ヒュムノス

 妙な夢を見た。夜桜が舞っている。見たこともない知らない公園の広場の真ん中、大きな大きな桜の木から、風に靡いて花弁が次々に落ちる。辺りを見渡した。誰も居ない。コンビニに行く時くらいしか使わないボロボロのサンダルが、なぜか二足綺麗に揃えられていた。

 ぱち、と目が合う。

「……」
「む、起こしてしまったか」

 ペチカの上でいつまでも眠りこける私を布団まで運んでくれたようだった。私を横抱きする少尉の人肌が心地良い。寒さのせいで普段よりも酷かった月経痛はかなりマシになっており、もう動けそうなので少尉に断って下ろしてもらう。

「腹は減っていないか?」
「ちょっとだけ」
「ちょうど夕食の準備中だそうだ。お茶菓子ならまだ余っているぞ」
「準備中ならできるまで待つよ……」

 ワクワクとした面持ちの少尉に手を引かれて着いていくと結局は先程のペチカがあった部屋に戻り、少尉直々に椅子を引いて座らせられる。慣れた手つきでホカホカの紅茶を淹れ、私の手にティーカップのハンドルを持たせた。

「美味しいね、少尉」
「そうだろう。私が淹れたからな。スーシュカも食べると良い」
「これは?」
「お茶菓子だ。ほら食べろ」
「んん、自分で食べられるよ……」

 私の声を全く聞こうとしない少尉に押されて口を開ける。あ、ほんのり甘い。小さいドーナツか何かだと思ってたけどどちらかと言うと菓子パンに近くて、バリバリしている。不思議な食感だ。もしゃもしゃスーシュカを食べていると夕食の準備ができたらしく、軍曹と谷垣が呼びに来た。

「わあ! おいしそう!」
「なにこの汁物真っ赤じゃん!!」
「この汁物はボルシチといって、赤いのはビーツというカブの色素だ」
「へえ〜」

 しかも味も完璧である。聞けばエノノカとチカパシもお手伝いしていたそうだ。偉いぞ〜。私と同じく大雪の中に放り出されていたはずのチカパシは随分と前からケロッと復活していて、死んだように眠り続けた私の肩身は狭い。赤いスープを頬張っているチカパシが軍曹に問うた。

「『美味しい』はロシア語でなんていう?」
「フクースナ」
「フクースナ!」
「フクースナぁ!」

 んん、楽しい。丸いテーブルにミチミチのギチギチに肩を寄せあって食べる夕食は賑やかで、ロシア人のご夫婦もいつもふたりだけなので賑やかな食事は嬉しいと仰っているようだ。その言葉から話は自然とご夫婦の家族にうつり、壁に掛けられた若い女性の写真を少尉が指さす。あの写真は娘か、と。

 ご夫婦は口を噤んだが、やがてポツポツと話し始める。ここでも有能翻訳家である軍曹が大活躍だ。

 聞くに、日清戦争前から燈台守として親子三人仲良くここでくらしていたそうだが、ある日脱走したロシア兵が現れる。しばらくこの燈台に根付いた後、その脱走兵は大切な一人娘を連れ去って行ってしまったそう。
 あちこち探したが娘は見つからず、軍や政府にも捜索を頼んだが取り合ってくれなかった。やがて日露戦争で日本軍が樺太に上陸。事前にロシア政府から『日本軍に燈台を利用されないよう破壊するように』と爆薬を渡されていたようだが、政府の対応に憤っていたご夫婦は素直に燈台を日本軍に明け渡した。
 しばらくするともっと北に新しい燈台が作られここは不要になったが、二人は娘の帰りをこの燈台でずっと待っているそうだ。

「……」

 ご夫婦は涙ながらに話した。ふとこの場に関係ないことが頭をよぎる。現代の私の家族は、どうしているんだろうか。私はどういう扱いになっているのだろうか。心配してくれているだろうか。
 帰らなきゃだめだな。

