ふと中心部を見やると今度は少尉がパカパカ走る馬二頭にそれぞれ片足を置いて立っている。不安定な足場なのに本当によくやるなと感心した。彼は軍で人を殺している場合ではないのでは?
「どうしたナマエ、羨ましいか?」
「あの、その芸はそんなにやりたくないんだけどね、馬に乗ったことなくて」
「……馬に?」
信じられない、と言う顔をした。やっぱりボンボンのお坊ちゃまってみんな乗馬でも習ってるもんなのか?それとも軍では義務教育のような扱いなのだろうか。少尉はうろうろと視線を彷徨わせ、一旦馬から降りてそのうちの一頭を柱に繋げる。何が始まるのかと思えば残ったもう一頭の馬を引き連れ、上機嫌に私に手を差し伸べた。
「教えてやろう。馬の乗り方を」
「え、……いいの!?」
「軽業には飽きていたところだ。いい暇潰しになる」
軽い身のこなしで先に馬に乗った少尉はグッと私の手を引く。現代で乗るポニーの乗馬体験みたいにサドルも足をかける鐙(あぶみ)もない。どうやってよじ登ればいいのかと思案していると、両腕の下、いわば脇の部分に手を滑り込ませて持ち上げ、軽々と少尉は私を馬に乗せた。横乗りする形になって、自然と少尉と顔が近付く。
「少尉、みて! すっごい高い……!」
「フ、ちゃんと両足で跨がれ。落とされても知らんぞ」
「うん!」
姿勢を正して、目線はまっすぐ前。手網を持って、馬が歩くリズムに合わせて腰を持ち上げる。手ではなく脚でバランスをとって、腰で揺れを吸収するイメージ。ただただ馬に乗ってるだけでは馬に負担がかかることもあるらしい。知らなかった。
「はは、上手いぞナマエ!」
「ほんと!?」
「才能あるんじゃないか?」
「ふふ、これ、楽しい……!」
私が万が一にも落ちないよう、少尉がずっと腰を両腕で掴んで支えてくれる。凄まじい安定感と安心感である。勝手に曲馬団の中を馬で一周していると、少女団が練習している場所の近くを通った。まだ谷垣はダンスをうまく踊れず苦戦しているようである。なにかミスをする度に振り付け担当のお姉さんに叱られている。だんだん不憫になってきた。かける言葉も見つからなかったので素通りする。視線が刺さるが気にしない振りをした。あ、と声が出る。
「杉元とチカパシじゃん。どう? ハラキリショーの出来は」
「おい遊びに来てるんじゃねぇよな? なに上から見下ろしてんだよ!」
「やだな遊んでないよ」
現れたのは杉元、チカパシ、座長である。いや現れたのはこちらの方だが。手網を引いて馬をその場に止める。遊んでるも何も、少尉が教えてくれるって言ったことだし。そう思って上から杉元を見下ろして笑っていると、座長がいいこと思いついたと言わんばかりに手を叩いた。
「お二人で肩車して馬に乗るのはいかがですか? 若い男女二人組というのは、必ず! 人気が出るんですよ!」
「えぇ……」
「彼ほどの体幹があれば簡単なはずです! ナマエさんも華奢ですし! どうです?」
言わずもがな、お二人というのは私と少尉である。さっきの馬二頭に片足ずつ置いて立つやつかな。私まだ馬に乗れるようになったばかりだから怖いんだけど……。チラ、と少尉を見上げると、腰に当てられていた少尉の手にグッと力が入って身体を引き寄せられる。
「悪いな、座長。万に一つでもナマエに怪我をさせるようなことはできない。諦めてくれ」
「ごめんね座長」
「そうですか……。残念ですが仕方ないですね」
意外と座長は聞き分けよく引き下がった。多分今回の目玉商品である軽業の天才、鯉登音之進の機嫌を損ねたくなかったのだろう。懸命な判断だ。現に私たちが勝手に馬を乗り回してることだって何のお咎めもなしである。少尉が踵で馬のおしり部分を蹴ると馬は緩やかに歩き出した。さっきまでと同じ要領でバランスを取って、元いた場所に戻ってくる。
「私が先に降りて馬を固定する。少しの間だけ一人で乗っていられるか?」
「うん!」
言葉通り、慣れた動作で少尉は先に降りて、馬の手網を握った。少し歩いてから柱に手網を固定し、少尉は私を見上げる。片手を握って支えてもらって上手く横乗りの体制にまで持っていくと、今度は少尉は両手を広げた。
あ、と思う。思ってしまった。絶対に今じゃない。今じゃないのに、何かが凄まじい速さで心を支配する。
「降りてこい、ナマエ」
彼なら絶対に大丈夫だと思った。そもそも停止している馬から落ち損ねた位できっと人はどうこうならないのだが、それでもこの人なら、と思わせる何かが少尉にはあった。全幅の信頼で軽く飛び降りて、ぎゅうっと抱きしめられる。足を浮かせたまま、少尉の首元に擦り寄って彼を呼んだ。内緒話をするみたいに。
「あのね、少尉」
「なんだ?」
「少尉は断ってくれたけどね、わたし、」
自然と言葉が出てきた。怖いとも思わなかった。
「少尉になら、命、預けられるよ」
言うやいなや、ガッと少尉から身体を引き剥がされる。依然として足はぶら下がったまま、少尉は私の脇の下に両手を差し込んで距離を取った。ポカンと口を開けて待つこと三秒ほど。少尉は深く息を吸った。
「なぁいをゆちょっどこん、馬鹿すったれがァ!!!!」
「えっ」
「あたいがっ……! あたいがどしこ、わいんこっを……!!」
キィンと耳にダイレクトに響く少尉のお国言葉。昨日ほど早口で捲し立てられてるわけではないのでなんとなく意味は掴めそうである。なに、馬鹿すったれ?これは聞き捨てならないぞ。とにかく罵倒されたらしいことだけはわかった。
むっとして言い返そうとした時、ゆっくりと私の身体が地面に下ろされる。今度は両肩を掴まれて、言葉を詰まらせた少尉は奥歯を噛み締め、やがて絞り出すように息を吐いた。
「……違う、逆なんだ」
少尉の小さな頭が、額が私の肩口に埋められて、それからぼそぼそと小さな声で続ける。
「私がお前のことを、命を懸けて守らなければならないんだ」
「……少尉、」
「命を預けるなんて簡単に言うな。昨日のように、危ないことに自ら飛び込むことはしないでくれ」
ぎゅ、と大きな体躯を抱き締める。何がここまで彼をそうさせるのか、私にはさっぱり分からなかった。一方の私は小さな声で、わかったよと応えることが精一杯。執着されるにしては日が浅く、余りにも異様であった。
どうしたもんかと一人で考えていると、ひょっこりと柱の影から誰が顔を出し、あ、いたいた、とこちらに向かってきた。長吉である。
「鯉登さん! 次の技の説明しますから、そろそろ戻ってきてください!」
「少尉、長吉が呼んでるよ」
一呼吸置いた。それから表情を切り替え、軽業の練習に戻る。彼、もうプロなんじゃないか?現代なら天才軽業師として情熱大陸にでも出演してそうだ。しかも顔も良いと来た。山田曲馬団はなかなかの集客が見込めそうである。