朝方、医者を呼ぶために杉元たちは一度ニヴフを発った。軍曹の首の傷を診てもらいたいのと、亜港監獄で拾ったらしい尾形という男の容態がみんなは気になっているようだ。私たちは密入国者であるため少尉なんかはロシアの医者に頼ることを拒んだが、ニヴフの格好をすればバレないと暴論で杉元が押し切る。その案が採用されて杉元はニヴフの民族衣装を着用していたが、妙にガタイがいいのと顔にご立派な傷痕があるおかげで民族衣装が浮いていた。馬子にも衣装だと呟いたら喧嘩になりかけたので、発言には気を付けようと思う。
「軍曹、先生はなんて言ってる?」
「病院の方が機材が揃っている、と。ここではナマエの傷くらいしか手当ができないそうだ」
「……」
杉元が引き連れてきた医者が私を見て鼻を鳴らす。バカにしてんだろ。これくらいならニヴフの方々が薬草を捏ねて作ってくださる薬でも塗っておけば三日で治るわ!むきー!と思って威嚇していると、少尉が一歩前に出る。合わせて私の背中も押される。
「そうか、では今すぐにナマエの手当てもしろ」
「いやなんで。それより病院連れてかなきゃダメなんでしょ、この人(尾形さん)」
「だめだ。ここでやれ」
頑固である。医者の顔色を見るに、尾形さんはここでは処置しきれないのだろう。最終的に尾形さんを病院に連れていく判断を下した杉元の一言で、この雪が降る中、街まで犬ゾリで成人男性を運ぶことになったのだ。
みんなが着込んで厚着になっているのを見る傍ら、少尉に声を掛ける。
「私ここに残ってていい?」
「……。いや、どうせなら頬を診てもらえ」
「痛みもマシだしほんとに大丈夫だよ、少尉」
「傷痕は薄い方がいい。だから、来い」
「……」
私の荷物の中からショールを取り出し、少尉は私の首元に丁寧に巻いた。取り付く島もない。私の意見など聞かず、決定事項であることに少しだけムッとしたが、手を差し伸べられては私に選択肢は無いのだ。ここでの旅で何度も何度も手を引かれて刷り込まれたそれはまるで、パブロフの犬のようで。反射のような形で少尉の手を握り返すと、今度は満足気に頷いた。
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尾形さんは現代で言うオペルームのような場所に運び込まれ、それから暫くしてエノノカを引き連れて私は別室で優しいロシア人の看護師さんに傷口を消毒されていた。あまりにも私が治療を渋るため、お目付け役として傍で見ているよう少尉に現金を握らされているのだ。その元気はヘンケに渡り、現在は痛い痛いと喚きながら消毒液を塗られている私の手を握っては、大丈夫だよ!と鼓舞してくださっている。全然痛いんだけど。あんまり大丈夫ではないんだけど。
「い、痛い痛い! え痛いんだけど!?」
「大丈夫!」
エノノカが言う大丈夫、根拠が無さすぎやしないか。令和の現代医療に頼って生きていた身分である私としては明治時代の消毒液ってあんまり信用出来ないんだけど。
消毒が終われば次は軟膏のようなものを塗りたくって、最後はガーゼで蓋をして、包帯で後頭部からまず顎にかけて一周、そしてもう一周目で頬のガーゼを固定した。たかだか頬の擦り傷一つであるのに随分と大袈裟で物々しい装いになってしまう。今後も手入れができるように、と看護師さんはガーゼを複数枚と、ガラス瓶の容器に入れられた軟膏を手渡してくれる、包帯は余るほど持っているのでさすがに断った。こんなヤクザのような形で無理やり押し入った我々を相手に、親切なお姉さんである。
「……なんか外騒がしいね?」
「さっき杉元ニシパ、叫んでた!」
「ええ? うそ」
雪が降っているせいで音が篭っているが、複数人が駆ける足音が聞こえてきた。エノノカによると、杉元が叫んでいたそうだけど、記憶を辿るがそんなもの聞こえなかった気がする。うんうんと考え込む私を見て、エノノカはにっこりと笑った。
「お姉ちゃんも叫んでたから! 痛い痛いって!」
「……」
うら若き少女に曇りなき眼で言い切られると流石に堪えるものがある。じゃあなんだ、私は自分の痛みに必死で周りの音が聞こえてなかったと言うのか。納得いかないながらもエノノカの手を引きながら病院の外に出るとやはりと言うべきか誰もおらず、うーんと唸ってみる。強風に煽られ、思っていたよりも寒かったため病院の中に一旦戻ってみると、奥から物音がした。なんだ、みんな中で待ってるんじゃん。とにかく音の出処だと思われる部屋のドアノブに手を掛けた。
「……少尉? あ、ぇ」
「ナマエ……!」
「アンタ、一体何してるんですか!?」
視界にまず入ったのは床に伏す少尉。その少尉に拳銃を突きつける尾形さん。もぬけの殻のベッドに開け放たれた窓、部屋の隅で身を寄せ合う看護師さんと医者の先生。ガンガンと脳内でけたたましく鳴り響く警報に、思わずエノノカを背後に隠した。処置を終えて片目を包帯でぐるぐる巻きにされている尾形さんのまだ動く方の左目が私を捉える。ずっと眠っている姿しか見ていなかったから知らなかったが、底なしに真っ黒で光が入らない瞳をしていた。
「オイ、騒ぐなよ」
「……!」
「ははぁ、そうかお前、鯉登少尉の女か? 人質に使えそうだな……」
外から白石と谷垣が会話している声が薄らと聞こえる。ぼそぼそと低いテノールボイスで話す尾形さんは少尉に銃口を向けたまま、一方的に私に話しかけた。
彼がアシリパの誘拐事件の犯人側に加担していたのは、杉元の話しぶりからしてなんとなく理解している。この人に詳しい話を尋問する為に治療までしてやってる、というのも、分かっている。その結果が、これ。私の治療後に感じた喧騒はきっと、空のベッドに開け放たれた窓を利用してこの人が脱走したかのように偽装したから。
「……」
真っ黒な瞳が、視線が私を射抜く。沈黙が耳に痛い。項から背筋にかけて、冷や汗が滲む。
だったら、この尾形さんに少尉が銃口を向けられている今の状況はあまり良いとは言えない。どうせなら私を人質に利用してもらった方が良い。國に命を捧げる少尉なら、きっと、いや絶対に判断を間違えない。彼は私を切り捨てる。だから、
私を人質に選べ、選べ、選べ____!
