漁港から船が出発した。桟橋からそれを眺めながら、係船索と呼ばれる船に繋がれていた縄をぐるぐると手に巻き付けて集めた。少し湿っていて、それがなんだか手に馴染む。
長い冬が開け、春が訪れた。金塊争奪戦は終わってしまったのだ。あれほど様々な人を巻き込んで、あんなにも大軍を引き連れたというのに、我々は敗れたのだ。怪我人はすぐさま病院に運び込まれ、例に漏れず自身も即病院送りになったわけだが、目が覚めた時はあまりの現実の無情さに絶望した。今までの苦労は何だったのだと、詰め寄って詰ってしまいたかったのだ。
しかし鶴見中尉殿の消息は未だ掴めず、安否すら確認できない始末。せめてあの額当てだけでも、もしも亡くなっているのなら、骨だけでも。あの人が亡くなってるなどとは到底思えなかったが、藁にも縋る思いで各地を探し求めていた私の前に現れたのは鶴見中尉殿などではなく、鯉登少尉殿だった。その日のことはよく覚えている。それは金塊争奪戦が終わってから半年程経った、よく晴れた日だった。
圧倒的なカリスマ性。その権化とも言える鶴見中尉殿がいなくなった今、大日本帝国陸軍、ひいては第七師団はめちゃくちゃである。そんな場所に鶴見中尉殿の腹心であった己がただ一人戻ろうなどとは思えず、その日も変わらず函館で働きながら鶴見中尉殿の消息を辿っていたというのに。優秀な右腕が必要だと、ちからになって欲しいと、助けて欲しいと真っ直ぐな瞳で見つめられてはお手上げだったのだ。
そういった経緯で私は函館湾で船の世話をする下働きから、鯉登少尉殿の補佐としてまた鬼軍曹の名を持つ軍人へと返り咲いたのが、一年と少しほど前の出来事である。そう、これが一年と少し前。鯉登少尉殿は若いながらも持ち前の頭の回転の速さと統率力を惜しみなく発揮し、たまに私とも頭を付き合わせて今後の動向について考えを巡らせ、反乱分子と見なされていた我々にとっては険しい道ではあるが地道に成果を出し続けている。その働きあってか、既に上層部からは中尉へ昇格させるか否かという話も上がっているという噂も耳にした。あくまで噂であるが。この通り、鯉登少尉殿は大層熱心に働かれている。
書類仕事に追われ、連日この旭川第七師団のある駐屯所から出ず、あれこれと働く姿は鬼神のごとく。羽休めも兼ねて一度家に帰った方が良いと進言したことがあったが、その際も彼は旭川に設けている立派な家に大量の仕事を持ち帰り、翌朝はそれを満足気に並べていた。思わず頭を抱えてしまった。はっきり言って異様である。
そこまでして今すぐに出世がしたいのか、と疑問に思うほど。確かに今は金塊争奪戦のこともあって上層部からの疑念の声が気に障るのも分かるが、その前に。あなたにはやらなければいけないことがあるでしょうと、そう思うのだ。言わずもがな、必ず迎えに行くと断言した、樺太アイヌの集落で待たせたままの彼女である。
鯉登少尉殿が常に懐に入れて大切にしているあのハンケチ。それに薄らと残ったナマエの血の跡を見ては憂いている場を何度か目にしている。決まって人気のない場所でそんなふうにしているものだから、きっと俺が知らない所でもそうやって彼女を思い出しては心の支えにしているのだろう。だとするならば、今の状況は殊更おかしな話である。彼女の話になるとなんでもない風を装って露骨に話を逸らす鯉登少尉殿を見ていられず、俺は三日ほどの休暇をもぎ取り即座に稚内付近に向かう蒸気機関車の切符を購入。そのままの足で大泊行きの船に乗った。長時間乗り物に乗っているとあまり気分は良いとは言えなかったが、犬ゾリでバカな酔い方をする彼女のことを思い出せたのでまあ、良かったのだと思う。
底抜けに明るくて、眩しくて、鯉登少尉殿に無理にでも休暇を叩き付けられる人間が今は必要なのだ。鯉登少尉殿がどんな心境で彼女を遠ざけたがるのかは知らないが、こちらは縁談を全て蹴り、ちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返していることは知っている。真面目で人情深く、義理堅いあの人のことだ。ナマエが忘れられていない内は縁談を受けないつもりでいることは明々白々であった。
「もしかして、月島ニシパ……!?」
大泊から暫く歩くと見知った光景が広がった。たかだか二年ぽっちしか経っていないが、樺太アイヌの集落は随分と懐かしく感じられる。どこもかしこもあの時のままであったが、雪が積もっていないとこうも変わるのかと関心した。
