温もりで包む

春霞




 ナマエにショールを買い与え、そのままの足で天ぷらそばの店に入った。呉服屋の女将には旦那だのなんだの呼ばれて煽てられるままに購入してしまったが、まあ満更でもない。そう見えるのならそう思わせればいいのだ。なにせ都合がいいので。

 そば屋では湯気がほかほかと立ち込めており、外気に晒されているよりも幾分か暖かい。隣に座るナマエの真っ赤な鼻先が愛らしかった。令和と呼ばれる、百年先の未来から来たナマエにとって明治の街は軒並み珍しいものばかりらしく、こんななんでもないような店でも楽しそうに店内を見渡している。ナマエを挟んで座っている杉元と月島の存在には不満ではあるが、たった今私の目の前に置かれた天ぷらそばを見て目を輝かせるナマエを見るとそんなことはどうだって良くなった。

 ナマエよりも後に入店した月島の元にも天ぷらそばが置かれ、それから店主はナマエの天ぷらそばの準備にかかる。手持ち無沙汰にもソワソワと大人しく座って待っているナマエが何だか不憫で、小さな小動物のように思えて、むくむくと庇護欲がそそられた。昔、私が令和の時代に飛ばされてしまった時はナマエが私の天ぷらそばを用意し、海老の天ぷらまで寄越してくれた訳であるが。なるほど、たしかに譲ってやりたくなる気持ちは分かるかもしれない。箸を手に持つ前に、つるりとした手触りの麺鉢を寄せる。ナマエが顔を上げた。

「……どうしたの」
「先に食べろ、ナマエ。どうせ私の方が早く食べ終わる」
「少尉……!! ありがとう!」

 能天気にも何も考えずに享受し、恍惚とした表情で海老の天ぷらを箸で摘んだ。彼女に『少尉』と呼ばれるのは、まだまだ慣れない。記憶の中の彼女は慈愛に満ちた表情で、吐息を零すように『音之進くん』と桜色の唇が形をなぞる。しかし、まだ頬に傷がないらしい目の前の彼女は自身が知っているよりもまだ幼く、それでいて等身大の女の子だ。
 ごと、と音を立てて天ぷらそばが漸く置かれたけれど、それよりも、口いっぱいに頬張って咀嚼しているナマエのことが気になる。

「好きだったのか、海老の天ぷら」
「うん。だいすき!」
「知らなかった」
「ここに来て初めて食べるしね」

 思わず目を見開いた。幼い頃に海老の天ぷらが好きではないのかと問うた時は『うん、まあ』と雑に答えていたから、勝手に好きでも嫌いでも無いのだと思っていたが。
 だから本当に、知らなかったのだ。ナマエから向けられた慈愛を今になって自覚して、込み上げた想いが喉元につっかえて苦しい。気付いた時にはつゆに沈みつつある海老を箸で掴み、隣でナマエが食べるそばの中に突っ込んでいた。驚いたような顔をしていて、それすら愛いのかお前は、と詰ってしまいたくなった。

「お前にやろう」
「少尉はいらないの? えび天」

 あの時も同じような言葉で訊ねたような気がする。その時の彼女は、そう。音之進くんにあげたかったんだよ。そう言って優しく微笑んでいたはず。ローテーブルを隔てた向こうに座る彼女の声が脳裏で木霊して、朧気だった幼い日の記憶が、今目の前にいるナマエと再開したことで少しずつ輪郭が取り戻されていく。

「……そうだな。惚れた女には好きなものを食べていて欲しいだろう」

 想像していたよりも静かで、噛み締めるように呟いてしまった言葉から私の執着が滲み出てしまったかは定かではない。伝わっていないことを祈っている。我儘な私はまだこうして、彼女からは全幅の信頼を寄せていてほしかった。
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