愛執、揺籃に
かみさま

春霞




「わ、凄いねヘンケ! 即席でソリ作ったの?」
「ヘンケ頑張ったって!」
「ありがとうヘンケ! さすがヘンケ!!」

 翌朝。我々は北上のため燈台を出た。昨夜、結局ご婦人からの用というのも私の月経を見越したもので、処理について丁寧に教えてくれた。痛みが和らぐようにと暖かいハーブティーも出してくれたし、至れり尽くせりである。

 杉元がご夫婦の一人娘のスヴェトラーナの写真を貰い、私たちの人探しリストに一人加わった。ヘンケが作ってくれたというソリに乗って、今日も元気にトホ、トホ、トー!である。先日の雪山で死にかけた私のことが少尉は心配でならないらしく、私は先頭ソリのスタメンとなった。比重については荷物を多めに後方のソリに乗せることで解決したようだ。これまで通り、私はエノノカを抱きしめてソリに跨る。

「ふふふ、がおー」
「きゃあ! 捕まった!」
「がぶがぶがぶ!」

 エノノカがバタバタと手を動かす。今は私の前に座るエノノカと手遊び中である。私の手を猛獣に見立てて、エノノカの小さなふくふくのおててを手袋越しにがぶがぶと捕食していく。よろけると危ないからちゃんと後ろから抱き締めているためほとんどは私の勝ちであった。エノノカに逃げ場はない。ここから目的地までまだまだ時間があるので、その間、私はずっとこうやってエノノカの暇潰しに付き合ったのである。

 しんしんと雪が降り積もる。しばらくして、私たちは目的地まであと少しというところまで来ていた。私はというと手遊びを強制的に終える羽目になって、空いた手で必死に口元を抑えている。見かねた少尉が後ろから器用に私の顔を覗き込んだ。

「……ナマエ?」
「ウッ……プ……」
「どれほど手遊びに熱中するとそうなるんだ……」

 私の後ろに座る少尉が呆れ半分にため息を吐く。あろうことか私はソリ酔いでグロッキー状態になってしまったのである。情けないにも程があるが、言わずもがな手遊びに熱中しすぎて、だ。エノノカはと言うと、ゲロだけはかけられまいと私のソリ酔いを察してすぐに体をヘンケに寄せてしまった。さっきまで私にべったりとくっついてじゃれていたと言うのに。

 今日の目的地である新問付近にある樺太アイヌの集落には、昼頃までには着いておきたかった。今日は昨日と比べてかなり天気も良いし、また大雪に見舞われては今度こそ死んでしまうかもしれない。そういった事情で、ソリを停めて休憩するなどという甘ったれた選択肢は我々には無く。ここは真冬の樺太だというのに私は少尉に身体を預けてふうふうと冷や汗をかいていた。

 気持ち悪さで指先にも力が入らず、脱力している私の体は小さな揺れですぐにバランスを崩しそうになるが、酔いで何も考えられない私の気はそこまで回らない。姿勢を正す気力もなくウンウン唸る私を見かねた少尉が、脇の下に腕を滑り込ませ、より自身の胸元へと抱き寄せた。この旅でずっと近くに居たおかげで嗅ぎなれてきた少尉の匂いが、ふんわりと鼻腔を通り抜ける。一目散に私から見を離したエノノカとはえらく違った対応である。本当に彼にはずっと頭が上がらない。

「ごめんね少尉……意外と手遊びが楽しくて……」
「いい。もっと体を預けろ、辛くなるだけだ」

 言われた通りに体重をかけ、頭を少尉の鎖骨あたりに寄せる。少尉も私を抱き込むように身体を寄せた。謎のフィット感によって、自分でバランスを取らずとも安定していられるのは随分と楽だった。私はいつだってこの人に助けられているような気がする。私には何が出来るだろうか、返せることはあるのだろうか。

 そんなふうにぐるぐる思考の渦に陥っていると、少尉は私だけに聞こえるようにぽそぽそと喋り始めた。気が紛れるように、とお心遣いが痛み入る。

「酔う辛さは、私もよく知っている」
「……少尉も酔うの」
「ああ。酒やソリ、鉄道なんかは平気だが、船酔いだけは目も当てられないほど酷い」
「そうなんだ、珍し……ぅ……」
「おい、耐えろナマエ。もうじき着く」