「エノノカ、久しぶりだな。息災だったか」
「そくさい」
「……。元気にしていたか?」
「うん、元気!」
二年も経てば、幼かったエノノカも可憐な少女のような装いになるものである。ナマエはどんな風に変わっているのだろうか。エノノカとの会話も程々に、さてさてナマエは、と辺りを見渡したところで気付く。
「……おい、エノノカ」
いない。彼女の姿が何処にも見当たらないのである。
男手であるチカパシは狩りだなんだと出ているのは分かるのだが、狩りも出来なければ山の知識もからっきしであるナマエが昼間からこの集落を離れているとは考え難い。
「ナマエはどうした?」
「やっぱりお姉ちゃん、迎えに来たの?」
「そのつもりだったんだが……」
エノノカは困ったように笑う。
「鯉登ニシパに、謝りたくて」
「……」
「あの日の夜、お姉ちゃん居なくなったの」
「……は?」
あの日の夜、とは。我々がこの集落にナマエを置いて、大泊に向かったあの日のことだろうか。ああ、なんということだ、彼女は居なくなって既に二年近く経っているということか?新事実の発覚によって眉間に皺が寄り、思わず指で揉みこんだ。月島基、新たな頭痛の種が爆誕した瞬間である。
結局その後は、何の収穫も無しにただただ無能な右腕は旭川へとトンボ帰りすることになったのだ。いや、唯一の収穫と言えば、やはりと言うべきか狩りに出ていたチカパシの成長具合くらいだろうか。最後に見た時よりも一回りは大きくなっている彼の成長に舌を巻いて、子供とはこんなにもすぐに背が伸びるものだったかと老いぼれた年寄りのようなことを考えてしまった。
長旅の疲れも程々に、いつも通り旭川第七師団に顔を出すや否や鯉登少尉殿と鉢合わせた。この人今日もこんな早くから働いているのか、と思うよりも前に、まず彼女のことを言うべきかどうか悩み、初動が遅れてしまった。そこを見逃さないのがこの人である。
「月島、エノノカとチカパシは元気にしていたか?」
「……なぜ、私が樺太に向かったと?」
「ふふふ、大泊に向かう船に乗るお前を見たと海軍の知り合いから電報があってな」
「……」
恐ろしい人である。持ち前の人当たりの良さ、顔の良さ、聡明さ、全てで人を魅了し、それでいて仕事の腕も一流と来たものだ。彼の働きで陸軍と海軍の不仲は徐々に緩和されつつある。私の動向が割れたのも、それの副産物のひとつに過ぎないのだろう。
「……鯉登少尉殿は、」
「?」
「ナマエの今の状況を、知っておいでですか」
「……直接的には何も聞いていないが、まあ」
そもそも私が今、誰も連れてきていない時点でこの人なら細部まで想像が着くのだろう。それをもっても、何も言わずにただ受け入れるだけの鯉登少尉殿が何故か気に食わなかった。いや、それよりもあの女だ。
あれほどこの人に世話になって、あれほど尽くされておいて、あれほど、あれほど……。ナマエに言葉と行動の限りを尽くす鯉登少尉殿を傍で見たことから、どうにも彼を裏切って行方を眩ませた彼女のことを許せそうになかったのだ。なんと不義理で、なんと恩知らずなことか。
「そう怖い顔をするな、月島」
「ですが、」
「私はこれで満足している。彼女に会えたことだけが、救いだったんだ」
「……」
「なんだ月島。不満そうだな?」
そりゃあそうだろう。全部が不満である。恩知らずにも何も言わずに消えたあの女にも、こんなにもまだ彼女を想っているのにあっさりと諦めてしまう鯉登少尉殿にも、何故かそれに有り得ないほど腹を立てている自分自身にも。そんな風に一人で考えていても鯉登少尉殿はお構い無しである。視線をあわせたかと思えば、にっこりと口角を上げてて微笑んだ。
「ところで月島、飯は食ったか?」
「いいえ」
「なら今から食べよう。私も今しがた片付いたところなんだ」
「……。まだ朝ですよね? また意味のわからない時間から働いていたんですか?」
「……月島、貴様小姑のように喧しくなったな」
「小姑で結構。鯉登少尉殿は食事をしたら休んでください。クマが目立っていますよ」
「エッ!? 誠か!?」
「嘘です」← - back - →
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