目的地に着いたことを報告するナビの音声を聞き流し、車のエンジンを切った。
「よぉし、着いたよ牧場!」
「おお……! 馬と牛がよかひこおっ!」
「よかひこ……、たくさんって意味なのか」
検索履歴に薩摩弁が増えていく。液晶画面の上部を確認すると、時刻は二時半。午前中から来ていた家族連れはもうすでに撤退しはじめているようで、客足も疎らだった。春とはいえ四月の半ばはまだ少し肌寒い。カーディガンの袖を伸ばして指先を温める。ん、と音之進くんが手を差し伸べるので、握り返すと子供体温が温かった。
私たちが到着したのは福岡の外れに位置する牧場。センターハウスと呼ばれる、牧場の入口付近に建つ木造の大きな管理棟にまず足を踏み入れる。中央部には不釣り合いにもホワイトボードが鎮座しており、所狭しと文字が並んでいた。時間と、【締切終了】のマグネットシート。なにやらアクティビティ一覧が記載されているようである。せっかく牧場まで来たのだ。幾つかは体験して帰りたい。
「動物たちのおやつ体験と、牛の乳しぼり体験あるって」
「こんた?」
「これは乗馬体験だね」
天下の鯉登音之進といってもまだ七歳。漢字の読み書きはまだ怪しいようで、あれはこれはと指さしては問うてくる。そんな彼が興味を示したのは乗馬体験であられるようだ。
「乗馬体験……」
「音之進くんは乗れる?」
「ふふふ、たまがっほど上手かど」
「さすがだぁ」
「ナマエちゃんは? 乗ったことあっと?」
「何年か前にちょっとだけね」
付きっきりで腰に手を添えられてはいたものの、嘘はついていない。今でも一人で乗れるかと問われると答えあぐねるところだが。あの頃は生きることに必死だったから感覚が麻痺していたのだろうが、今改めて考えてみると中々おかしな距離感であった。
私に向けて腕を広げる、真剣な表情の少尉が脳裏で笑う。今改めて思い出すとなんだか気恥しい。私はいつまで少尉のことを好きでいれば良いのだろうか。いつまで引き摺れば、消化できるのだろうか。
「こんにちは。乗馬体験、されます?」
そんなこんなでアクティビティ一覧を見て音之進くんときゃいきゃい喋っていると、私たちをみた係員のおばさまが声を掛けてくれた。にこやかに微笑む視線は、自ずと音之進くんに注がれる。弟を牧場に連れてきてやった優しい姉とでも思われているのだろう。
どうするか音之進くんに問いかけると、まあるい瞳は上目遣いに私を捉えた。
「……ナマエちゃんは?」
「どうしようかな……。私、一人で馬に乗ったことないんですよね」
「お二人でも乗れますよ」
「おお……! ナマエちゃん、一緒に乗っど!」
「そうしよっか」
受付のお姉さんに代金を支払い、現れた係員のおじさんに着けていけば乗馬エリアまで案外される。用意されたのは芦毛の大きな牝馬で、引き締まった筋肉が美しい。長いまつ毛が一度、二度、と揺れ、私と音之進くんを真っ直ぐに見つめた。
「危ないのでお馬さんの後ろには立たないでくださいね〜」
「はーい!」
ヘルメット、長靴、手袋を貸し出してもらって、いざ乗馬。ここは豊原の曲馬団とは訳が違う。ちゃんと足をかける鐙(あぶみ)もサドルも踏み台もあった。先に体躯の小さな音之進くんが乗って、その後ろに私が音之進くんを覆うように乗る。
あの頃とはまるで逆の立場ではあるが、意外にも支えられなくてもちゃんと乗れたことにまず私自身が一番驚いた。ふふふ、少尉が見るとなんて言うだろうか。褒めてくれるのかな、私の方が上手く乗るとマウントを取ってくるのかな。いや、まあ、後者だろうな……。
馬が闊歩するのに合わせてうまく体を上下させる音之進くんを見て、やっぱり乗り慣れているんだなあと関心。
「馬に乗ると足が筋肉痛になるんだよね」
「毎日馬に乗った方がよかとじゃらせんか?」
「んなことできるわけないでしょ、音之進くんの家じゃないんだから」
「じゃっどん、上手に乗れちょっじゃ!」
「ほんとう?」
私の問いに音之進くんが頷く。ふわふわの柔らかい頬が振動と共に揺れる。かわいい。