 額にじんわりと汗が滲む。少尉が懐からやけに可愛いタオル生地のハンカチを取り出して拭いてくれた。酔いで顔から血の気が引いているのがわかる。きっと今の私は青白い顔で、酷く情けない表情をしているんだろう。つらいな、と少尉が声を掛けてくれるが、小さく口を開けて息を漏らすだけしかできなかった。

 それがいつの間にか瞼が重く降りてきて、眠るほんの少し前の光景。朧気ではあるが、厚い上着の上から、一定の速度で腹を撫ぜ続けた少尉の手の重みに安心したことだけは多分、ずっと、忘れられないのだろう。









 目が覚めたのは、誰かが宿から出ていく音が聞こえたからだった。どうやら眠っている間に新問付近の樺太アイヌの集落に到着して、その上に部屋の中で寝かせてくれていたらしい。その間にソリ酔いはかなり良くなった。

 グッと伸びをしていると、外からはなにやらがやがやと騒がしく声が聞こえる。入口に掛けられている暖簾のようなものから外に顔だけ出すと、いち早く私に気付いた軍曹が凄い形相で叫ぶ。お前はそこで待機してろ、と。何が起こっているかは何一つ把握出来なかったけど、軍曹の顔と切羽詰まったような怒号が怖すぎてすぐに引っ込めた。外では少尉の声も聞こえる。よく気付いたな月島、と軍曹を褒めるような言葉だった。一体何が起きてると言うのだ。

「ナマエ、もう大丈夫だぞ出て来ていい」
「……」
「ア、」

 少しの間待っていると、暖簾を上げて少尉と軍曹が外から顔を覗かせる。軍曹の顔を見てピャッと飛び跳ねてしまった。三秒ほど謎の間が空いてから、すごい勢いで少尉が軍曹の顔を見た。

「月島ァ、怖がらせているではないか!」
「しかし鯉登少尉殿、」
「お前の顔が怖いからだ!」

 可愛い顔をしろ!私のように!とだいぶ無茶ある命令を下す少尉だが、依然として軍曹の顔は真顔を貫いている。納得いかないといった心情が見て取れた。
 あの、と小さく声を出すと二人が私の方を見る。

「外で何か、あった?」
「人殺しが逃げてきた。それでエノノカが人質に」
「わぁ……」

 やはりトラブル。ここでもアクシデントである。エノノカに怪我は一切なかったようで、その人殺しも既に連れていかれたらしい。アイヌのやり方で刑罰が下されるそうだ。鼻や耳を削ぐのかな、指の先っちょ切るのかな……。いや、考えない方が身のためかもしれない。

「ありがとう軍曹。外、危なかったんだよね」
「……いえ」

 しっかりと礼をして、そのまま外に出る。ここら一帯は事件後特有の妙なざわめきが残っていた。泣いてヘンケにケアしてもらっているエノノカの元に行くと、パッと顔を明るくさせる。

「怖かったね、エノノカ」
「怖かった……! メコオヤシよりも怖い!」
「なぁに、メコオヤシって」
「化け猫! 荷物ぜーんぶ取られちゃうの!」
「やだぁ……それは怖いね……」

 タフだ。意外にも大丈夫そうである。エノノカの頭の中はすっかり化け猫のメコオヤシが占領している。精神衛生上にもそっちの方が良いだろうと思ってそっとしておこう。そんな怖い経験は、できれば二度と思い出さない方が良い。そんな風に考えていると、エノノカが私の袖を引いた。きゅるん、とまあるい瞳が私を映す。

「どうかした?」
「お姉ちゃんの住んでたところ、メコオヤシいた?」
「住んでたところ、って……」

 当たり前だが東京にそんなものはいない。メコオヤシとは、そもそもが言い伝えのようなもの。もしも発見されたら即刻大問題になって数分後にはネットニュース行きだろう。それ以前に、この東京にメコオヤシが存在してたとしても、『私が住んでいた東京』は存在しないのだ。どうにも言いようがなくて答えあぐねていると、どこからともなく、ぬるっと横から出てきた少尉が代わりに答える。

