蛇の巣

「調査に同行したい?」
 
 空の白む夜明けの事。
 衣擦れと壁越しの木々の騒めきが聞こえる静寂の中に吐き出した唐突な申出に、身支度を整えていたデイビットは袖口のボタンを留めていた手を止め、珍しく吃驚(きっきょう)を表した。
 確かに今現在も裸のままベッドから降りる事もなく半ば死人の様な生活を送っている女が、突然密林での調査に意欲を示せば何事かと驚くのも無理は無いだろうが、私はなにも思い付きや退屈凌ぎ等の軽率な理由で現地調査に出向きたい訳ではない。今後カルデア一行と合流する事が出来た時の為に、この異聞帯の情報を少しでも収集しておこうと考えたのだ。この石室で廃人のままいるよりは有意義であるし、藤丸君がこの異聞帯に辿り着いた時、少しで早くこの男に打ち勝ち、デイビット・ゼム・ヴォイドを殺せるように。

「珍しいな。オレとは極力距離を置きたいのだと思っていたが」
「此処に居てもする事も無いので。外に行くにも、貴方がいないと安全に出歩けませんし…」
 
 デイビットはタイを締める手は止めず、冷ややかに言い放つ。苦し紛れの返答には僅かに反応を示し視線を向けたが、それきり口を開かなかった。
 凌辱に対しての拒否を除けば、明確に“やりたい事”を望むのは初めての事だ。不審に思われただろうか。たとえ魂胆を見抜かれたとして、私の眇眇たる計画等はこの男にとっては些末な事だろうが、浅はかな心の内を見抜かれていたらと憂慮してしまう。
 
「だが今回は密林の先まで行く予定だ。装備の用意が整ったら声を掛けよう」
「ありがとう、ございます」

 妙な緊張感に汗を滲ませた私に返ってきたのは意外な程にあっさりとした肯定で、唖然とする私を他所目に身支度を終わらせたデイビットは靴音を立てて部屋を後にした。
 セノーテでのまぐわいから、彼は以前より余所余所しい態度をとる様になった。勿論私の身体を放縦に暴き、事を遂げるだけの彼と馴れ合うつもりは微塵もないが、何か違和感がある。
 彼が去った後、起き抜けの怠さが抜けず着替えだけを済ませてまた寝入ってしまった私は、微かな物音に目を覚ました。辺りは完全に明るくなり、仄暗かった石室には陽光が差し込んでいる。音は、去ったはずの彼が持ってきた幾つかの荷物のを弄(まさぐ)る際に出たものらしい。
 飛び起きた私に彼はいつも通り表情の無い顔を向け、頭程度の大きさの革製ショルダーバッグを差し出した。
 
「準備が出来た。出発するぞ」

 先程の口振りでは出発は数日後になるだろうと思っていたので、まさかこれから調査へ繰り出す事になろうとは予想もしていなかった。その行動力に驚いたが、荷物を背負い出発の準備を済ませている彼を待たせるのも忍びなく、差し出されたショルダーバッグを受け取り石室を出た。

 何という熱気だろう。この溺れる様な湿度は夜中の雨のせいだろうか。噎せ返る植物と土の匂い、鮮烈な緑、瑞々しく濃厚な生命の圧。密林の全てに圧倒される。
 セノーテがある地点よりも深い場所まで来るのは初めてだ。生い茂る羊歯と小さな原生生物の影や鳴き声に原初の地球を思わせるのは、嘗て恐竜を題材としたパニック映画で見たジャングルが記憶に残っているからだろう。
 汗を滴らせ浅く呼吸を繰り返しながら、木の瘤が隆起し落ち葉が敷き詰められた悪路を躊躇なく進むデイビットの背を必死に追う。
 時折振り向きペースを合わせる配慮も、推進力の違いのせいですぐに離れてしまい水泡に帰す。
 泥濘に沈むミリタリーブーツがやけに重く、限界を感じて足を止めれば、気配に気が付いたデイビットもまた歩みを止める。そして、自分の荷物に入れていた水筒を取り出し、栓を開けて私に差し出した。
 唇に触れた水は温い。しかし湿度と疲労で上手く息が出来ず口呼吸をしており渇いていた喉に染みわたり生き返る思いだ。数口飲んでまだ離したくは無かったが、彼の分も残しておかなくてはならないので、飲み口と勢いあまって口の端から漏れ出た水滴を拭って彼に手渡した。
 デイビットはひと口だけ呷り栓をする。全く息を乱していない彼と自身を比較し、体力など碌にない癖に調査に同行し、同士に有用であろうと浅慮した自身に辟易した。
 