「馬の乗り方を教えてくれた人が、とっても上手だったの」
ぱち、と音之進くんの深い濡羽色の瞳が私を射抜いた。それからきゅうっと弓なりに目尻と口角をしならせて、からかうように笑みをこぼす。真っ白な歯が、褐色の肌に映えていた。
「ナマエちゃんは好っなんやなあ、そん人んこっ」
「……ふふ、そうだねぇ、大切な人なの」
「おいの兄さぁんようなもん?」
「桜島大根の?」
「そうじゃ」
「兄さぁか〜、どうだろねぇ。音之進くんがもう少し大きくなったら、私の好きがわかるかもね」
「キエエェ! 大人ぶっな!」
アハアハ笑うと芦毛の牝馬さんも共鳴して鳴いた。乗馬体験のあとは牛のミルクでバター作り体験をして、時間も時間だったので牧場内のレストランで食事をすることにした。やけにレトロでこじんまりとしたレストランだったので、明治と比べればやや近未来的ではあるものの、坊っちゃまである音之進くんは馴染みあるようだった。メニューを見ると焼肉定食だとか馬刺しだとか載せられていてちょっと倫理について考えさせられる。さすがにこれを注文する勇気はなかったので、ここの牛さんの牛乳を使ったクリームパスタを二人前と、パン、そして食後のデザートにアイスクリームも頼んだ。音之進くんは線が細いように見えて、意外と食べ盛りである。
それから程なくして注文の品は全て揃ったので、さっきの体験で作ったバターをパンに塗って食べてみた。うーーん、美味。音之進くんも噛み締めて食べている。上品に食べる所作はこの頃から変わらないのか、一切口の周りに付けず、アイスクリームまで綺麗に平らげていた。
「ナマエ、眠て……」
「エッ!? 待って待って待って、ここで絶対寝ないでね!」
「んん……」
「せめて車まで行こう! 寝ないでね! 行くよ!!」
目を閉じてほぼ夢の中に旅立っている音之進くんを引きずって、何度も声を掛けながら車まで向かう。助手席に乗せてシートベルトを締めて、狭い狭い1Kマンションまでの道を辿った。車中はずっと無言である。音之進くんはうつらうつらとまた船を漕いでいた。もう車に乗ったし寝てもいいのに。
しばらく車を走らせて、赤信号で止まった。ふと横を見るとあどけない顔で眠る音之進くんがいる。
「……寝ちゃったかぁ」
目にかかる髪を払ってやるけど、全く起きる気配は無い。十一時こちらに来たことを考えると、帰るには妥当な時間でもある。彼はこちらにもう六時間ほど居座っているわけで。
話し相手の居ない運転はやけに眠くなる。居眠り運転はさすがに勘弁なので、コンビニに車を停めてカフェオレを購入してみた。前回同様、私が音之進くんから目を離している今のような間に帰ってしまってるんだろうな、と予想して音之進くんの飲み物は買わずに車まで戻った。
「……えっ、まだいる」
思わず立ち止まった。車の中からは音之進くんが助手席の窓に張り付いている。きちんと施錠してから車から離れていたので当然音之進くんは車内から出ることが出来ず、中からはドアハンドルをガチャガチャと力任せに引っ張る音が聞こえた。さすがに慌てて開けた。
「どけ行っちょった?」
「飲み物買いに……」
「ないか一言ゆてから行っべきじゃ!」
「明治に帰ると思ったから……」
「……」
「ごめんね」
私が車内に入るや否や、不機嫌そうな顔で詰め寄っては私の言葉に思案する音之進くん。たしかに、と思ったのだろう。やがてそれは不安そうな表情に変わり、うろうろと視線がさまよっている。
「……おいは、帰るっどな?」
「いつかはわかんないけどそのうちね。ほらこれ、カフェオレ。全部はダメだけどちょっとなら飲んでいいよ」
「……。うんめかねこれ」
「そうでしょ。帰るまでお喋りに付き合ってよね、わたしも眠たいの」
言いながら、きゅ、とシートベルトを締め直した。← - back - →
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