「エノノカ、このナマエには記憶が無いんだ」
「そっかあ! 思い出したら教えてね!」

 すんなり納得したエノノカ。思わず『あ、そうだった』とか言いそうになった私を見て、少尉は『そうだった、みたいな顔をするな馬鹿すったれが』と小声でありがたい喝を入れてくださる。
 一応最初に決めた設定ではあるが今のところ一度も生かせていない。こうも詰めが甘いと逆効果なのでは?いつか自分の首を絞めてしまうのでは?と思わざるを得ないが気付かないふりをした。

 元気になったエノノカはチカパシと遊び始め、メコオヤシごっこに励んでいる。今はチカパシがメコオヤシ役のターンらしい。楽しそうで何より。杉元、谷垣、軍曹ら軍人さん達は集落の人たちとそれぞれ話しているようだ。
 それを私と少尉はどうでもいい雑談を繰り広げながら離れたところから見ていた。

「少尉の地元にはメコオヤシいた? 北海道だよね」
「いや、鹿児島だが」
「え? 真逆すぎる」

 意外だ。
 いや、意外か?褐色の肌は夏を連想させるし、何より少尉には暖かい場所が良く似合うと思う。冬のモコモコ装備の少尉も可愛らしくて良いが、夏の少尉はきっと焼けた肌が眩しいんだろうな。
 それにしても鹿児島か、行ったことないな。

「鹿児島って行ったことなかった。帰ったら旅行で行こうかなあ」
「九州にも行ったことがないのか?」
「うん。生まれも育ちも東京だよ」
「……そうか。いい所だぞ、鹿児島は。暖かいし、何より人がいい」
「ふふ。少尉みたいな?」

 鹿児島、めっちゃ好きなんだろうな。嬉々として語る少尉が可愛らしく思えて、笑みが毀れる。
 私の言葉を聞いて、きょとん、と少尉は目を大きく見開いた。ぱちぱち瞬きをしてから、おもむろに歩幅一つ分距離を縮めて、私の頬に触れる。初めて会った時みたいに、親指で目の下をなぞった。ずっと黙ったまま、何度も、何度も。指先が冷たくてくすぐったい。
 びっくり顔だったはずの少尉は、いまやうっそりと甘やかに微笑んでいる。

「危ない人だな。お前は本当に」
「……」
「人は簡単に信用するものではない。いつかその甘さに付け込まれても知らんぞ」

 ポカンとするのは、今度は私の番だった。いつのまにか少しずつ日が傾いてきていて、少尉の体躯が私に陰を落とす。

「そうなった時、少尉は助けてくれないの?」
「……私がか?」

 なんとなく答えは分かっていたはずだった。思わずじゃれているような甘ったれた声が出る。だって少尉はいつだって私を助けてくれて、守ってくれて、頼りになる存在なのだ。
 しかし結果は、鼻で笑って一蹴りされてしまう。

「私は、付け込む側なのに?」

 少尉の顔ははっきりと見えるのに、何を考えているかさっぱりわからない。何か妙な駆け引きでもしてるような気分になって息が詰まり始める。

 付け込まれるって、付け込むって、なに。誰が、誰に、何を。何も理解できない。私がいつ何を失言して、少尉にこうまで言わせてしまっているのだろうか。そもそも彼は怒っている?忠告している?与えられる言葉全て、何一つとしてわからない。
 頭の中でぐるぐる思考を巡らせていると、少尉がくつくつと喉を鳴らした。

「ふふ、困ってるな」
「あ、え」
「そうやって私のことで悩んでいればいい」
「ど、どういうこと……」

 パッと少尉は私の顔から手を離した。そのまま流れるように手を引いて歩いていく。妙な空気は消えたものの、頭の中には未だに少尉の影のある表情と訳の分からない言葉で埋め尽くされていた。もたもたとやや後ろを歩く私の手を引っ張って少尉は隣に立たせ、にこにこと私の顔を見る。

「……ほんのこてむぜね、わいは」

 は、と音にもならないような声が漏れる。

「ふふふ。お前はそのままでいろ、と言ったんだ。鹿児島に行く前に薩摩弁でも勉強したらどうだ?」
「そんなの、少尉が教えてくれたらいいのに」
「それでは楽しみがないだろう。ナマエが勉強した薩摩弁、いつか私に聞かせてくれ」
「……」

 いつかね。そうやってはぐらかすような言葉を返すことで精一杯だった。少尉はいつも通り、上機嫌に楽しそうに笑う。この人の知らない一面を見てしまうことが、どうしてか今の私には怖くてたまらなかった。
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