一方その頃。行方を眩ませたナマエはと言うと、福岡に来ていた。何故に福岡?そう、進学である。樺太で先遣隊御一行と別れたその日の夜にナマエは現代へと呼び戻され、混乱するままに毎日を送っていた。ナマエの両端を固めるエノノカとチカパシの温もりに囲まれ、幸せな気持ちで眠ったはずなのに、である。
実際にナマエ自身がどれほどの期間を樺太やロシアで過ごしたのかは定かではない。ナマエは見覚えのある自室で目が覚め、恐る恐るスマートフォンの液晶に触れた。表示された日時は、ナマエが樺太の雪山に突如として落とされる直前に眠った日と変わらなかったのだ。数ヶ月にも感じられた明治での生活は、現代に換算すると、夜11時から朝の7時。たったの8時間でしかなかったらしい。
(まさかとんでもない夢を見たのでは?)
そう思って仕方無しに支度を始めると、鏡に映る自身の頬、そして手のひらを見て察した。傷跡がはっきりとくっきりと残っていたのだ。ひとつはクズリに付けられた手のひらの切り傷。それから、キロランケが発砲した弾が掠めた頬のかすり傷。
現代に戻ったナマエの毎日は頬の傷を隠すことに必死だった。まず両親に見つかると理由を聞かれるだろう。バカ正直に答えたりなんかしたら最後、ナマエが電波ちゃん扱いをされることは必須だった。それは福岡に来た今も変わらない。
がやがやと人で溢れるキャンパスに足を踏み入れたナマエは待ち合わせをしている友人を探すため、ぐるりと辺りを見渡す。どうやらまだ来ていないようであった。スマートフォンのカメラ機能を立ち上げ、内カメラになっていることを確認してから自身の頬を映す。固めのテクスチャーのコンシーラーはナマエの肌に良く馴染んで、傷跡を自然になるようカバーしている。内カメラには、ナマエの後ろに満開の桜が映り込んでいた。春である。
ナマエが進学先に福岡を選んだことには、特に大きな理由はない。何となく親元から離れて暮らしてみたかったのと、あの日、『鹿児島はいいところだ』と誇らしげに語った少尉が生まれた場所に行ってみたかったから、なるべく近いところを選んだ。何もナマエは永住するつもりはなかったのだ。もしも肌に合わなければ大学の四年間だけをここで過ごして、東京に戻ってくることもできる。社会勉強だと思って、とにかくがむしゃらにナマエは勉強した。
そういった経緯で、ナマエは福岡に位置する四年制大学に通う、キラキラ大学生へと歩みを進めたのだ。それももう二年目である。なんだかんだ福岡での生活も慣れ、友達も増えてきた。現代に帰ってきてからは特徴的な眉毛を持つ男に夢の中で長らく悩まされてきたが、今ではもう思い出してしまうことも少なくなっていた。あんなに身体に馴染んだ声も、体温も、匂いも、全てが今や朧気である。
そんな時だ。ナマエの運命を大きく動かす歯車が、ひとつ、がっちりと嵌め込まれた。キャンパスに現れた待ち人は、会うや否や紙袋をナマエに手渡す。彼女はナマエが大学入学した初日からの付き合いで、取っている授業も重なるため自然と親密な関係性になった。誕生日も祝い合えるほどに。
「ナマエ〜、遅くなったけど誕生日おめでと〜」
「ありがと〜。お? ジェラピケじゃん、なに嬉しい」
「あけてあけて」
「うわ! ポーチかわい! あ、あとリップバーム? いい匂いだ〜」
「でしょ〜」
「……ん? まだある」
ナマエに渡された紙袋の中には二つほど小さな布袋が入っていた。一つを開けると、中にはポーチとリップバームが。シンプルで、それでいて描かれたクマが可愛い。ナマエが明治で戦ったあの恐ろしいクズリとは大違いである。リップバームはインテリアにも使えそうな見た目で、恐らく勿体なくて使えないだろうなとナマエは思った。
「……ねえ、これ」
もう一つ、小さな布袋を取り出す。リボンを解き、中身を見ると、そこにはタオル生地の上質なハンカチが入っていた。ナマエはこれに、心当たりがある。
「ねえなんで、これ、このハンカチ……」
