Evil woman Supper 02

 私がこの世で信用していない物は幾つかあるが、一つは携帯のアラーム機能だ。
 私は寝起きが非常に悪く、そして眠りが非常に深い。アラームの音量を最大にしても私の意識に介入するのはほんの僅かなサウンドだけで、鳴り止んで仕舞えば私を眠りから引き上げる者はいなくなる。
 それではとても生活していけないので、携帯のアラーム以外に2つ目覚し時計をセットして眠るようにしているのだ。
 しかし彼らも、私を容易に起こす事はできない。真に私を目覚めさせるのは、

「名前、目覚ましを止めろ」

 私の雇い主が騒音に耐えかねて叩く扉の音だけだ。

「ん…はい、おきてます」
「目覚ましを、止めろ」
「あー…ん、」

 語気を強める彼の声に呻きながら手を伸ばし、手探りで目覚し時計達を叩き落としてその音を止めてやる。体温で温い居心地の良い布団の中に居てはいつまでも出る事は叶わないので、観念してスリッパの上へ足を下ろした。
 寝巻きにカーディガンを羽織り、朝食を用意する為に扉を開けると、其処にはまだヴォイドがいて、驚きすぎて変な声が出た。
 彼はセット前のさらさらとした艶やかな金髪を手で掻き上げ、眠いのかいつもの2倍人相が悪いしかめっ面で私を見下ろしている。

「…おはようございます」
「おはようレディ。何処に行くつもりだ?」
「朝食を作りに…」
「…毎朝オレに朝食を用意する為に少し早めにアラームをセットしている様だが、オレを起こしては意味を為さないのではないか?」
「おっしゃる通りです…ごめんなさい」

 深夜まで仕事をしている彼を少しでも長く眠らせたくて朝食の用意をしているのだから、私の起床と同じ時刻に叩き起こしてしまっては、彼のいう通り何の意味もない。申し訳ないとは思っているのでしおらしく謝罪すれば、彼は瞳を閉じながら長い長い溜息と共に苦言共取れる‘気遣い’を見せた。

「…眠れていないのか?」
「寝つきが悪いだけで。」
「そうか。…今日の朝食もコーヒーを入れるところから初めてくれ。オレは部屋にいる」
「はい。和食で良いですか?」
「構わない。」

 ヴォイドが去ったのを確認してから扉を閉めて、部屋に設えられた洗面所へ向かう。後ろ髪を緩く結んでから前髪を上げ、お湯の蛇口を捻って温水が出るまで待ってから泡だてネットをぬるま湯にくぐして洗顔料を泡立てる。面倒くさいので適当に洗顔をして適当に化粧水をつけてから前髪を下ろし、大きく伸びて欠伸をしてから冷えた手を摩りながら
キッチンへと向かった。すっぴんで顔の良い男の前に出る事に抵抗があったのは最初のうちだけで、物臭な私は、時間がない朝に化粧をする煩わしさと羞恥の何方を取るかと言ったら楽な方を選ぶに決まっている。
 昨夜のうちにセットしておいた炊飯器は既に蒸気を吹き切って沈黙している。蓋を開けて確認すれば、閉じ込められた湯気が甘い香りとともに私の顔を撫でて冷ややかな空間に溶けていった。

「さむ…」

 シンクで手を洗い、冷蔵庫から卵、紅鮭の切り身と大根、ほうれん草と薄揚げを取り出し、コンロの底に水を張って紅鮭を並べて点火する。それからほうれん草を洗って塩を入れた湯の中に入れてさっと茹でる。茹でたほうれん草は一度水に晒してからしっかり水を切りざく切りにして、茹で汁に顆粒出汁と醤油を加えた煮汁を作る。出来た煮汁にほうれん草を浸してこれはこのまま放置。
 鮭を裏返したら大根を銀杏切りにして洗った鍋の中に入れて火にかけ、柔らかくなった頃に油抜きして短冊切りにした薄揚げを入れ、火を止めて顆粒出汁と味噌をとき、沸騰しない程度にもう一度火にかける。次に卵を4つ溶き、顆粒、砂糖、酒を加えてよく混ぜ、熱して油を引いたフライパンに流し入れて巻く。少しずつ卵を流して少しずつ巻いていくのがきれいな卵焼き作りのコツ。
 紅鮭が焼き上がったのを見計らい、全てを盛り付けてお盆に乗せ、私はヴォイドの部屋へと向かう。
 この広い静かな空間には私の足音と食器同士が触れる軽い音しか聞こえない。
 階段を登り、三階の一室の扉に肘を数回ぶつけて到着を知らせれば、内側から扉が開き、ヴォイドが私の手からお盆を取って食事をテーブルへ並べ始める。
 一応言っておくと、この家にはリビングが無い。私が来る前、彼は自室で食事をするか外に食べに出ていたそうで、部屋に入られるのは嫌かと自分も自室で食べると進言したのだが「会話をしながらの方が食事の時間が有意義になる」とよく分からない事を言って私が彼の部屋で食事を摂ることを許したので、私が食事を用意する時は必ず此処に来て彼と食卓を共にしているのだ。
 彼の部屋は、‘如何にもヴォイドの部屋’という見た目をしている。整然とした本棚と、整理されたデスク。生活感が無いわけでは無いが、全てが完璧に磨き上げられていて几帳面な性格が現れている。私は何方かと言うとだらしが無い方なので、この部屋に入る度に見倣えと脅迫されている様な気分になった。
 頂きます。と律儀に挨拶をしてから食事に箸をつける彼に倣い、私も手を合わせてから食事を始める。我ながらどれも素晴らしい出来である。味付けは完璧。見た目も美しく、離層的な食事と言えるだろう。
 そう感じるのは私だけでは無いようで、彼は度々私に「店を開ける」と賛辞を投げた。
 2人で食事を満喫していると、不意にヴォイドの携帯が鳴り、彼は食事を邪魔された事に憤りを感じているのかうんざりした顔で着信元を確認する。そして小さく息を吐いて私を見た。

