寓話を喰む



 今は、多分夜なのだろう。
 窓も時計もない空間で暫く生活しているが、食事やシャワー、ベッドタイムのタイミングなど彼の行動を見れば大体の時間帯は理解できた。
 ディナーであるローストビーフを細切れにしながら、目の前で食事を摂るデイビットをなんとは無しに見やる。
陶器の皿とシルバーが触れ合う音を立て、ナイフの使い方もぎこちない私とは対照的に音もなく静かに食材を口に運ぶ彼は視線に気づいたのか眼孔に嵌った宝石を私に向けて口許を引き上げた。

「どうした」
「食器の扱い方が綺麗だから見てただけ。」
「君は箸の使い方が上手いだろう。生まれ育った国の作法に特化しているのはどの人間も同じ事だ。君の国では箸が主流だったというだけの話だろう」
「貴方は箸も上手く扱えるでしょ」
「…まあ、そうだな」

 それ以上は何も言わず、きまりが悪そうに自身の手元に視線を落とし食事を再開した彼がどこか可愛らしく笑みが漏れた。
 彼は以前、料理に慣れていないと言っていた気がする。いつの事だったか、どのタイミングでその話になったのかも思い出せないが、彼の口から聞いた言葉であると言う事は確かに記憶していた。しかし、彼が用意する食事は高級リストランテで並べられるような、味も盛り付けもケチの付けようのない一流品で、私の口に合わないものは無かった。其れ等は、誰かに作らせていると言うわけでもなく、大きなアイランドがある広いキッチンで彼自身が調理している姿を何度も目にしている。あれから覚えたのか、慣れていないと言うのは謙遜か虚言かは分からない。その上、彼は紳士であった。淑女ではない私に対し恭しい態度を取るのだ。食事の際、私が着席する前に椅子を引いて待っていたり、私が間違った文法で話をしていても笑ったりもしない。自国にいた時の恋人達が一切しなかった事を彼は平然とやってみせるのだから、年下の男(とはいえそれ程離れていない筈なのだが)に心を躍らせてしまうのも仕方のない事ではないか。

「あ、デイビット」

 唐突に煙草の残りが少ない事を思い出し、手元から彼の顔へと視線を向けて呼び慣れた名を呼ぶ。
 彼は弾かれたように顔を上げ驚愕したかの様に目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑みを見せ、私の言葉の続きを促すように返事を寄越した。

「…どうしたの?」
「?呼んだだろう」
「呼んだけど。どうしてそんなにびっくりしてるの?」
「そう見えたか?なんでもないさ」
「そう…。煙草が無くなりそうだから買ってきて欲しいと思って」
「ああ、用意しよう」

 彼は私が喫煙するのを咎めた事がない。男というのは、恋人が喫煙するのを快く思わない生き物だと思っていた。私がソファに座って本を読みながら煙草をふかしていても、彼は何も言わなかったし、眠る時に髪に香りが残っていても嫌な顔一つせず私の頭を自身の胸元に引き寄せて眠っていたから、喫煙に対して嫌悪を抱いていない様に見える。

 食事を終えすっかり綺麗になった皿達を重ねてシンクまで運び、腕を捲ったところで必ず「君は座っていろ。」とデイビットから声がかかる。本心は食事を用意して貰ったらせめて皿洗いくらいはさせてもらいたいのだが彼がそれを許さないから、声が掛かってしまったら捲り上げた袖を黙っておろしてリビングに帰るしかない。
 水音と陶器同士が触れ合う音を耳にしながら、ダイニングに設えた純白のソファに腰を掛ける。彼が此方に来るまでは特にすることもないので、食事の前まで読んでいた本をパラパラと繞り、適当にページを眺め見ながら、軽くなったボックスを片手で開け残り2本となった内の一本を取り出してフィルターを咥え火を付けた。
 浅く吸ったひと口目を雑に吐き出して、手元の書籍に視線を落とす。
 この本はデイビットの物だ。
 彼はジャンルを問わず沢山の本や資料を所有している。毎日家に居る私は、彼の本棚の右上から1冊ずつ持ってきては暇を潰しているのだ。
 今回は聖書だ。正直、神がどうのこうの言われたところで私は無神論者であるし聖書の内容にはあまり共感ができないのだが、紙の上の神に縋り、正と生の教えを賜る事で救われる人間がいるのだと考えれば仏教だろうとキリスト教だろうと新興宗教であろうと存在する価値はあると思っている。しかして、どの宗教においても他の宗教を悪とし迫害している記述があるところを見るとやはりこれらは人が作り上げたものなのだと感じざるおえず、純真に信仰している民の心が私にはやはり理解できそうになかった

