純粋無垢、
清廉潔白な恋で

春霞




 尾形さんが我々の一味から抜け出した。行方を眩ませた彼の姿はついぞ見つけられないまま、結局私たちはその次の日にニヴフの集落を後にすることとなる。あんなに馴染んでいたニヴフの民族衣装もその時に泣く泣く返却して、ロシアに来た時と同様、国境を犬ゾリで駆け抜ける。違法の密出国であった。うーん、背徳感が堪らないね!
 あばよロシア!という白石の軽薄な声が白い雪に紛れて消えた。北海道に戻ってきた日は立ち寄った樺太アイヌの集落で一泊し、そして今日は朝早くから静香という町に顔を出している。しばらくの間、アイヌや民族の集落を点々としていた我々にとって、日用品の買い出しができる街に繰り出すことは大きな意味を持つのだ。すっと冷たい空気を吸い込む。

「日本食が!! 食べたい!!!」
「ふふふ、何でも好きなものを食べるといい」
「さすが太っ腹! よっ! さす少!」
「……なんだ? おい、さす少? とはなんなんだ、ナマエ」
「俺も味噌買いたいなぁ〜」
「味噌かぁ、お味噌汁のみたいなぁ……!」

 頬の傷も塞がって全快の私は、いまや食欲に全振りである。静香に着くやいなや早速欲望の全てを叫ぶ私に、毎度の如く少尉が甘やかしてくれる。さすが少尉、さす少!最早甘やかすなとは軍曹は突っ込んでくれなくなった。やりたい放題である。杉元の味噌という言葉で私の中の大和魂がむくむくと芽を出し始めた。

「だったらナマエさん、一膳飯屋はどう?」
「……一膳飯屋?」
「一膳飯屋とはなんだ、杉元」

 一膳飯屋。聞き馴染みのない言葉である。有名なチェーン店のようなものだろうか。杉元の言葉に聞き返すと、アシリパも同じように反応した。そんな私たちを見て、杉元よりも早く谷垣が簡単に説明してくれる。

「定食が食べられる食堂のことだ」
「一膳飯屋だと? どうせならもっと良いものを食べろ、ナマエ」
「いや、定食食べる。定食屋さんがいい!」
「キエ……」

 お金持ちの少尉は定食屋なぞ興味無いかもしれないが、そんなこと私の知ったことではない。そも、何でも好きなものを食べろと最初に言ったのは少尉である。俄然断然お味噌汁。それを飲むためだけに私はこの静香に降り立ったと言っても過言ではないのだ。

 あの店がいいこの店がいいと悩んだ結果、他の店よりも少しだけ上等な一膳飯屋、定食屋さんに入店する事に決まった。全部少尉の采配である。折角町まで出てきたのに安いご飯を食べるのは嫌だったらしい。どこまで行っても坊ちゃんだなこの人は。好きな席に座るよう言われ、大人数である我々は大きなテーブル二つを移動させて席についた。斜め向かいに座っている白石が私をまっすぐ見て、首を傾げた。

「ナマエちゃんはどれにするの?」
「あの、お品書きとかは? ない?」
「お品書き? ナマエさん、記憶無くなる前はお嬢さんだったのかもね」
「こういった店に品書きなどない。壁に貼ってるものから選ぶんだ」

 あ発言ミスった。私の問いに、杉元、軍曹が答えてくれる。あ、そうなんだ。ここにきて店で食べたものと言えば天ぷらそばだけだったので知らなかった。もっと早く知りたかったよ。思いながら、ぐるりと店内を見渡してみる。にしても明治時代の文字、現代とは少し違っていて読みづらいんだよな……。

