「……。……は、少尉?」
見覚えがありすぎる風貌の男の子を視界に入れ、ここで初めて、連日の寝不足に悩まされて働きが悪い脳が急激に覚醒し始める。そこでようやく何かがおかしいと脳が状況を受け入れ始め、表情がわずかに固まるのがわかった。少年は私のその言葉を受けて、きょとんと首を傾げる。
「少尉ぃ? おいは海軍平二んむしこ、鯉登音之進やっど!」
「あぁ……なんてこと……」
「ここはどこで、わいはだいじゃ?」
矢継ぎ早に投げ付けられる言葉に思わず頭を抱えてしまう。小さな少年にお前は誰だと問いかけられて黙っている訳にも行かなかったため、改めて向かい合った。
「ここは福岡。で、私は、ミョウジナマエ」
「ナマエちゃん……?」
「……。ウン、そう。音之進くんは何歳?」
「七歳!」
まさかのナマエちゃんと呼んでみせた少尉少年、もとい音之進くん。彼は片手を大きく広げ、もう一方の手で人差し指と中指を。合計七本の指を立てて私に見せた。聞くに、音之進くんは昨夜は普通に寝たつもりが、一転して目が覚めると私のベッドに居たと。状況的には私が明治時代に放り出された時とさして変わらないようだ。ここが雪山でなかっただけまだマシだろうか。
音之進くんは私の部屋をじろじろと不躾に見ては、変な部屋じゃ、と率直すぎる感想を呟く。対する私は特に気を悪くしたような素振りもなく、あっけらかんとして答えてみせた。
「見慣れないでしょ。今は令和だからね」
「令和?」
「年号のこと。音之進くんが居るのは明治でしょ? 明治時代よりも百年以上も進んでるの」
音之進くんはポカーンと口を開けた。理解が追いつかないのか、それとも、理解することを拒んでいるのか。思わず小さく肩をすくめて、苦笑する。楽観的でいて諦めたように笑う私を見て、小さな少年の心に一抹の不安が募っていくのが伺えた。
「……まあ、悪い夢だと思うしかないね」
きっとそう思おうとするほどに、指先に触れる感触や、差し込む朝日の温かさが妙に現実じみていると気付くだろう。あの日の私のように。
混乱する音之進くんを哀れに思うも、来てしまったものは仕方がない。かつて自身が明治時代へと放り出されたあの時のことをできるだけ事細かに思い出す。戸惑いも、不安も、頼れるもののなさもすべて、私は当事者としてよく知っていた。そんな私のことを明治時代では少尉があくせくと面倒を見ていたわけだが、一転して立場が逆転したのだ。
(これ、私の時みたいに数ヶ月帰れなかったらどうなるんだろ。私が養うのか? この子を?)
寝起きの頭でぐるぐると考えを巡らせる。現実的な問題が次々と浮かび上がり、気付けばアルバイト先のシフトを増やすかどうかまで真剣に悩み始めてしまっている。
そこでふと、明治時代の少尉はよくもまあ、あんなに甲斐甲斐しく私の面倒を見てくれたものだな、と思考の矛先が変わった。そしてすぐに合点がいって、ああ、と思わず声に出して納得する。
あの時の彼も、きっと同じだったのだ。突然現れた、素性も分からぬ女。それでも放り出さずに世話を焼いたのは、恩義ただひとつなのだろう。ここにいる私が音之進くんにそうしたから。そもそも私が今、音之進くんをつまみ出さずに面倒を見ることにしたのは、少なからずそういう理由があったからだ。私が少尉に感じている恩義がこの判断を後押ししている。
私が今ここで音之進くんを助けることは、やがて軍人になった彼が出会う『私』を助けることに繋がるのだ。
良く考えればわかる事だった。私が自己紹介をする間もなく、明治の樺太で出会った少尉は『ナマエ』と呼んでみせたし、『令和だよね』と訊ねた時だって、本来なら理解できるはずのない言葉に『明治だが』とあまりにも自然に応じていた。あれはつまり、あの時の少尉もまた『知っていた』のだ。どうやら最初から、兆しはあったらしい。