「足手纏いですよね。正直、こんなにきついとは思っていませんでした」
「この程度の距離であれば君一人増えた所でどうという事はないが、君の体力や筋力では容易ではなさそうだな。戻るか?」
「…いえ、行きます」
「そうか」

 泣き言を庇い立てするでもなく、温度の無い声で事実を述べる。他人行儀になったと感じていた彼が見せた、私の意志を尊重し過剰な口出しをせず同行する姿勢に、抱いた心苦しさが薄らいだ気がした。
 道中は何度か休みながらも黙々と歩き続けた。寡黙な男であるから特に話題も無し、私に会話をしている余裕が無かったというのもある。太陽の傾きから察するに時間にしてみれば2時間程の探検は、元来そう体力の無い私にしてれば非常に過酷な道程であった。
 羊歯の茂みを掻き分けて必死に進んでいると、葉の騒めきと生物の鳴き声以外に耳に入るものがあった。
 それは久しく耳にしていなかった、人混みの賑わいだ。
 
「人の声が、しませんか」
「チチェン・イツァーのすぐ傍だからな」
「チチェン・イツァー…?」
「ククルカンの神殿の麓にある街の名だ」
「あの虎の人達がいるんですか?」
「いや、オセロトルは此処にはいない」
 
 考えてみれば、ロシアや北欧異聞帯でも人類は繁栄していた。汎人類史の南米にはマヤやアステカといった文明が築かれていたのだから、異聞帯の南米にも人類がいて、同じような文明を築いていても不思議ではない。
 彼の様子を見るに、この声の先に居る者達はオセロトルと呼ばれる現地人とは違い、警戒に値しない存在のようだ。
 茂みを抜けた先に横たわる幅の広い一本道には、まるで最奥の巨大な神殿への供物かの様に幾つもの露店が立ち並ぶ。マヤのピラミッドは以前何かの媒体で見たことがあったが、透き通った緑色の角が生えた神殿などあっただろうか。
 しかし私の意識はピラミッドや露店よりも、往来に釘付けられた。
 皆が一様に見上げる程に大きい。その見て呉れはホモサピエンスではなく、巨大すぎる爬虫類、恐竜そのものであった。
 見回しただけでも数種類の恐竜が混在し、中には明らかに肉食恐竜の体貌をした者もある。しかし争いも無く、皆が平穏に生活を営んでいるのだ。
 彼らは私達と同じ言語を使用して会話をしている。先程から聞こえていた話し声は彼らの物だったのだ。
 
「恐竜…?」
「あれはこの異聞帯における人類に位置付く、ディノスと呼ばれる生物だ。この街は彼らの街。草食で基本的に害はないがセノーテの件の様な例外もいる。不用意に近付かないことだ」

 ディノスという呼称はセノーテの襲撃の際に彼が口にしていた。彼の口振りから察するに、温厚な彼らの中にも稀に凶暴な個体が発生するのだろう。少なくともチチェン・イツァーの視界に納まる範囲にはその様な個体は見られない。
 慣れない光景にうろうろと視線を彷徨わせながらも逸れないよう彼の後ろに付いて歩けば、とある露店の前で歩が止まる。
 露店も彼らの体躯に合わせて作成されている為か、品物が並ぶカウンターも私の目線より少し下の辺りまで高さがあり、何が並んでいるのかは良く観察する事は出来なかったが、私よりも上背のあるデイビットにとっては易いのか、将又(はたまた)目的の物が決まっていたのか、店主らしきディノスに尋ねた。店主は頭に小さな角を乗せ、胸のあたりに小さな手を生やしているカルノタウルスのような容姿をしている。
 
