クラリタスの勲章

 谷垣のそばでメソメソしていると、少し離れた場所から有り得ないほどの爆音が鳴り響いた。
 何かが爆発したような、そんな音。いやここで爆音がなる理由なんて一つしかない。しかもそれが、さっき少尉と軍曹が進んで行った場所だとなれば話も変わってくる。一瞬だけ、目の前が真っ白になった。

「っ、ああ、だめ、だめだめだめ……!」
「ナマエ、ッ行くな!!」

 重症の谷垣が声を張り上げる。制止の声を全く聞き入れずに走り出した。今日の私は誰かを追いかけて走ってばかりだ。疲れるのも走るのも大嫌いだったのに、そんなこと考える余裕もなく、足が縺れることも顧みず走り続けた。

 爆発音がしたであろう場所に着くと誰かが倒れている。小柄で、見覚えのある色のコートを着ていたから誰だかすぐにわかった。軍曹だ。首元から大量の出血。しかしこの場に少尉が居ないということは、

「ナマエ……! なんでここに来た!!」
「……」

 流氷の上にまだ血痕が続いている。これがそのキロランケのものだとしても、少尉のものだとしても私に追いかけない選択肢はなかった。私を叱りつける軍曹の声もちゃんと聞こえているが、聞いてやる謂れもない。

 谷垣も軍曹も、怪我して欲しくないし死んで欲しくもない。だけど、少尉だけはそれよりももっと特別で、唯一で。私が駆けつけたところで何かが成し得られるとは思わない。だけど、最悪、自身が肉壁になっても良いとさえ思えたのだ。

「いた……」

 流氷の上には、少尉。その付近には流氷の陰に隠れて少尉を小銃で射殺しようとする男、キロランケの姿がある。彼もまたアシリパちゃんと同様、写真で見たことがあった。

 きっとここからだとどれだけ急いでも少尉が撃たれるまで間に合わない。キロランケが持つ小銃を見て、あ、とポケットをまさぐる。すぐにそれは手に当たって、手のひらにひんやりとした感触が伝わった。自分が今からしようとしている事への緊張で、背中に冷たい汗が伝う。

 取り出したのは、誰かの荷物の中に入っていた拳銃。

「フー、フーーッ……」

 両手でグリップをしっかり握る。ハンマーを親指でひっかけると、拳銃って感じの音が鳴った。あとは、……あとは、引き金を引くだけ。
 大丈夫、この距離ならハワイの射撃場で撃った。ちゃんとマネキンに命中した。脳天や心臓に完璧に当てる必要はない。体のどこかに当たれば、あわよくば、当たり所が良くて機動力を損なうことができれば御の字。最後にもう一度、深呼吸をした。

 絶対、当てなきゃいけない。

 パァン!と拳銃から音が鳴るのとほぼ同時に、少尉を今にも撃ち殺そうとしていたキロランケが体ごとこちらを振り向いて、刹那、小銃の引き金を引いた。拳銃の反動で尻もちを着いてしまうのと同時に、ピシ、と銃弾が何かに掠った音だけが聞こえる。ずっこけるその時、一瞬だけこちらを振り向いた少尉の顔は、表情までは良く見えなかった。

 体制を崩したのも束の間、すぐにいかないと、と立ち上がるのと誰かが私の肩を優しく押さえ付けるのは同時だった。

「……軍曹、と、谷垣」
「よく撃ち当てた、ナマエ。あとは俺たちが行く」
「当たってたんだ、あれ……」

 弾の行く末が分からなかったので、谷垣の言葉でやっと胸を撫で下ろすことが出来た。少尉の元に駆けていく軍曹と谷垣の後ろ姿をただただ眺めて、私はというと今更キロランケの弾が頬を掠めたことに気付いて痛みに悶える。ピリピリじくじくと痛んだ。まだ寒さで頬の痛覚は麻痺しているだろうに、それでもこの痛さ。情けない……!軍曹も谷垣も、あんなに血を流しても足を止めずに戦地へと赴いているというのに。

 パン、パン!と軍曹と谷垣が撃ったであろう小銃の音が聞こえて、やがてそこは静かになった。私、何をしてるんだろう。なんでこんなに非力なんだろう。私が男だったら、この明治に生まれていたら、屈強な軍人だったら、せめて守られるだけの女じゃなかったら、こんなに惨めで、悔しい思いはしなかったのに……!