「杉元は何食べるの?」
「俺? 俺は鯖食べるよ」
「鯖かあ……。少尉は?」
「私は鯛の塩焼きだな」
「たい」

 定食屋で鯛て。そもそも魚しかないのかここは。決して嫌いではないが、生姜焼き定食とかからあげ定食とか期待していたからちょっとだけ萎えた。失礼にも程がある。壁に貼られている文字は読みづらい上に、少しよれていて何が書いているのかさっぱりな私はそれとなく杉元と少尉に探りを入れてみるも、返ってくる返答はもっぱら魚ばかりであった。
 ふふ、と隣から弾むような声が聞こえたから顔を向けると、少尉は困ったような、それでいて慈しむようなはにかみを見せる。少し屈んで、顔を私のすぐ側に寄せた。

「山菜や煮魚も捨て難いな、ナマエ? あとは刺身も美味そうだ」
「……!!」
「どれが食べたいんだ?」
「刺身がいい!」

 身を寄せて、内緒話をするみたいにメニューを教えてくれる。他の人に聞こえても不自然じゃないように気を使ってくれたのがすぐに分かった。刺身がいいと即答すると、そんな私を見て今度は嬉しそうに歯を見せて笑う。私はこの人の、こういうところが大好きなんだと思った。少し離れた場所で、谷垣が店主を呼ぶ声が聞こえる。

「鯛と、刺身と……あとは?」
「こっちは鯖二つで」
「だそうだ」
「はいよー」

 注文してからしばらくして、美味しそうな匂いが漂ってくる。焼き魚の匂いかな、これ。ここは海に近い場所であるし、捕れる魚も豊富なんだろうな。鯖も食べたいし鯛も食べてみたい。各々好きに話して配膳されるまで待っていると、ついに運び込まれてきた。若草色の着物を着たお姉さんたちが丁寧に一つずつ持ってきてくれる。

「おお、お刺身だ……!」
「ナマエさんそれ結構高いからね」
「え」
「味わって食べるんだぞ、ナマエ」

 杉元が私の刺身定食を見る。言われてみれば、そりゃあそうである。生食なんて管理の面倒なもの、この明治時代に定食屋で出そうと思えばそれなりにコストもかかるはず。ちらりと少尉を見やると、全く気にする素振りはないどころかもう既に鯛の塩焼きに手を付けていて、楽しそうに身を解していた。さすがお坊ちゃん、所作が綺麗だ。少しだけ眺めていると、ばち、と目が合う。

「……物欲しそうな顔だな」
「え」
「いいぞ、一口やろう」

 むいむいと一口大に鯛を分ける。それを箸で掴み、落とさないように少尉自ら手を添えた。アーンしろ、と有無を言わせぬような眼差しで見詰められるものだから勢いに負けて大人しく口を開いてみる。ぽん、と放り込まれた鯛。程よい塩味で、しっとりとしている。美味しい。

「んん、これ美味しいね少尉」
「……ふふふ、むぜね、ナマエ」

 目を見開いて鯛の美味しさに舌鼓を打つ私を見て、少尉が上機嫌を隠そうともせず笑った。

「少尉さ、たまにむぜねって言うけどどういう意味なの」
「知らんと聞いていたのか」
「うん。馬鹿すったれとかほんのこては何となくわかるけど、むぜって標準語にもないし」
「……。良い食べっぷりだな、という意味がある」
「ふうん」

 言うかどうか悩むような素振りを見せてから、程なくして普通に教えてくれた。なるほど、良い食べっぷりか。隣で鯛を上品に食べ進める少尉を見て、私も同じように言ってみる。

「じゃあ、少尉もむぜだね」

 ぱたりと少尉の食べ進める手が止まった。はっとしたような顔で私に一瞬だけ眼差しを向けて、それから今度は得意げに顔をほころばせる。柔らかく、口角が上がった。

「……ふふ、知っちょい」

 なんだか絞り出すようにも聞こえたその声が、喜んでいるのかどうか分からなくて、そのまま私は刺身を頬張った。若芽が入ったお味噌汁が美味しかった。




 一方、そんな二人を眺める杉元と月島は神妙な顔で視線を交差させた。

「食べてる時以外にも言ってたよなあれ。本当はどういう意味?」
「たしか、可愛いとかだった気が……」
「なんっだそれ、バカなの? なんで嘘教えるかなぁ」
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