「今日は何を読んでいるんだ?」

 穿った思想を持って文字を追っていた私の隣に食器洗いを終えたデイビットがいつの間か居て、突然掛かった声に驚いて煙草を取り落としそうになった。彼は、私の両足を折ってソファに所謂三角座りをして腹と腿の間に広げた書物に視線を落とし「あぁ。」とだけ声を漏らしてから、ローテーブルの上のコーヒーカップを手に取り口をつけた。

「君にはカフェオレを煎れた」
「ありがとう。吸ったら飲むよ」

 ソファから足を下ろしてテーブルに置いた硝子の灰皿に灰を落としてまた一度吸い、深呼吸する様にゆっくりと息を吹く。口許から離れていった紫煙は真っ直ぐに前方に飛び、動きを止めて霧散した。

「聖書か」
「ん?うん。あんまり面白くないしよく理解できないんだけどね」
「まあ、そうだろうな。君は日本人だ」
「日本人は信仰心が薄いって言いたいの?…その通りだけど。家が仏教ってだけで私自身は神様なんて信じてないしね。デイビットはクリスチャンなの?」
「いや。聖書は書物として読んだだけだな。生憎、人間が創り出した仮初の神には興味が無い」
「言うね」
「君の国の仏教にも宗派があり、毎に教えや慣しが違うはずだ。それこそが、教えに人の手が加わっている証拠だろう。…無理につまらない本を読み続ける必要はないと思うが」
「貴方が読んだ物なら、私も読みたい…ていう乙女心が分かんない?」
「分からないな。オレは乙女では無い」

 乙女なデイビットを一瞬にして想像してしまい、意図せず吹き出してしまった。怪訝そうに此方を見るデイビットに気がついても笑いが治らないほどにツボにハマってしまったようで、このままでは読書は出来ない。栞も無しに本を閉じソファの端に置いて、またフィルターを咥えようと右手を寄せると、不意に手を取られ指の間から煙草が抜き取られた。驚きつつも、彼が何をするのか見届けたくて彼の手を注視する。
 攫われた紙巻は、紫煙の尾をひきながら彼の口許へ寄せられて、薄い唇でルージュで汚れたフィルターを挟み僅かに吸って離される。唇の間から柔く吐き出された煙は形の良い鼻を掠めて空間に溶けていった。
 同じものを吸い、同じ動作を行った筈なのに、全てが私のそれとは違って見える。
 呆けて眺めていた私を横目に一瞥した後、灰皿を引き寄せ火種を揉み消して煙草の代わりに今度は私の肩を引き寄せて唇を奪う。確かめる様に軽く触れ、上唇を喰まれ浮いた歯の間に舌が入り込んできた。上顎に舌先が触れる度に頭の奥が痺れる感覚がする。鼻から「あ」とも「ん」ともとれない甘えた声が漏れ出して、閉じていた目蓋に力が入った。行き場を失った私の舌を軽く噛んでから離れていった彼の顔は何処か満足そうで、余裕のない私には嫌味に見える。

「…姦淫は罪なんじゃないの」
「さあ?オレには関係無い話だ」

 素知らぬ顔で脚を組みコーヒーカップを手にする彼に倣って、彼が私のために用意したカップを取る。すっかり冷めてしまっていて温くて味気ないカフェオレを一気に流し込んでから彼の肩に頭を預けると、彼はまた満足そうに笑った。

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