目が覚めたのは、誰かが宿から出ていく音が聞こえたからだった。どうやら眠っている間に樺太アイヌの集落に到着して、その上に部屋の中で寝かされていたらしい。その間にソリ酔いはかなり良くなった。
外からはなにやらがやがやと騒がしく声が聞こえる。入口に掛けられている暖簾のようなものから外に顔だけ出すと、いち早く私に気付いた軍曹が凄い形相で叫ぶ。お前はそこで待機してろ、と。何が起こっているかは何一つ把握出来なかったけど、軍曹の顔と声色が怖すぎてすぐに引っ込めた。外では少尉の声も聞こえる。よく気付いたな月島、と軍曹を褒めるような言葉だった。一体何が起きてると言うのだ。
「ナマエ、もう大丈夫だぞ出て来ていい」
「……」
「ぁ」
少しの間待っていると、暖簾を上げて少尉と軍曹が外から顔を覗かせる。軍曹の顔を見てピャッと飛び跳ねてしまった。すごい勢いで少尉が軍曹の顔を見た。
「月島ァ、怖がらせているではないか!」
「しかし鯉登少尉殿、」
「お前の顔が怖いからだ!」
可愛い顔をしろ!私のように!とだいぶ無茶ある命令を下す少尉だが、依然として軍曹の顔は真顔を貫いている。納得いかないといった心情が見て取れた。
あの、と小さく声を出すと二人が私の方を見る。
「外で何か、あった?」
「人殺しが逃げてきた。エノノカが人質に」
「わぁ……」
やはりトラブル。ここでもアクシデントである。エノノカに怪我は一切なかったようで、その人殺しも既に連れていかれたらしい。アイヌのやり方で刑罰が下されるそうだ。鼻や耳を削ぐのかな、指の先っちょ切るのかな……。いや、考えない方が身のためかもしれない。
「ありがとう軍曹。外、危なかったんだよね」
「……いえ」
しっかりと礼をして、そのまま外に出る。ここら一帯は事件後特有の妙なざわめきが残っていた。泣いてヘンケにケアしてもらっているエノノカの元に行くと、パッと顔を明るくさせる。
「怖かったね、エノノカ」
「怖かった……! メコオヤシよりも怖い!」
「なぁに、メコオヤシって」
「化け猫! 荷物ぜーんぶ取られちゃうの!」
「やだ……それは怖いね……」
タフだ。意外にも大丈夫そうである。エノノカの頭の中はすっかり化け猫のメコオヤシが占領している。精神衛生上にもそっちの方が良いだろうと思ってそっとしておいた。そんな怖い経験は、できれば二度と思い出さない方が良い。
「お姉ちゃんの住んでたところにはメコオヤシいた?」
「住んでたところ、って……」
当たり前だが東京にそんなものはいない。いたとしたら大問題になって即ネットニュース行きだろう。それ以前に、東京はあったとしても、ここに『私が住んでいた東京』は存在しないのだ。答えようがない。どこからともなく、ぬるっと横から出てきた少尉が代わりに答える。
「エノノカ、このナマエはここに来る前の記憶が無いんだ」
「そっかあ! 思い出したら教えてね!」
すんなり納得したエノノカ。思わず『あ、そうだった』とか言いそうになった私を見て、少尉は『そうだった、みたいな顔をするな馬鹿すったれが』と小声で喝を入れてくださる。最初に決めた設定ではあるが今のところ一度も生かせていない。こうも詰めが甘いと逆効果なのでは?いつか自分の首を絞めるのでは?と思わざるを得ないが気付かないふりをした。
元気になったエノノカはチカパシと遊び始め、メコオヤシごっこに励んでいる。今はチカパシがメコオヤシ役のターンらしい。楽しそうで何より。杉元、谷垣、軍曹は集落の人たちとそれぞれ話しているようだ。それを私と少尉はどうでもいい雑談を繰り広げながら離れたところから見ていた。
「少尉の地元にはメコオヤシいた? 北海道だよね」
「いや、鹿児島だが」
「え、真逆すぎる」
意外だ。いや、意外か?褐色の肌は夏を連想させるし、何より少尉には暖かい場所が良く似合うと思う。冬のモコモコ装備の少尉も可愛らしくて良いが、夏の少尉はきっと焼けた肌が眩しいんだろうな。
それにしても鹿児島か、行ったことないな。
「鹿児島って行ったことなかった。帰ったら旅行で行こうかなあ」
「九州にも行ったことがないのか?」
「うん。生まれも育ちも東京だよ」
「……そうか。いい所だぞ、鹿児島は。暖かいし、何より人がいい」
「ふふふ。少尉みたいな?」
きょとん、と少尉は目を大きく見開く。ぱちぱち瞬きをして、おもむろに歩幅一つ分距離を縮めて、それから私の頬に手で触れる。指先が冷たくてくすぐったい。初めて会った時みたいに、親指で目の下をなぞった。何度も、何度も。びっくり顔だったはずの少尉は、いまやうっそりと甘やかに微笑んでいる。
「危ない人だな。お前は本当に」
「……」
「人は簡単に信用するものではない。いつかその甘さに付け込まれても知らんぞ」
ポカンとするのは、今度は私の番だった。いつのまにか少しずつ日が傾いてきていて、少尉が私に陰を落とす。
「そうなった時、少尉は助けてくれないの?」
「私がか?」
なんとなく答えは分かっていたはずだった。思わずじゃれているような甘ったれた声が出る。だって少尉はいつだって私を助けてくれて、守ってくれて。
しかし結果は、鼻で笑って一蹴りされてしまう。
「私は、お前に付け込む側なのに?」
少尉の顔ははっきりと見えるのに、何を考えているかさっぱりわからない。何か妙な駆け引きでもしてるような気分になって息が詰まり始める。
付け込まれるって、付け込むって、なに。誰が、誰に、何を。さっぱりわからない。私がいつ何を失言して、少尉にこうまで言わせてしまっているのだろうか。頭の中でぐるぐる思考を巡らせていると、少尉がくつくつと喉を鳴らした。
「ふふ、困ってるな」
「あ、え」
「そうやって私のことで悩んでいればいい」
「ど、どういうこと……」
パッと少尉は私の顔から手を離した。そのまま流れるように手を引いて歩いていく。妙な空気は消えたものの、頭の中には未だに少尉の影のある表情と訳の分からない言葉で埋め尽くされていた。もたもたとやや後ろを歩く私の手を引っ張って少尉は隣に立たせ、にこにこと私の顔を見る。
「……ほんのこてむぜね、わいは」
は、と音にもならないような声が漏れる。
「お前はそのままでいろ、と言ったんだ。鹿児島に行く前に薩摩弁でも勉強したらどうだ?」
「そんなの、少尉が教えてくれたらいいのに」
「それでは楽しみがないだろう。ナマエが勉強した薩摩弁、いつか私に聞かせてくれ」
いつかね。そうやってはぐらかすような言葉を返すことで精一杯だった。少尉はいつも通り、上機嫌に楽しそうに笑う。この人の知らない一面を見てしまうことが、どうしてか今の私には怖くてたまらなかった。