ぐるりと巡って、すべてが一本の線で結ばれたような感覚だったと同時に、妙に釈然としなかった。ああ、あれはすべからく恩義だったわけか、と。私が少尉に惹かれたのは必然であったわけだが、彼はそうとは限らなかったのだ。きっと今の私のように、突如として別次元から降り立った恩人の姿に頭でも抱えていたのだろう。
そんなふうに一人で脳内劇場を繰り広げていると、目の前で音之進くんが腹を摩りはじめた。ちらりと上目遣いにこちらを見る。
「……あ、お腹すいた?」
「した」
「うーん、なんかあったかな」
そういえば昨日の夜に揚げた天ぷらが残ってたな。器用に思考を切り替え、考えながらスマホでたぷたぷ検索エンジンを開く。便利な世の中になったもんだ。少し調べれば2人分のかけ汁の配分がわかる。かつおだし、しょうゆ、みりん、さけ。レシピを元にして目分量で小鍋にドポドポ注いで、それと並行してそばを茹でた。一人暮らしも二年目、慣れたようなものである。
「あ〜〜〜、いい匂い」
数年前、いや百年前と言うべきか。樺太の豊原で天ぷらそばを食べてからというもの、すっかり好物は天ぷらそばになってしまった。一人暮らしで好きなものをいつでも食べられる環境になってから、食べるものに悩んだ日は専ら天ぷらそばである。つゆにひたひたのえび天を口いっぱいに頬張ると幸せな気持ちになれるのだ。
本当は丼物を入れるために買った小さめのどんぶり鉢と、袋麺を食べる時だけ使うラーメン鉢を取り出す。一人暮らしのこの部屋には器は一つずつしか揃えられておらず、即席で不格好な昼ごはんになってしまった。
しかしそれをみた音之進くんは目をキラキラに輝かせて、自ら進んでローテーブルに天ぷらそばを運び込んだ。食もってもよか?ときゅるきゅるの瞳で問いかけられてしまえば、あまりの可愛さに胸を抑えつつ即答で許可を出す以外の選択肢はあるまい。
グラスに水を入れるため席を立っている私に聞こえるよう、音之進くんは大きな声で名前を呼んだ。
「ナマエちゃん! これ、うんめかね……!」
「ふふ、よかったよかった」
「えびの天ぷらも入っちょい!」
「そうだねえ」
まだまだ幼い少年の域を超えない彼を思ってあまり多くは盛らなかった訳だが、食べる勢いを見ては意外とそうでもないのかもしれない。
グラスを両手に持った私は一つを音之進くんの傍に置き、もう一つは自身の利き手側に置く。それから、ローテーブルに肘をついて音之進くんを眺めた。かわいい。
「音之進くん」
「ん?」
「えびの天ぷら、すき?」
口の中をいっぱいにしたままブンブン首を縦に振る。めちゃくちゃな勢いで。うふうふと笑う私を見て、音之進くんは饒舌に語り始めた。既に彼の胃袋は私の手中である。
「今まで食もったえびの天ぷらん中でいちばんうんめか!」
「え〜? ふふ、じゃあ私のもあげよう」
「よかか!?」
「よかよか」
早口でない薩摩弁はこうも聞き取り易いものなのか、と考えながらえびの天ぷらを音之進くんの器に寄越す。嬉しそうにお礼の言葉を言ったあと、すぐに音之進くんは不安そうにこちらを見つめた。
「ナマエちゃんは、好きじゃなかとけ?」
「んー、まあ」
「?」
「音之進くんにあげたかったんだよ」
理解は出来ていなさそうだが、そういうもんなのか、といった顔で音之進くんは二尾目のえび天を食む。それを見た私は漠然と、逆だと思った。あの日豊原で食べた天ぷらそばのえびを私に寄越す少尉は、どんな気持ちだったんだろうか。馴染みの無い場所で行き場を失っている憐れな女に、充分過ぎるほどの情けをかけて、彼は。
「うんめかぁ……」
「……むぜねぇ、音之進くん」
「ふふふ、知っちょい」
もっもっ!と口いっぱいに頬張る彼を見て、頭の中に残っているただ一つの薩摩弁を口に出す。にこにこと笑った音之進くんを眺めながら、さて私も食べようかと箸を持った時。