「綿布を10枚、カカオを3袋、それから…プルケはあるか?」
「綿布とプルケは1瓶。カカオは…おや、カカオは今1袋しかないな」
「そうか、では1袋でいい」

 店主は肉食恐竜然とした粗暴な見た目とは裏腹に丁寧な接客と穏和な声音をしていた。受け取った物品を鞄に詰め、デイビットは次の場所へと移動を始めたので私も従ったが、もう少しディノスを観察していたかったので、この場を離れるのが名残惜しい。
 続く露店には各々多種多様な物品を扱っているようで、ある店はトウモロコシやホオズキといった食材、ある店では首飾りのような装飾品、またある店では食器や壺といった焼き物が並んでいる。石室かセノーテのどちらかでしか生活出来なかった私にとって、南米の街を回り買い物に興じ、他の人物――正確には人ではないが――と交流を図るというのは新鮮で鬱屈とした気分に光が差す心地だった。
 一通り目的の物を買い集めたらしいデイビットは、鞄を背負いなおして此方を気にした。
 
「何か必要な物はあるか」
「いえ…あ、此処には薬草とか医薬品の類はありますか?痛み止めが欲しくて」
「種類に限りはあるが幾つか取り扱っている店がある」

 迷いの無い足取りで辿り着いた店は薄く煙りがかり、白檀か何かの香木を焚きしめた、芳醇で深みのある甘やかな香りが漂っていた。
 デイビットは店主に声をかけ、整然と並べられた薬瓶の中から、濃青の小瓶を丸く切りそろえた爪先で抜き出した。彼の手の内にある小瓶にはアラベスクに似た繊細な模様が彫り込まれており、太陽に透かして見れば、中は粘度のある琥珀色の液体で満たされている。
 
「コパイバの樹液だ。どんな痛みにも効果がある。使うときは少し薄めて経口摂取するんだ」
「ありがとうございます…あ、お金は」
「此処では対価は不要だ」

 こわごわと小瓶を受け取り鞄に納めたのを認めた彼は、別に用があるらしく私に此処で待つように言い残し黒衣を翻した。
 取り残された私は薬を買った露店の脇に入り、往来の妨げにならない様に腰かけた。
 歩き詰めで足が痛い。様々見て回っている間は気にならなかった疲労が、腰を落ち着けたことによりじわりと滲み出た。
 厚い生地の上から脹脛をもみ解し溜息を洩らすと、首筋に生暖かく湿った空気が吹き付けられている感覚を覚えた。
 空気が触れたであろう箇所に咄嗟に手を当て振り返れば、長い首をカウンターから突き出した露店の店番が顔を寄せていた。私の首に触れたのは鼻孔から吐き出された彼の吐息だったのだ。
 先ほど手に入れたコパイバの樹液に似た明るい茶色の瞳が柔和な眼差しで私を写し、体躯に見合った大きな口をゆっくりと開いて問うた。
 
「貴女はクリプターと同じ汎人類?」
「ええ、そうです」
「私は貴女を見たことがない」
「此処に来たのは初めてです。普段はここからは少し遠い古い天文台の跡地にいます」
「ああ、巻貝の館かな」
 
 店番は、うんうんと頭を上下に揺らして相槌を打つ。呼称は知らないが、確かにあの石造りの建物は巻貝の様な螺旋階段が設えてある。あんなに離れた場所であるのに私の住まいを知っているという事は、このディノスはチチェン・イツァーはおろか密林やこの異聞帯について何か知っているやもしれないと踏んだ私は、この機会を逃すまいと幾つの質問を投げる事にした。
 
「少し、聞いてもいい良いですか?この場所、世界の事です」
「どうぞ」
「此処で一番権威のある存在は誰ですか?」
「権威のある、特別な存在とするならば、それは太陽神ククルカンだね。」
「此処はそのククルカンが支配する世界という事ですか?」
「いいえ。クリプターが来てからククルカンは私たちにとって特別な存在という認識になりましたが、彼女は私たちに義務を科したり何かを強制するような存在ではないよ」
「では、クリプターについても聞かせてください。彼は良くチチェン・イツァーに来ますか」
「そうだね。良く何かを調達しにくる」
「ひとりで?」
「彼はいつもひとりだ」

