アラームは十二時に設定したはずだ。授業を取っていない今日のような全休の日くらい、昼前までは寝ていたい。洗濯も掃除も買い出しもぜーんぶ午後に回して、惰眠を貪る最高の朝。耳元で誰かが私の名前を呼んでいるが、そんなことは知ったことでは無い。随分と要領を得ない夢だなあと薄ぼんやり考えながら二度目の深い眠りにつくのだ。
「ナマエちゃん、ナマエちゃん。起きらんか、ナマエちゃん」
聞き覚えのある声にハッとして、慌てて上体を起こした。すぐ側の声の出処を視線で辿ると、つい先日明治に帰ったはずの少年が眉間に皺を寄せてこちらを眺めているではないか。そんな音之進くんはおもむろに壁掛けのアナログ時計を指さし、また口を開いた。短針も長針も、どちらともほぼ真上を向いている。短針だけがやや左に傾いていた。
「十一時やっど。起きっにしては遅すぎんか?」
「なんっ……で、音之進くんがここにいるの!? 帰ったんじゃなかったの!?」
「帰ったばっ、起きたやまたこけおった」
「うそでしょ……」
二人で天ぷらそばを貪ったあの日から数日後。普通に目が覚めたら音之進くんがいた。というより、音之進くんによって起こされた。
彼が言うに、先日このベッドで眠りに落ちたあとはいつも通りに家で目が覚めたと。彼も私も、何事も無かったかのように起きては日常を過ごし、妙な夢だったなと忘れかけていた頃だったのだ。いつものように眠りに入って、目が覚めたと思ったらこれだったらしい。そんな音之進くんはこの令和を大層気に入ったらしく、今日は何をしようかと楽しそうに考えているようだった。
「でもなぁ、私今日飲みの予定があって……」
「のみ?」
「今日の夜、ご飯食べに行くの」
「……ほんのこて?」
「ほ、ほんのこて……」
「ほんのこて、行っん……? おいんこっを置いて……?」
こてん。まあるい頭を傾けた音之進くんは上目遣いに私を見た。きゅるきゅるの瞳が少しだけ潤んで、それから物悲しそうに目を伏せる。かわいい。かわいすぎる。魔性の男め。ああもう!とヤケクソ半分にスマホを持った私はすぐさま友人に連絡することになった。二コールほどですぐに出てくれた友人は呑気におはよお〜と笑っている。
「今日弟が家来てて……。ごめんけど今日の飲みやめとくわ」
「あマジ? おけおけ、明日も誘おうかなと思ってたけどどうする?」
「あー、んー……パスで。わざわざ実家から会いに来てくれたし連れ回そうかな」
「お姉ちゃんじゃ〜ん」
茶化すな。
今度弟くん見せてね、の声には、曖昧に返事を返して通話を終えた。見せてねって言われても。いつ帰っちゃうか分かんないし。この前と同じパターンなら今日の夕方には帰るんだろうし。そんなことを思いながら、私が電話しているのを興味深そうに眺めていた音之進くんに視線を移す。
「はい。今日の飲み断ったよ」
「外!! 外行こごたっ!」
「え、外?」
私の言葉をさっさと聞き流してベッドから勢いよく飛び降りた音之進くんは、寝起きだというのに狭い部屋を駆け回っていた。ローテーブルを真ん中にして、その外側をぐるぐると。お元気なことである。
「危ないから止まってね……」
「おいを連れ回すちゅった!」
「いやあれは友達に嘘ついただけで、」
「嘘をつったぁ良うなか! どっか行っ!」
「押し、強ぉ……」
音之進くんが楽しめるようなとこって何かあるっけ……。我々大学生の遊びと言えば専ら、飲みやカラオケばかりなのでこういう時に行くべき場所のストックは空っぽである。そんな私を横目に、フン!と鼻息をたてる音之進くんの手には、授業の一環で使った資料の一部。半年ほど前に買ってそのまま、ずっとローテーブルの傍に放っている情報旅行誌。
「……それ行きたいの?」
「行こごたっ!」
甘えるように足元にくっついてこちらを見上げる小さい男の子を見た。外に行くって言ったって、そもそも音之進くんの今の服装はここに来たままの軽い着流しであって、浴衣に似た構造のそれはどう考えても令和の今に馴染むような物ではなく。このまま外に出ると白い目で見られるのは明々白々である。というわけで、まずは。
「んー……これデカイか」
「こっちがよか」
「あれは絶対にダメ。これにしよ」
クローゼットの奥から大小様々な服を引っ張り出しては音之進くんの体にTシャツをいくつか宛てがい、馴染むものを探す。壁に掛けられたアイドルのツアーTシャツを指さす音之進くんを即座にいなし、適当な服を着せ、玄関まで手を引いたところではたと気付く。
「靴が無いねえ」
「これがよか」
「それも気に入ってるからダメね。ちょっとこっちのサンダル履いてみて」
「……ナマエちゃん、これふてど」
「……」
ここにきて初めて薩摩弁で検索をかけた。ふてど、とは。薩摩弁で大きい、という意味らしい。たしかに今音之進くんが足を引っ掛けている私のサンダルでは踵もつま先も余りに余っている。ここが実家であれば私の幼い頃使っていた靴の一つや二つ残っているかもしれないが、今いるのは二年前に越してきたばかりの女が一人暮らししているアパートだ。そのようなものは、ない。
