秘密

「名前君、少しいいかい」

メディカルチェックの結果を配る為各課を回っていた私を呼び止めたのは、このカルデアに於ける第二のサーヴァントであるレオナルド・ダ・ヴィンチであった。管制室にいるはずであるルイーゼに書類を届けに来たのだが、室内には彼の他には誰も居らず、サーヴァントの彼はメディカルチェックを受けていないのだから用はなくすぐに立ち去ろうとしたのだ。彼は美しいかんばせを此方に向け、薄く微笑む様は彼の絵画「Monna Lisa」を思わせる。凛としながらも何処か柔和な、良く通るその声に足を止め書類を胸に引き寄せて彼女へ向き直る。

「はい、ダヴィンチ女史」
「君はいつまでも堅苦しいね。ダヴィンチちゃんと呼ぶように言っているだろう?」

へらりと笑って見せた美女は少し不満げに声を上げた。この地球上で彼女を知らない人間等いないであろう偉人に向かって「ダヴィンチちゃん」だなんて声を掛ける度胸は、一介の職員である私は持ち合わせては居らず「いずれ」等と誤魔化して要件を促す。蝋燭の炎が吹かれた様に彼女から笑顔が消え、その代わりにアイスブルーの瞳が間抜けな私を射抜き、一瞬だけ呼吸が止まった。

「君、体調が悪そうだけど?」

掛けられた言葉は、図星を突いていた。少しでも間を開けて仕舞えば肯定と取られる気がして、間髪入れずに否定した。それがかえって態とらしく聞こえた様で、彼は与えられた端末を何度かタップしてから「ふむ」と納得の声を上げ、また私に視線を寄越す。悪事が暴かれた子供の様に、私の身体は震えていたと思う。

「メディカルチェックの結果は異常無い様だったけど、最近はいつにも増して顔色が悪い。君、吐いてるだろ。私に隠し事はできないよ。」
「…少し胃が荒れているだけです。季節の変わり目はいつもこうで、」
「其れなら胃カメラで異常が見つかるでしょ?でもそんな事も無く、君は゛健康体゛だと結果が教えてくれている。頭痛や倦怠感はある?眠気はどう?」
「なぜそんな事を?まるで、」

挙げられる症状に私は困惑した。彼が口にしたものは全て当て嵌ってしまうからだ。二の句が告げず目を見開いて立ち尽くす私に、万能女は言った。

「妊娠初期の悪阻(おそ)、だよ」

そんな事があるはずはなかった。 否、妊娠の心当たりは大いにあったが、検査をしても胎内には息づくものなど何もなく月経だって定期的に来ていたのだ。受胎しているはずがない。

「だって、私メディカルチェックは無問題で…」
「そう。データにすると妊娠してはいないのに、君の身体は悪阻を起こしてる。医学のプロである君自身が気づいていないという事は、君の専門外である呪術の管轄であるという事ではないかな。」

女史は、毅然とした表情のまま、瑞々しい唇で更に問うた。

「無粋な質問だけれど、心当たりある?」
「…いいえ、ありません。考えすぎです。午前中に配り終えなくてはいけないのでこれで失礼します。」

これ以上彼に迫られては、きっと洗いざらい話してしまう。私は、傍から見ても異常な程に動揺していた。管制室を出て、残っていた書類を事務部や開発部へと届け終わった帰り道、廊下に沿って貼られたはめ殺しの大きなガラス窓の外に広がる真白の景色を瞳に写しながら、私は泣いていた。気付いてくれた人がいたのに、それを遇らって逃げ出してしまったのだ。「助けて」と言えたらもう二度とあんな恐怖を抱かずに済むのに。空っぽの胎内に得体の知れない者が居て、宿したのは紛れもなく彼しか居ない。


その夜も、私は彼に抱かれていた。波打つシーツに横たわる私の下腹部で酷く不快な濁った音と肌と肌のぶつかる暗澹とした響きが室内を支配している。肩をベッドに押さえつけられながら、私を侵す彼の踊る様に揺れる髪の毛を虚ろな目で追いかけていたら、彼はその視線に気が付いたのか不思議そうな顔をして抽挿を止め、肩を掴む手を離した。私の唇から吐息と共に絶え絶えに出た言葉に覇気は無く、其れは今際の際に紡がれた物の様でどこか寂しさを孕んでいる。身体が離れていくと肌寒く、端で丸まったシーツを引き寄せて汗ばんだ身体を覆い、常夜灯に浮かぶ彼から少しだけ距離を取って、魔に怯える子供の様に背を向けて無様に膝を抱え込んだ。

「壊れかけているのか」

私の隣に横になり乍ら言う彼の声は平時と変わらず平坦で低く、精神が壊れかけていると気付いているにしては全く持って危機感という物が感じられない。壊したのは誰だと言いたかったけれど反発すればやっと止まった行為が再開されるかと思うと如何しても言えなかった。

「あの女に勘付かれたか。」

彼が言う女が、ダヴィンチ女史の事であるとすぐに分かった。彼はいつも、千里眼でも有るかの様に私の身の回りの出来事を事細かに把握しており、私を穿ちながら苛む様に言い聞かせるのだ。

「事は最終段階に至った。おまえに根付くものは永遠に消え去る事はなく、名門の魔術師だろうと稀代の魔女だろうと排除する事は出来ない。おまえはこれが呪いだと思っている様だがそれは違う。この儀式は呪い(まじない)ではない。其れについて詳しく話してやる気はないが…そうだな、これだけは覚えておくといい。おまえを、母なる宇宙(うみ)にしたのはこの俺だ」