「すまない」
「どうぞ」

 箸を持たない手で着信を促すサインをとれば、彼は手早く画面をタップし携帯を耳元へ運び「食事中だ。」と、不機嫌を隠そうともせずに言い放つ。
 会話の内容からして通話の相手は藤丸だろう。藤丸が話しているであろう詳細は聞こえないが、ヴォイドの反応を見れば分かる。電話が直ぐに終わった所を見れば、この後藤丸が此処に来るか私達が呼び出されるかの何方かであろう事まで予想がついた。

「藤丸さんですか」
「呼び出しだ。30分後に出る。ラブホテル内で男が殺害されたらしい」
「んッ!!」

 気不味い単語が聞こえて来て、危うく米粒が器官に入る所だった。別にラブホテルという言葉だけで反応したのではなく、‘食事中’に‘ヴォイド’の口からその言葉が出た事が私の中では問題だったのだ。挙動不振になっている私に、彼は「どうした?」と問うたけど、私は何も言えなかった。「ヴォイドさんの口からラブホテルなんて単語を聞く日が来るとは思いませんでした」なんて言えるわけがない。その場を取り繕い、食事を済ませて後片付けをし、手早く化粧と着替えを済ませてヴォイドと共に指定された場所まで向かう事となった。

 まさか。待ち合わせ場所が事件現場だとは予想が出来なかった。しかも初動捜査中の、遺体が残っている事件現場に、一般人の私が足を踏み入れる事となろうとは誰が予想できただろうか。ヴォイドがラブホテルの敷地内に車を進めた時の私の気持ちを三文字で答えよ。正解は「え!?」である。
 困惑しながら車を降りると、進入禁止のテープの前に立っていた藤丸が申し訳なさそうな顔をして私たちを出迎えた。

「いやぁ…朝からすみません」
「全くだ。単発の事件に呼び出した理由を説明してもらわなくては」
「勿論です。名字さんもごめんね」
「いえ…というか私一般人なのに」
「オレの助手だ。一般人ではない」

 ヴォイドの言葉に藤丸は苦笑いをしていたから、きっと彼からの圧力があったのだろう。警視庁内でも様々な圧があるだろうに、外部にも恐ろしい人間がいるとは彼も難儀である。彼が持ち上げたテープを潜り、手渡された手袋とフットカバーをつけて部屋へと足を踏み入れた。
 室内は、一般的なラブホテルの作りをしていた。この部屋が異常なのは、錆の香りと死臭で満ちている事と、茶けて固まったシーツ沈む、事切れた全裸の男の死体だけである。
 然し私は、スプラッタ映画や犯罪小説の主人公のように、凄惨な遺体を見て嗚咽したり叫んだりはしなかった。確かに黒井家の際には驚いたが、今回は遺体がある事を承知で来ているのそれはない。以前言ったかもしれないが私は納棺師の仕事をしていた事がある。毎日遺体に接していれば時には‘普通じゃない遺体’にも出会うのだ。人身事故、飛び降り自殺、仕事数週間が経過した腐乱死体等、ご遺族からの依頼で警察署に引き取りに行き、そうなってしまった方々を出来る限り綺麗に整えて棺に納めるエンバーミングも担当していた。ご遺族との最後のお別れの支度をするのが私の仕事だったのだ。四肢が胴から離れ、首の無い遺体を修復した経験もある。内臓が溢れ出た遺体位では、憐みはすれど恐れはなかった。

「被害者は25歳男性。財布や携帯は所持しておらず身元の特定には至っていません。直接の死因は出血性ショックによるものです」
「見れば分かる。何故オレ達を呼ぶに至ったのか説明してくれ」
「ラブホテルでの殺人はこれで3人目です。どの遺体も腹部を裂かれ、内臓の一部が未だ見つかっていない。連続性があり、今回は遺体の発見と同時に俺が担当として指名されたので連絡した次第です」
「…良いだろう。これ以前の被害者の資料を持って事務所に来い。オレは部屋を見て回る」
「分かりました。鑑識にも伝えておきます」

 藤丸が去り、私とヴォイド、それから鑑識の皆さんが取り残された。鑑識からの「誰こいつ」という視線が非常に痛かったが、これも私の仕事なのだから仕方がない。指示された通りに隅々迄写真に収めてから私達は藤丸が来る予定の事務所へと戻った。