ということで。レンタカーを手配した私たちは現在、みんなが常日頃お世話になっている総合スーパー、イオンに訪れていた。車とはなんとも便利なものである。イオンの立体駐車場に停めた私は左肩には肩掛けのトートバッグ、右腕には七歳の音之進くんを抱えていた。音之進くんは興味深そうにイオンの館内に並ぶ店の数々をしげしげと眺めている。七歳といえばまだ小学校に入学したての年齢であるが、腕に抱えると結構ずっしりと来くるものだ。大学帰り、たまにスーパーで買った米を腕に抱えて帰路につくことがあるが、音之進くんはそれよりも遥かに重い。そんな私を知ってか知らずか、ぷらぷらと宙に浮く足を動かしては楽しそうにお喋りしながら抱えられているようだが、成長しきった彼からは考えられないほど甘えたなようである。
「じゃあまず靴ね。どれがいい?」
「なんじゃこんた……」
「まあ馴染みないよねえ」
子供靴を扱っている店に入り、キューブ型のスツールに音之進くんを座らせる。まず足のサイズも分からないのでとにかくそれっぽい大きさの靴を持ってきたりしてみるも、しっくり来ないようだ。マジックテープで止めるタイプの、子供、ましてや男の子なら誰しもが憧れるであろう瞬足シリーズを履かせてみるも音之進くんは窮屈そうな顔をした。
「何かお困りですか?」
「あぁ、えと、七歳児の靴を探してて」
「でしたらサイズはこの辺りですね。いくつかお持ちしますがどういった物を探しておられますか?」
物腰の柔らかそうな若い男性の店員さんが声をかけてくれたので音之進くんを見ると、なにやらぽかんと口を開けて固まっているようである。まあこの子に聞いても分からないので、スニーカーではなくサンダルのような履きやすいものを探していると伝えると、店員さんは人好きするような柔らかい笑みを浮かべてすぐに離れていった。
「ナマエちゃん、あや誰じゃ……?」
「いや、誰と言われても」
音之進くんと同じくスツールに座って店員さんの帰りを待つ私の手を、ぎゅっと握り込んだ。かと思えばすぐにこちらに戻ってきた店員さんのことをとんでもない形相で睨み始めるではないか。こら、失礼だからやめなさい。伝えても尚のこと機嫌を損なうばかりで意味はなさそうだった。
とりあえずで持ってきてもらったいくつかのサンダルのうちの一つを履かせ、立たせてみる。大きさもピッタリだったようだ。やっぱり店員さんに最初から聞いておけば良かったなと思いつつ、じゃあ次の靴を、と店員さんに手渡されたところで何かが足元にまとわりついた。
言わずもがな、音之進くんである。
「……だっこ」
「んん?」
「ナマエちゃん」
「え、でもまだ靴あるよ」
「こ、こいでよか!」
ぎゃん!と吠える音之進くんは頑なに譲る気配がない。仕方なしに靴を履かせたまま音之進くんを抱き上げ、タグを切ってもらう。そのまま会計を済ませ、お次は謎に機嫌を損ねてしまった音之進くんのご機嫌取りのため、スーパーへ直行である。アンパンマンのイラストが描かれた子供用の買い物カートを見るや否や音之進くんはこれがいいと言って聞かず、仕方が無いので任せてみると大層大喜びされていた。彼もまだまだお子様なのだ。
カートを押して満足したらしい音之進くんはその後はだっこをせがむ事もなくお利口に手を繋いで横を歩いている。目的地までの暇つぶしに、スーパーではオレンジジュースを購入してみた。炭酸飲料やスナック菓子なんかは馴染みがないだろうと思ってのチョイスである。本当は遭難した雪山で谷垣に食べさせてもらった胡桃入りの餅とかの方が時代的にも音之進くんは食べ慣れたものなのかもしれないが、言わずもがなここにそのようなものは無い。
イオンを出て、レンタカーに乗り込む。大人しくシートベルトを締めさせてくれた助手席の音之進くんとくだらない事を話しながら車を走らせること数分。赤信号で緩やかにブレーキを踏み込んだ時、あ、と思わず口から声が零れた。
「これ船じゃないから大丈夫だと思うけど、もし車酔いしたら教えてね」
「? おいは一回も酔うたことなか」
「え? ……そう、なんだ?」
「だいかと間違えた?」
「んん……? そうかも、ごめんね」
「よかよ」
思わず脳内にはてなマークが飛び散った。
“酔う辛さは、私もよく知っている”
脳内の少尉はそうやって私の耳元で囁いた。手袋越しの手のひらの重み、私を抱き込むことで顔が近付き、混ざり合う体温。あれ、おかしいな。私はしっかりと覚えている。彼に貰った心配り、気遣い、言葉、体温、安心感。
“船酔いだけは目も当てられないほど酷い”
自嘲でもするかのように、冷めた声色だったような気がする。それでも私を安心させたかったのだろうと余裕のある今なら思えた。あれは私を落ち着かせるための嘘だったのか、大人になってからそうなってしまったのか、それとももっと他の思惑があったのか。まあしかし何にせよ、考えたって仕方の無いことは一旦無かったことにするに限る。何を思ったとてここに彼はいない。答え合わせできる日なぞ、きっと来ないのだ。
くねくねと安全運転で山道を走ること一時間と少し。目的地への案内板が見え始める。音之進くんはその間、様々なことを楽しそうによく話してくれた。父のこと、母のこと、兄のこと、鹿児島のこと、将来は立派な将校さんになること。等身大の、七歳の鯉登音之進の話。紙パックのオレンジジュースを片手に熱弁する姿はそれはもう可愛く、家族を東京に残して一人九州まできた私の心を満たした。← - back - →
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