団だぜ……。
「ナマエ、チカパシ。アーンしろ」
「ぁ」
「うまい……」
体温を維持するのに、何かを食べるか食べないかでは大きく違う。谷垣は常備しているらしい地元のモチを小さく一口サイズに分けて私とチカパシに手ずから食べさせてくれた。さすまたである。モチャモチャと噛んでいるとコリコリした胡桃のような食感がした。おいしい。さすまた。
「光だ……おい、見えるか? あの光……」
「太陽だ……」
「アホかナマエ! しっかりしろ!」
「月かな?」
「いや……網走潜入がちょうど2ヶ月前だからあんなに大きいはずは……」
チカ、チカ、と光が瞬く。意識が朦朧とする。なんだか気分が悪くて、下腹部が締め付けるようにじくじく痛んだ。ああ、ああ、最悪だ。
「あれは……燈台の明かりだ!!」
「おい、行くぞチカパシ、ナマエ! ……ナマエ?」
「……」
「聞こえるか、返事しろナマエさん」
「……きこえてる、けど、先行って」
「顔色が悪いな……」
こんなに寒いのに額から脂汗のようなものが伝う。いきなり痛み始めた腹部のせいで蹲ってうまく動けない。そろそろだと思って女将さんに使い方を説明してもらったあれを付けててよかった。じゃなければ今頃ここは血まみれだったに違いない。
「谷垣、チカパシと荷物頼めるか。ナマエさんを運ぶ」
「ああ。頼んだぞ杉元」
「ナマエさん、肩に手を回せるか」
私を軽々と持ち上げた杉元の首元にきつくしがみつく。そこからは早かった。さすがは軍人さんと言うべきか、こんな寒さのなかでも俊敏に動ける。私というデカお荷物がいるというのに杉元は嫌な顔ひとつせず、私を光の元まで連れて来てくれた。そこにはコテージがあり、中に入ると少尉と軍曹、そしてロシア人のご夫婦が待っていた。優雅にお茶していた少尉が血相変えて駆け寄ってくる。
「ナマエ! 大丈夫なのか!?」
「っ、はあ、はあ!」
「ペチカの上がこの部屋で一番暖かい。ロシア人はその上で寝るんだ」
「頼む、ナマエさんを先に入れてやってくれ!」
杉元の手によってペチカと呼ばれる暖炉の一番奥にぎゅうぎゅう詰められ、暖かくなってきた身体の安心感からなのか急に凄まじい眠気が襲う。さっきまで散々杉元にも谷垣にも寝るな寝るなと怒鳴られていたので不思議な気分だ。寝てもいいか杉元に聞くと、頭の下にマフラーを敷いてくれた。ありがとね、と呟いた声は掠れていて、杉元に届いたかはわからない。