纏うシーツを剥ぎ取りながら言う話は私には到底理解出来なかったが、ひとつだけ分かった事がある。私はもう助からず、彼が消えるその日まで、私が元の私に戻る事は無く、彼が欲する物に作り変えられた身体で生き続けなくてはなら無いという事だ。

「私が貴方に何かしたの…?私は只の職員で、特別な事なんて何もない人間なのに、何故私を使い続けるの。」

率直な疑問であった。術式や召喚の母体に必要なのは魔術の素養がある特別な人間で無くてはならない筈であるのに、彼が私を標的にしている理由が微塵も分からなかった。否、分からない事だらけで、何が分からないのかも分からない。この男は一体何者なの。

「おまえが俺と真逆に存在していたからだ。平凡な非魔術師、性別、国籍、何もかもが俺と対になる」
「そんな人間はカルデアに溢れかえってる!誰だって、良かった筈なのに…!」
「何を泣いているんだ?」
「私は貴方が分からない。見ず知らずの女を犯して、人生を奪って壊してでも成し得たいものなんて分からない」
「俺を理解しようとするな。これはおまえの為にしている忠告だ」

熱い掌で、涙に濡れた頬を乱暴に掴みあげられかち合った瞳は、暗がりにもはっきりと見える美しいヴァイオレットだった。冥々と居座る底し得ぬ闇が私を見ている。

「何も知らなくて良い。俺の中に何も見るな。俺にはおまえが分からない。其れでいい。今更なんだ。おまえは既に俺の手中で生きるしか無いのだから」

闇に飲み込まれる。衣摺れの音と男の息遣い。唇に触れる柔らかい熱。胸を這う物。脚を開かれる。外気に触れた秘部がひやりとした。何も見えない。空気がひゅうと漏れ出すばかりで声も出ない。

「×××」

男の声で何かの言葉が紡がれたのを聞いた。私が覚えているのはそこまでだ。


フィニスカルデアはもう無い。人理焼却を食い止め全てが終わったかに見えたカルデアは全壊し、多くの職員が亡くなった。あの火災で生き残り、クライオニクスされていた筈の7人のAチームメンバーはカルデアに反旗を翻し人類は白紙化された。その中には、勿論あのデイビット・ゼム・ヴォイドも含まれている。彼が長い眠りについている間も私に安寧など無かったけれど、彼が私の元に現れないというだけで安らぎは充分に得られた。しかし今、彼は目覚め、異聞帯を治めている。カルデアが襲撃を受けた際、私は死んだのだと思い込んでいてくれれば其れで良いが、きっとそうはいかないだろう。
幸運にも生き残った私は、彷徨海にあるノウムカルデアにて変わらず医療スタッフとして在籍していた。医療スタッフは私以外皆亡くなってしまった。

「名前ちゃん、ちょっと良いかな」

カルデアと似た造りをした廊下を歩む私を、ダークブラウンの髪を揺らした美しい少女が呼び止める。声音は高く薄い。しかし其の柔らかさは依然として変わる事はなく、太陽の様だ。

「はい、ダヴィンチちゃん」

私が振り返ると幼い顔を綻ばせてから「私の部屋に来てくれる?」と、彼の作業部屋に誘われ其れに素直に従った。案内された先の彼の部屋はごちゃついているが、彼に言わせたら「私にしか分からない法則と基準で並べてあるだけだよ。」との事であるし、この部屋は彼しか利用しないのだから誰に迷惑を掛けることもなく、片付けろと言ったところで「合理性に欠ける」と溜息をつき結局聞く耳を持たないのだから放って置かれるのも頷ける。壁際に設えられた木製の古い長椅子に隣り合って腰をかけ、膝を少し払ってスカートを正す。其れをみたダヴィンチちゃんは「畏まる事ないよ。」と笑ってみせたけれど、技術顧問が私を直々に呼び出すなんて大事に違いないと、私の心臓は厭に早鐘を打っていた。しかし、彼は私の心配を見透かした様にへらりと笑う。

「安心したまえ。別にお説教しようって訳じゃないからね。只、そうだな…君の話をしようと思ってね」
「私の話、ですか」
「正確には君に宿る呪いの話、かな。前の私にも何か聞かれたんじゃない?異常だからね。」

彼は数年前のあの日と同じアイスブルーの瞳で私を見た。この人に隠し事は通用しない。

「カルデアでも同じ事を仰っていましたね。私はあの時、貴女に気のせいだと言ったんです。けれど本当は助けて欲しかった。泣いて縋りたかったんです。今更こんな事を言っても遅いですけどね。」
「それは誰から受けたものなの?そんな術は見たことがないんだ。君には言っていなかったけど、実はサーヴァントにも聞き回っていたんけどね、影の国のスカサハも、コルキスの魔女も、稀代の大魔女キルケーさえも匙を投げた。君が孕んでいるのは其れ程のものなんだよ。」
「…デイビット・ゼム・ヴォイド。彼は毎晩私に‘呪い’を施しました。稀代の魔女でも感知できず消し去る事は出来ない呪いであると。」
「それは…キルケーが聞いたら噴火しそうな台詞だねぇ。デイビットは彷徨海に手出しできないだろうから当面は安全だけどね。用心は必要だよ。彼は空虚ともいえるほど無欲で無感情な異端者だったけど、たった一つ君に執着した。彼にとって君は特別だったんだ。誰の目をも掻い潜って君との結び付きを守り抜いた彼は、君が生きていることを知ったらきっとどんな手を使ってでも取り戻しに来る。まぁ、そうならない様に私達がいるんだけどね。」

膝の上で組んだ指に彼の温かで柔い掌が重なり、ふと顔を上げる。やはり彼はMonna Lisaに良く似た顔をして私に微笑みかけていた。