 サーヴァントを連れ歩いている様子は無いようだ。私も、只の一度も彼のサーヴァントに会った事はおろか、真明やクラスですら知らない。しかし彼の手の甲には指にまで至る大きく禍々しい令呪が刻まれている。消滅はしていないはずだ。
 
「貴方達はクリプターをどう思っていますか?」
「どうとも思わないよ。お客さんが来ただけ」
「憎くはないですか。貴方たちにとっては侵略者でしょう」
「私たちは憎いという感情を抱かない。それに彼が持ち込んだ言語やサッカはディノスの生活に浸透してきている。彼はもうミクトランの者だよ」
「ミクトラン…」

 ミクトランとは、ミクトランテクトリとミクテカシワトルにより治められる、アステカにおける冥府の名。そうなると、此処は冥界という事なのだろうか。同じ名を冠するただの土地という可能性もあるが、今の段階では分からない。
 彼のサーヴァントにしても、もしここが冥府のミクトランであるならそれに由来するサーヴァントの可能性は大いにあるが、南米の神話や文明に関しての知識が乏しい私には至る事の無い答えだろう。
 聞いた内容を咀嚼し考察していると、遠くの方に黒衣が見える。露店のディノスは彼の姿を認めると静かに首を引っ込めて、何事も無かったかのようにまた店番を再開した。私達もこれ以上チチェン・イツァーに用はないので日没までに密林を抜けられるよう帰路へついた。
 
「人生初のフィールドワークはどうだった」
「とても疲れました。でも欲しいものが手に入ったし、来てよかったです」
「今回は市場調査と他勢力の偵察が目的だった。買い物はついでだ」

 相変わらずの悪路を進み1時間程経過した頃。一瞥も呉れず言い放った彼の言葉で、先程一人で行動していたのは偵察だったのだと悟った。ディノスとの会話では大した情報は得られなかったので、そちらに着いて行くべきだったかと悔恨する。
 彼の背中を追いながら、私は自身の心境の変化に驚いていた。現状僅かながらに恐怖の対象であった彼に対して、自分が心を砕いていると気が付いたのだ。同時に気味の悪さを覚えた。例え話す相手が他に居なかったとして、長い間自身を蹂躙した人間にその様な感情を抱く事があるだろうか。ストックホルム症候群に類似する心的外傷後ストレス障害だと言われれば筋は通るが、何かが違う。根拠は説明出来ないが、胸に掛かる霧に似た形容しがたい不安が残っている。頭の片隅とは云え、強姦魔に善の片鱗を見出すなど異常だ。
 これも、私の中に巣食う“神”たる何かのせいなのだろうか。流れの違う潮(うしお)がぶつかり渦を成すように、胸の内では正反対の感情がせめぎ合う。
 其時デイビットが歩みを止めた。徐に頭上を見上げすんすんと鼻を鳴らしたかと思うと、「雨が来る」と呟き進路を逸れる。言われるがままに、すぐ近くに自生する巨木の割けた根に潜り込むと同時に猛烈な豪雨が始まった。裂け目はトンネルの様になっており、雨を凌ぐには丁度いい広さだ。肩に下げていた荷物を下ろし、雨が流れ込んでも濡れない様に根の奥に押し込んだ。雨垂れが穴の縁を伝い落ち、簾のように内と外を隔て密室を作る。
 雨を待つ間、彼は静かだ。片膝を立てて外の様子を眺め見るに倣い、私も何も話さない。
 代わりに、彼自身の膝に添えられた手が纏う深紅の令呪を黙って睨めつけた。
 彼は私を惨めな生贄にした獣だ。憎悪の対象で、凌辱の日々を思えば心を砕くなどありえない。令呪への視線はこの胎に居座る蛮神へのせめてもの反抗のつもりだった。
 