「ナマエちゃんも、むぜ!」
「? うん」
知ってた言葉の使い方と少し違うな。少尉は私に、むぜとは良い食べっぷりだと意味すると説明したはず、と考えて、はたと動きを止めた。良い食べっぷり?いや、いや。
新問付近のアイヌの集落に向かって犬ゾリで雪山を駆け抜けたあの日。そう、たしかあの日はエノノカと手遊びをしていて、それでソリ酔いをして、そのまま眠ってしまって。それから目を覚まして、それで。
……ほんのこてむぜね、わいは。
ふふふ。お前はそのままでいろ、と言ったんだ。
は、と思わず音にもならないような声が漏れる。思い出せやしなかった古い記憶が脳の奥底から引っ張り出されて、その言葉と共に、私の頬を撫ぜる少尉の満足気な表情も目の前をチラついた。
「結局むぜって、どういう意味なんだ……」
「? むぜはむぜちゅう意味じゃ」
なんでもないように答えながら次々と箸を進める音之進くんを見ながら、まあどうせ大した意味は無いのだろうと私も天ぷらを抜いた天ぷらそばを食べ進めた。
そば一杯、えびの天ぷらを二尾平らげた音之進くんは大層ご満悦であった。私が食器を洗っている間、一切手伝おうとはしないくせに横にくっついて、まあ様々なことを話しかけてはこちらの反応も聞かずに次の話に進む。そうやって話を聞いてると、だんだん音之進くんの声が小さくゆっくりになっていく。きゅ、と私の足を掴んだ。
「どうかした?」
洗い物も終わったのでキュッと蛇口のレバーハンドルを捻って足元を見ると、うつらうつら立ちながら船を漕ぐ音之進くんが。
「ねむか……」
「ふふ、寝てて良いよ」
「んん……」
「クッション使っていいよ」
「クッション……?」
「枕みたいなの」
聞いたくせに私の言葉に返事は返さず、音之進くんは私に手を引かれるままによろよろとベッドへと向かう。横たわった幼い少年に大きめのブランケットを掛けてやるとすぐに夢の世界に落ちた。穏やかな寝息が静かな部屋に響く。
お昼寝しちゃうとはまだまだお子様だな。ふふん。目が覚めた時のためにお菓子とジュースでも買ってきてやるか。あとおもちゃも。絵本もいるかな、いやさすがにそこまで子供ではないか。
「音、……え?」
家出る前に声だけ掛けとくか、とソファに視線をスライドさせると、そこにはただベッドに掛けられただけのブランケットと、その色に合わせて買ったクッション。
「……え?いない?」
慌てて家の中を一周する。別の部屋やトイレ、風呂場にも行ってないし、なによりどこか移動するなら私がずっと立っているキッチンのそばを通らなければならない。なにより1Kの狭い我が家は、寝室はどこにいても見通せるような作りになっているから出ていけばすぐにわかる。
改めて部屋を見渡すと、さっきまで寝息が聞こえていただけに静けさが耳に痛かった。もぬけの殻のベッドは当たり前のように誰もおらず、思わず瞬きを繰り返してしまう。
「夢か幻覚でも見てたのかな……」
ふとクッションを見る。頭ひとつ分凹んでいる。床にはサラサラツヤツヤの深い藍色の髪の毛。よく確認するとしっかりと音之進くんがいた痕跡は残っている。夢、ではないらしい。いやそれよりもだ。
え、私には数ヶ月樺太であんな過酷な生活させたくせに、少尉少年には数時間なの? おかしくない?
しかも人の家でたらふく蕎麦食べて寝ただけだし。
はあ、とため息つきながらブランケットを片付けた。スーパーにお菓子買いに行く前でよかった。出て行ってる間に居なくなってたりなんかしたら、それこそ探しに行かなければならなかったし、誰に言っても信じてもらえるどころか白い目で見られるのは考えるまでもなく明々白々だったのだろう。← - back - →
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