ソリ酔いでダウンした時には汗を拭い、キロランケが発砲した弾が頬を掠めた時には血を拭い、そしてモスの汁でべちゃべちゃになった月島の顔を拭うのに貸せとナマエが言った時、意地でも貸そうとしなかった、あの、かわいいハンカチ。それはナマエの記憶の中のものと寸分狂わず合致している。心の奥底にしまって、取り出そうともしなかったあの日常が、久方ぶりに脳内を支配した。
忘れられるはずもないのだ。ナマエにはまだ、名前を呼ぶ声も、頬を撫ぜる指先から伝わる体温も、抱き締められた時に香る優しい匂いも、全て残っている。
「可愛いしょ、めっちゃふかふかなのそれ」
「……」
「……泣くほど!? なんでぇ!?」
ぼろぼろと溢れる大粒の涙は、ナマエの想いの現れだった。自身のことを何度も大馬鹿者だと罵った。どうして忘れられようか、彼の庇護下で過ごしたかけがえのない日常を。
「ちょちょちょ、それで涙拭いて、私が泣かせたみたいになる」
「これ、ダメだよ、使えないよぉ……」
「情緒どうなってんの……」
友人に背をさすられ、人気のない場所まで移る。友人によって新学期早々、授業を受けずに帰らされたナマエはクローゼットの奥にハンカチをしまい込んでしまった。目に見える場所にあると、どうしても恋しくなって、毎晩泣いてしまうと思ったのだ。
どういった因果かはわからないが、ただこのハンカチが手元にあるだけで生きていける気がした。
+
旭川第七師団から見える場所に、桜の木が植えられている。事務机に向かって作業していると、窓からそれが良く見えた。ここは音之進のお気に入りの場所、定位置である。窓からは柔らかな木漏れ日が差し込んで、部屋ごと音之進の身体をぽかぽかと暖めた。手に握る、柔らかいタオル生地のハンケチが光を反射していて少しだけ眩しい。そんな音之進の身体には連日の徹夜も祟っていて、ついには瞼が閉じかけている。何度も何度も抗っているうちに先に頭の方が白旗を上げてしまい、馬鹿みたいな激務でやっと手に入れた執務室で、頬杖をついてうたた寝をしてしまった。
この時、音之進は夢を見た。大切な夢だった。初めて彼女に出会った、あの日の夢を。自身を救ってくれた、鯉登音之進の正真正銘、わたしだけのかみさまとの融解。
柔らかな指先で髪を梳くように撫でる手が懐かしい。夢の中だけでも会えるのならば、音之進にとってはそれでよかった。深く眠れば眠るほど、音之進が夢の中で彼女に会える時間が長くなる。それだけで、何度だって蘇る。夢に出てくるあなたが化け物ならば、私は喜んで喰われましょうと、本気で思えたのだ。化けてでも、人ならざる者でもいい。もう一度ただあなたに会いたかった。
音之進の頭を撫ぜる手が、いたずらに耳を掠める。ふと意識が浮上した。
+
少尉が手を差し伸べる。いつもと変わらない微笑みで私の手を重ねられることを疑わず、従順に待っているようだった。持ち上げた自分の手のひらを眺める。一本、抉られたような大きな横線が刻まれており、はらはらとどこからか舞い降りた桜の花弁が傷跡に乗った。
「私たちと、大泊に行こう。ナマエ」
静かに首を振る。花弁が乗った手のひらを握り込み、ついぞそれは少尉の手に重ねられることは無かった。こんなことを言わせてしまうほど、私は皆について行きたかったのかと自嘲してしまう。とっくの昔に置いて行かれたままだと言うのに。
ここは明治時代ではない。
あなたは、鯉登音之進ではないのだ。
酷い頭痛で目が覚める。友人にあのハンカチをもらってから、やけに夢に少尉が出てくるのだ。寝付きの悪さで連日寝不足続きである。今日も例に漏れず、なんだか寝苦しさを感じてぼんやりと覚醒しきらない頭のまま瞼を持ち上げる。窓から差し込む朝日がただただ眩しい。
もう一度眠りにつくため瞳を閉じた時、何かが体を揺さぶっていることに気付いた。
「……え?」
「はよ起きらんか!」
特徴的な鋭利な眉。太陽によく映える、褐色の肌。
「……。……少尉?」
わさわさと私の腹を撫ぜるものの正体は、齢七歳ほどの少尉少年だった。← - back - →
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