「何か言いたげだな」

 静謐に落ちた声は白紙に垂れた墨液の如く明瞭だった。視線を上げれば彼の眼窩に嵌めこまれた宝石が私を捉えていた。目の前の女を人と見做していないような、身震いする程冷ややかな目だ。
 
「ディノスに何やら質問していたな。オレにも質問があるのか?答えられる範囲でなら構わない。聞いてみたらどうだ」

 委縮し、言葉が出ない私に対し矢継ぎ早に繰り出される台詞は、攻撃を仕掛けたにも拘わらず黙り込む卑劣さを非難しているようだった。
 聞きたい事など山ほどある。サーヴァントについて。ミクトランについて。クリプターについて。此処に限らず、フィニスカルデアを追われてからの聖杯探索は分からない事ばかりだ。その中で私が選んだのは、私と彼の関係が始まった根幹の原因について。抱える疑問の中で、尤も個人的な物だった。

「…貴方は、何がしたいんですか」
「それはクリプターとして?それについて詳しく話す気は無い。知っても君に利益は無いだろう」
「いいえ、違います。抱くだけならもっと他に都合のいい人がいたのに。得体のしれない何かの依り代なら、適した魔術師がいたのに…カルデアが制圧された後、わざわざコヤンスカヤを使ってまで求めたのが何故私だったのかを知りたいんです」
「それについては以前話した。君がオレの本能を揺さぶり、支配欲を掻き立てたからだ。君の代わりはいない」
「そんなのは、理由になってない…。何か切欠があった筈です。でなければ納得がいかない…納得いかないです。理不尽に壊されて、翻弄される気持ちが貴方に分かるの…」
「分かるさ。分かった上で来る(きたる)その時まで行動している」
「分かっていて、何故あんな…、あんなに酷い事が出来るの」
「酷い事とは、君を抱いている事を言っているのか。必要があるからそうしている。不満があるのか?」
「ふ、ふざけないで!」

 眼の前に緋色が広がるような、身体の内の炉が燃え盛り炎が脳天に昇る様な灼熱を覚えた刹那、小さな破裂音と共に振り抜かれた右手が痛みと痺れを持ち、熱を帯びた。
 目の前に居る彼は無表情のまま、僅かに乱れてはらりと顔に掛かった髪の毛を払う。暗がりの中でも頬の赤らみは見て取れた。
 嘲りや揶揄の感情が一切無い悪辣な侮辱に、私は彼の頬を殴打したのだ。人生の中でどれだけ自尊心を傷付けられようが、理不尽な目に遭おうが、怒りに身を任せて人に手を出すことなど一度たりともなかった。いかなる場合であっても暴力は許されない事だと教育されたし、私という人間の芯は暴力を酷く憎み蔑んでいた。だからこそ、デイビットによる強姦を糾弾する資格があったのに。
 背に嫌な汗が滲む。許しを請わなくては。
 
「あ、ご、ごめんなさ」

 彼は私の謝罪が終わるよりも早く、行き場を失った私の手を引き寄せた。こんな事をした手前、殺されるのでは無いかという恐怖で身が凍りついたが、懸念とは裏腹に大きな掌で私の手を包み親指の腹で撫で、腫れが無いかを確かめるように時折顔を近付けるのみで、暴力を咎める事は無かった。
 
「君は、随分変わった。初めは怯え、耐え忍ぶばかりだったが、近頃は僅かだが会話も出来るようになった。変質を恐れる事は無い。時が来たらすべて話す。だから、今の内は知らなくていい」

 渦巻く瞳を窺い見ても、孕んでいるのは怒りではなく悲哀に寄る。自身が危害を加えておきながらその様な目を向けるのは、獲物を墓穴に埋める獣の如く愚かで滑稽だ。

「…オレとの出会いを、君は覚えているか」

 刹那、空に閃光が走り地を揺らす雷鳴が轟く。いつもの泰然とした態度はなく、雷鳴に掻き消える弱弱しく紡がれた言葉に乗せた感情は如何なるものか。
 スコールは止まない。