きみのために

 格闘技がハチャメチャに強いらしい変な刺青が入った粒な瞳のおじさん、もとい岩息舞治との別れを惜しみつつ、我々は豊原という樺太で一番大きな街に向かっている。例に漏れず今日も元気に犬ゾリに引かれてトホトホトー。
 そんな豊原には今までの旅で寄った集落にはなかったような様々なバリエーションのお店が並ぶらしく、ここに来てから最低限のローテーションで衣類を回していた私にとって大変ありがたかった。なんと言っても少尉が全部払うと言ってくれたので。太っ腹である。

「少尉、少尉、なんか食べに行きたいね」
「好きなものを食べろ。いくらでも付き合ってやろう」
「少尉……!」
「甘やかしすぎです鯉登少尉殿」

 昨日までの私たちはロシア人が住まう小さな村の、これまた小さくて壁が薄くて寒くて狭くて小さい宿に滞在していた。当たり前のように布団も硬い。少尉曰く、豊原には立派な旅館があるだろうということでそりゃあ上機嫌にもなる。前にエノノカ、後ろに少尉、と挟まれる形で前方の犬ゾリに乗り、エノノカを抱き締める私は無遠慮にも少尉の上半身に身体を預けて、豊原への思いを馳せる。じくじく痛む左手には知らないフリした。

 昨日の夜、私が銃を撃った挙句手のひらに怪我を負ったことを半狂乱で叱りつけた後に凄まじいスピードでふて寝した少尉だったが、寝て起きるとケロッとしていた。そしてスチェンカとかいうただただ暴力を行使するだけの競技の最中に頭がおかしくなったらしい杉元から負わされたという掌外沿(掌の側面)の切り傷の手当てを朝一番に頼んできた。当然私だって手のひらを怪我している訳なので上手く包帯を巻けないのだが、不格好なリボンの結び目を見ては今だって大層御満悦そうににぎにぎさすさすしている。やっぱりこの人は変だ。さてさて街が見えてきたぞ。

「豊原だー!」
「広い! 家が大きい!」

 私とエノノカ、チカパシは豊原に大興奮。本当に建物がデカい!東京に比べるとそりゃあ天と地ほどの差で劣るが、今まで滞在してきた場所を考えると涙ものである。早速少尉の手を引いて呉服屋に立ち寄る。同じ肌着をずっと使い続けることにかなり抵抗があるし、破れたり汚れたりで使い物にならなくなった時を考えると備えは必要。そう。必要なのだ。

「……少尉、」
「なんだ。ほしい服でもあるのか」
「あのね、こんなもの男性に買ってもらうのはちょっと抵抗あるんだけどね」
「?」
「あの、肌着を……」

 ピシャーン!と雷でも脳天に落ちたかのように動けなくなった少尉。だよねやっぱりこの時代ってそうだよね!あんまりそういうことあけすけに言うのって良くないよね!

「……これで足りるか」
「ウン……!」
「いやこれごと持っていけ。全部買え」

 やや黙った少尉は一呼吸置いて表情を正し、また財布ごと渡してきた。申し訳ないったらありゃしない。近頃食欲があまりにも暴走していることから月のものも近いと思っていたのだ。本当に助かる……!
 いざ参らん!と入店し、女将さんらしき人に声を掛ける。最近親元を急遽離れることになって生理用品の買い方が分からないことを伝えると、不思議がられはしたものの普通に教えてくれた。しかもきっちり勧められたものを購入するもんだから太客として認定され、購入後もこれはどうだこっちもあるぞと今度は流行りだという着物や西洋のワンピースもオススメされる。流石に趣向品まで買うつもりはなかったので渋っていると、あまりに私が店から出てこないものだから痺れを切らした少尉が店の中まで入ってきた。

「あら? 旦那さんですか?」
「エ」
「何をしている。欲しいなら買えと言っただろう」

 女将さんが手に持つワンピースと着物を見比べ、少尉は眉間に皺を寄せた。そりゃそうである。こんなものを買わせるために財布を持たされた訳ではない。しかし少尉は、そんなものではこれからの寒さに耐えられん。そう言って、棚の上の方から厚手のショールのようなものを取ってくる。手書きで書かれた値段にギョッとした。少尉、これ、肌着なんかよりも桁が二つほど違いますが……!?