「……なんてな」
「……」
「お前、考えてること全部顔に出てるぜ」
「っ、あ」
尾形さんは私を一瞥した後に鼻で笑って、間髪入れずにそのまま少尉の顔面を蹴りつけた。思わず声が漏れる。杉元や軍曹、谷垣のような気迫こそ感じないものの、この尾形さんも軍人である。蹴りの一撃が重く少尉に降り掛かった。少尉は蹴られた反動で、一転、二転と転がってやがて這い蹲る。私が駆け寄ると同時に尾形さんは窓から飛び出し、そしてすぐに馬の鳴き声と駆ける足音が聴こえた。
「くそ! ねえアイツ逃げちゃったよ! 少尉、追いかける!?」
「……いや、いい。外には杉元達がいるし、馬で逃げた尾形を走って追いかけるのは無謀だ」
「そ、っか……ぁ、怖かったよね、エノノカ、大丈夫?」
「うん、大丈夫!」
それにしても、くそか……と噛み締めるように少尉が呟く。咄嗟に出た私の言葉を拾われたらしい。ちょっと嬉しそうなのは何でなんだよ。
凶悪犯、尾形がいなくなったことで緊張の糸がはち切れ、ドッと疲労感が押し寄せた。扉の外にいたエノノカを呼ぶと慌てて躍り出てきて、私の背中に飛びつく。ぐらりと体制を崩して膝をつくと、エノノカが頬擦りした。いつの間にか床に手を着いて上体を起こしていた少尉から視線を感じて目を合わせてみると、蹴られた左の頬のせいで唇に血が滲んでいる。
「少尉、蹴られたところは大丈夫? あ、頭も殴られてるね?」
「それより、」
「……?」
「尾形に何もされなくて、本当によかった……」
膝を突き合わせるや否や、神妙で、それでいて心底安堵したような声色で呟いた。何もされなくてよかったって?少尉が?いいや既に顔面に重い重い一撃を入れられている。拳銃で撃たれやしなかったものの、無事とは言い難い。
これは愚問だ。何もされなくてよかったとは、間違いなく私のことである。自身の怪我の具合よりも気にすることがこれとは、思わず鼻で息を吐いてしまった。本当に仕方の無い人だ。
「聞いてたでしょ? 私じゃ人質にもなれないよ」
「そうとは限らんだろう。もしもナマエが、人質になってしまえば……、私は、」
「……」
「私は、ナマエを、」
少尉の視線がうろうろと空を彷徨って、やがて地面に落とされる。どうにも言い難い言葉があるみたいで、けれどやっぱり彼は私の思った通りの人だった。なんだか誇らしくもある。
軍人たれ、だ。少尉はこの日本に必要不可欠な人間である。今後もっとたくさんの命を預かる人になるような、そんな人だ。迷いはあれど、判断を決して間違ったりしない。
両手で少尉の頬に触れ、きゅっと挟む。そうすると自然と下を向いていた少尉の顔が擡げて、窓から差し込む月の光に晒された。可愛い顔しちゃって。
「うん……うん、わかってるよ。大丈夫だよ、少尉」
「……。ほんのこてわかっちょっとか、わいは」
「わかっちょ。わかっちょーよ」
「……」
その気持ちだけで十分なのだ。少尉の心遣いは、この旅の中で痛いほどに身に染みている。納得できていないような少尉の表情が気になるけれど、そんなことよりも、まずはその頬と後頭部を診てもらうべきである。せっかく目の前に医者がいるのだから。
「エノノカ、そこのお医者さん呼んでくれる?」
「わかった!」
その後、少尉は黙って手当てを受け入れていたが、頬の軽い傷一つで痛い痛いと嘆き喚いていた私とは格が違うのだと流石に思い知らされた。彼の痛覚は死んでるんじゃないだろうか。
「それにしてもナマエ。随分と愉快な頭になったな」
「分かってるよ、大袈裟だって言いたいんでしょ」
「ふふふ。いや? 足りないくらいだ」← - back - →
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