 思わず唇を噛んで、じわじわ眼球に膜を張る涙を堪える。今ここで私が泣くのは絶対に違う。涙を零すのは悔しかったから顔を上げた。それはちょうどキロランケがグレネードからピンを引き抜くところで、放られたそれは谷垣、軍曹の横を通って少尉の元まで空中を舞う。それを見ても一切動じない少尉は迷いのない一太刀でグレネードを真っ二つに斬りつけ、やがて私のすぐ目の前で小さく爆ぜた。

 ぼやける視界ごしに見るそれが悔しいほど、眩しいほど、綺麗でかっこよくて息が詰まりそうだった。

「谷垣!!! 撃て!!!!」
「待って!!」
「アシリパ……」
「聞かなきゃいけないことがある!! 撃つな!!」

 大勢が駆け付けて一気に騒がしくなる。そこには写真で見た少女も居た。彼女が、アシリパちゃん。写真で見るよりもずっと可憐で可愛い。アイヌの民族衣装であろう紫色のヘアバンドがよく似合っている。多分ヘアバンドではないのだろうが。

 アシリパちゃんがキロランケに駆け寄り、いくつか言葉を交わしていた。よろよろと私も膝にムチを打って傍まで寄る。それはきっと、キロランケが息を引き取る瞬間だった。人の目の色が消えるのを、人生で初めて目の当たりにした。こんなにも冷たく、あっけないものだったのかと、妙に俯瞰で考えてしまう。ぐらり、と軍曹がよろけた。

「軍曹ッ!!」
「月島ァ! しっかりしろ!」
「ひどい怪我だ、良くここまで立っていられた」

 谷垣が感心するように言った。お前もだよ谷垣、と思っている暇もなく、谷垣は私に手を差し伸べる。

「え」
「まだあるか!? 包帯!!」
「ああ!! ある! あるある!」

 何かと思っちゃった。少尉に呉服屋で買い与えられた小さな斜めがけのカバンから包帯を三ロールくらい慌てて出す。即座にそんなに要らないと断られた。そうですか。

「少尉も、腕。怪我してるから包帯巻こう」
「……ああ」

 拳銃を撃つ時に外してから、手袋はいつのまにかなくなってしまっていた。多分海にでも落ちたんじゃないかな。でも包帯巻くならちょうど良かった。手袋したままじゃきっと上手く結べなかったから。真っ赤になった指先は無視して、無心で包帯を巻く。簡単な応急処置の方法すら知らないので全部巻かれている少尉による指示の元で。

「あ!! 向こうに人影がある!」
「アシリパとやら!! お前を保護するために我々は来た。杉元も我々に協力する取引をしている。私の許可なし離れるな!」
「……ちょっと見てくる!」
「俺も行く!」
「……」

 早速ナメられてて本当に不憫である。

 少尉の傷口を包帯でキュッと絞めたら呻き声を上げていた。私は軍曹に待機命令されていたにも関わらず勝手に走って着いてきて、挙句に勝手に拳銃を撃っている。クズリを撃った時だってあんなに怒られたんだ。今回も怒られる覚悟ではあるけど、それでもちょっと気まずかった。

「ナマエ」
「……はい」
「フッ、少しだけ泣いただろう」
「え」

 名前を呼ばれて顔を上げると、怪我をしていない方の手を私の目尻に寄せた。困ったように目元を下げて少尉は笑ってみせる。それはどうやら、怒っているような様子ではないようだった。

「凍った雫が、まつ毛に付いているぞ」
「……!」

 パチパチと瞬きをしてみる。今まで気付かなかったが、確かに視界にそれらしきものが映り込んできた。擦ると取れた。恥ずかしい。
 少尉の、私のまつ毛を見ていた視線が少しだけ下にずれる。頬に掠れた銃弾の傷で、そこは何度か少尉が指で撫ぜてくれた箇所だったことを今思い出した。少尉はというと、なんだか困ったようで、それでいて仕方ないと諦めたような表情だった。感情が読みやすいようでいて、それでもたまにこうして分からなくなる時がある。
 少尉は懐からいつも使っている上質なタオルハンカチを出して、頬の傷跡に滲む血をぽんぽんと拭った。ちょっと痛い。

「きっと、傷痕が残ってしまうだろうな」
「あの、……ごめんなさい。待機できなくて」
「言いたいことは色々あるが、今回はナマエに助けられたんだ。私に言えることなんて一つしかない」
「ひとつ」
「ああ」

 少尉が身体を近付ける。私の身体を抱き寄せて、一言。噛み締めるように、絞り出すように『ありがとう』と呟いた。聞いた途端、胸の中を色んなものが込み上げてきて、なにも考えずに少尉の首元に両腕を回していた。きつく抱きしめる。あんなに悔しくて、絶対泣くもんかと堪えた涙が溢れてくる。ああ、ああ、温かい。彼は生きている。

「少尉が生きてて、本当に、良かった……!!」
「この私がナマエを残して死ぬわけないだろう。全く可愛いヤツめ」

 ポンポンと少尉の手によって背中がさすられる。泣いていることはきっとバレバレだろうが、意地でも涙を見せたくなかった。涙が傷に滲みて痛い。痛いけど、気が済むまで、腕に力を込め続けた。
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