「これだな」
「いやいやいや、待って。そんな大層なもの」
「まあお目が高い……! そちらは海外から仕入れたばかりの高級品なんです! 奥様にもよくお似合いで!」

 またお越しを!ニッコニコの笑顔で呉服屋の女将さんは私たちを店から見送る。心做しか少尉は満足気であった。ぺしゃんこだった私の荷物入れには肌着だの生理用品だのが追加されてふっくらしており、首元から肩にかけてはふかふかのショールで覆われていた。悔しいが暖かい。かなり暖かい。前を歩く少尉が振り返って、ニッといたずらに笑う。そのままむぎゅうと私の頬を両手で包み込んだ。私は大人しくされるがままである。

「寒かっただろう。さっきよりも顔色が良くなった」
「……ありがとうございます、少尉」
「いい。飯にしよう。ほら、天ぷらそばなんてどうだ」
「天ぷらそば……」

 ここに来て、アイヌのご飯でもなければロシアのご飯でもない。どちらも美味しいが、ここに来てのそれは反則ではないだろうか。完全な日本食、天ぷらそば……!ごくりと喉が鳴る。そんな私を見ておかしそうに笑った少尉に手を引かれて天ぷらそばのお店に入った。カウンター席には人が疎らで、奥の方の席には見知った軍服が見える。軍服である。あれ?

「あ? なぜ杉元がここにいる」
「お。二人とも昼飯まだ食べてなかったのか」
「……鯉登少尉殿と、ナマエ?」
「あ、ねえ後ろ。軍曹も来たよ、少尉」

 目の前には既に天ぷらそばを食べ始めている杉元。後ろからは軍曹も来たようで、目を丸くしていた。図らずとも大集結である。こうなると谷垣やチカパシ、エノノカとヘンケとも一緒に食べたかったところだが、そんなことは言ってられないほどに私は目の前の天ぷらそばに夢中になっていた。

 結局、杉元、軍曹、私、少尉と四人で仲良く並んで天ぷらそばを堪能する。そばの湯気が立ち込める店内で大将がそばを茹で、ほくほくさくさくの海老の天ぷらが熱いそばの上に乗せられた。じんわりとそばつゆが衣に染みていく。男性陣から順番に置かれていく天ぷらそばにガッツリ明治時代を感じた。こんな常識みたいな感じで男尊女卑なんだな。
 明治による価値観の洗礼を受けて目を白黒させていると、すっと横からキラキラほくほくの天ぷらそばが目の前にスライドされて出てきた。大将はまだ天ぷらそばの準備をしている。私に天ぷらそばを譲ってくれたのは、まあ、言わずもがな、少尉である。

「……どうしたの」
「先に食べろ、ナマエ。どうせ私の方が早く食べ終わる」
「少尉……!! ありがとう!」

 本当にになんで、この人はこうも私に良くしてくれるんだろうか。惚れたからだと最初に私に言った少尉だけど、その後これを触れ回っている様子も無いし。何が嘘で何が本当で、冗談なのか本気なのか、さっぱりだ。
 そんなこと今気にしても仕方がないか。お腹がすいて回らない頭は早々に少尉から天ぷらそばにリソースを割き始める。お言葉に甘えてまず天ぷらから食べた。
 うっまい……。つゆと合うんだなこれが……。
 美味しさを噛み締めていると、隣に座る少尉が物珍しそうに私を見た。ようやく少尉の元にも天ぷらそばがやって来たようである。

「好きだったのか、海老の天ぷら」
「うん。だいすき!」
「知らなかった」
「ここに来て初めて食べるしね」

 聞くやいなや、ずい、っと少尉の器がこちらに寄せられる。この天ぷら、お前にやろう。そう言って私の反応を見る前にお箸で掴んで、目の前のそばの上に乗せる。思わず少尉の顔を見た。目が合う。この人は時たま私をこんなふうに見つめる。なにか私を通して大切な誰かを見ているような、そんな表情。

「少尉はいらないの? えび天」
「……そうだな。惚れた女には好きなものを食べていて欲しいだろう」
「あけすけに言うよね……」
「隠していないからな」

 自ら天ぷらそばの店を選んだだけあるのだ。彼はきっと天ぷらそばを嫌いではないし、寧ろ好きな方なのではないだろうか。天ぷらが好きだと言う私に当たり前のように天ぷらを寄越し、それをかじる私を満足そうに見つめる。

 だめだ、毒されそうだ。このままこの人の保護下に居続けると、いつかこの人が居なくなった時私は一人で生きられなくなってしまう。
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