「娘さんのことがあって燈台は残り、俺たちは命を救われたってことか……。この娘さんの写真、一枚借りてってもいいか?」

 立ち上がった杉元が壁に掛けていた写真フレームを指さす。にこやかに笑った。ご夫婦の目がそれぞれ輝いて、やがて嬉しそうに頷いた。

「それと、ナマエ」
「なに、軍曹」
「ご婦人がお前に話があるそうだ」
「? わかった」

 ご婦人にサムズアップしてみる。意図は伝わったのか、ウンウンと笑った。









「わ、凄いねヘンケ! 即席でソリ作ったの?」
「ヘンケ頑張ったって!」
「ありがとうヘンケ!!」

 翌朝。我々は北上のため燈台を出た。昨夜、結局ご婦人からの用というのも私の月経を見越したもので、処理について丁寧に教えてくれた。痛みが和らぐようにと暖かいハーブティーも出してくれたし、至れり尽くせりであった。

 杉元がご夫婦の一人娘のスヴェトラーナの写真を貰い、私たちの人探しリストに一人加わった。ヘンケが作ってくれたというソリに乗って、今日も元気にトホ、トホ、トー!である。先日の雪山で死にかけた私のことが少尉は心配でならないらしく、私は先頭ソリのスタメンとなった。比重については荷物を多めに後方のソリに乗せることで解決した。

「がおー」
「きゃあ! 捕まった!」
「がぶがぶがぶ!」

 エノノカがバタバタと手を動かす。今は私の前に座るエノノカと手遊び中である。私の手を猛獣に見立てて、エノノカの小さなふくふくの手をがぶがぶと捕食していく。よろけると危ないからちゃんと後ろから抱き締めているためほとんどは私の勝ちであった。エノノカに逃げ場はない。ここから目的地までまだまだ時間がある。その間、私はずっとエノノカの暇潰しに付き合った。

 しばらくして、私たちは目的地まであと少しというところまで来ていた。私はというと手遊びを強制的に終える羽目になって、空いた手で必死に口元を抑えている。

「……ナマエ?」
「ウッ……プ……」
「どれほど手遊びに熱中するとそうなるんだ……」

 私の後ろに座る少尉が呆れ半分にため息を吐く。あろうことか私はソリ酔いでグロッキー状態になってしまったのである。言わずもがな手遊びに熱中しすぎて、だ。情けないにも程があるだろう。

 今日の目的地である新問付近にある樺太アイヌの集落には昼頃までには着きたかった。天気も良いし、また大雪に見舞われては今度こそ死んでしまうかもしれない。そういった事情でソリを停めて休憩するなどという甘ったれた選択肢はなく、ここは真冬の樺太だというのに私は少尉に身体を預けてふうふうと冷や汗をかいていた。

 気持ち悪さで指先にも力が入らず、脱力している私の体は小さな揺れですぐにバランスを崩しそうになる。姿勢を正す気力もなくウンウン唸る私を見かねた少尉が、脇の下に腕を滑り込ませ、より自身の胸元へと抱き寄せた。

「ごめんね少尉……意外と手遊びが楽しくて……」
「いい。もっと体を預けろ。辛くなるだけだ」

 言われた通りに体重をかけ、頭を少尉の鎖骨あたりに寄せる。少尉も私を抱き込むように身体を寄せた。謎のフィット感によって、自分でバランスを取らずとも安定していられるのは随分と楽だった。私はいつだってこの人に助けられているような気がする。私には何が出来るだろうか、返せることはあるのだろうか。

 そんなふうにぐるぐる思考の渦に陥っていると、少尉は私だけに聞こえるようにぽそぽそと喋り始めた。気が紛れるように、と気遣いが沁みる。

「酔う辛さは、私もよく知っている」
「……少尉も酔うの」
「ああ。酒やソリ、鉄道なんかは平気だが、船酔いだけは目も当てられないほど酷い」
「そうなんだ、珍し……ぅ……」
「おい、耐えろナマエ。もうじき着く」

 額にじんわりと汗が滲む。少尉が懐からやけに可愛いハンカチを取り出して拭いてくれた。酔いで顔から血の気が引いているのがわかる。きっと今の私は青白い顔で、酷く情けない表情をしているんだろう。つらいな、と少尉が声を掛けてくれるが、小さく口を開けて息を漏らすだけしかできなかった。

 それがいつの間にか眠りについていて、眠る少し前の光景。朧気ではあるが、厚い上着の上から、一定の速度で腹を撫ぜ続けた少尉の手の重みに安心したことだけは多分、ずっと、忘れられないのだろう。
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