墜落の先に



 暖かい室内とコーヒーの香りが眠気を誘い、ソファで微睡んでいるとリビングの扉が開く音がして溶けきった意識が浮上する。
 気怠いながらも起き上がって其方を見遣れば、帰宅したらしいデイビットが、脱いだコートを手にリビングに入ってきていた。

「おかえり」

 返事の代わりに軽いキスを落とし、私の脇に腰掛ける彼の髪からは冬と雨の香りがして、季節は冬なのだと漸く気付いた。
 この部屋の中で1日を過ごす私には、季節感も時間の感覚も無い。ただ彼に与えられた服を着て、与えられた居心地の良い部屋で気づけば床に着いて眠っている。穴熊の様な生活だ。

「雨降ってたの?」
「大分気温が下がってきている。2、3日の内に雪になるだろう」

 デイビットは少しだけ嫌そうな顔で言う。
 指を組んで腹の辺りに乗せられていた彼の手を取ると、彼の言う通り肉も皮膚も外気に冷えていた。指はすらりと長かったが所々節があり私のそれよりひと回り大きく、男性らしい手をしている。
 余談だが、私は末端冷え性である。風呂上り以外は常に指先が冷えているのであるが、その指先から更に熱が奪われていく程に彼の手には体温が無い。比較的温かい掌で包みながら、温度が高い自身の頬にくっつけてやれば、彼はくすぐったそうに笑っていた。

「冷たい。手袋しなかったの?」
「そもそも持ってない。何か作業をするたびに外すのが面倒だ。」
「ふうん」
「家に帰ればお前が温めてくれるだろう」

 当然の様に放たれた科白に気恥ずかしさを感じ、触れるのを止めると彼の手は名残惜しそうにゆっくりと離れていった。掌はそのまま彼の腿を軽く叩く。顔に視線を上げると、デイビットは私を見ていた。
 彼のして欲しい事を感じ取った私は、髪の毛を抑える事もせず倒れ込む様に彼の腿に頭を預ける。些か硬くはあったが、私を見下ろす彼の顔が余りに美しかったから特に何も言わなかった。

「冬の匂いがする」
「季節は冬だ」
「冬嫌い?」
「季節に好きも嫌いもないだろう」
「あるよ。私は冬、好きだもの」

 私の頬に体温を取り戻した彼の指先がゆるりと滑る。感触が心地良くて瞳を閉じれば、目尻から目頭へ睫毛をなぞる様に瞼に触れ、一旦離れた手は、今度は髪の毛へ移動して頭の丸みに沿って往復を繰り返していた。

「意外だな。ベッドの中で寒い寒いと言いながらオレにしがみついてくるから、君は寒いのは嫌いなんだと思っていた」
「それも含めて好き。寒いと人恋寂しくなるし。でも冬が好きなのは雪景色が好きだからっていうのもあるよ。実家の庭に雪が沢山積もって、」

 実家の和室。猫間障子と窓ガラスを越して見える、雪の純白と南天の赤。薄暗い室内に相反する眩い程の銀世界がはっきりと脳裏に蘇る。記憶の中の私はそこから見える外の景色が好きで、窓のそばにストーブを置き、その脇に陣取って飼い猫を撫ぜている。居間には両親がいて、お茶を飲みながらテレビを見たり本を読んだり、各々が寛ぐ季節が冬であった。そう、懐かしい情景なのに、懐かしいはずなのに、両親の顔も声も何故か思い出せない。思い出せない…?

「あれ、」

 何故思い出せないのかすら分からず、声を漏らすも、突如前頭部に走った痛みで思考は止まり、何かが私の顔を上反らせる。何が起こったのかも分からないままに呆然としていると、眼前に見えた彼の瞳が酷く冷たい色を浮かばせているのがはっきりと見えた。
 痛みは、彼が私の前髪を思い切り掴んで引いたために起こったものだった。

「え、?なに、」
「誓約を覚えているか?」
「せい…やく…?」
「たった三つ、君に課した。そこには“過去の話をしない事”がある筈だが。何故君は生家の話など持ち出す?…上手く、巧くやれていたつもりだったが、思いの外早く綻びが出てしまった。調整しなくては」

 声は穏やかであるし口調もいつも通りなのに底から湧き上がる冷気を隠し切れていない。
 彼は怒っているのだ。
 掛けられた言葉に全く心当たりもなく、また理解も出来なかったが、私の頭の片隅では「不味い事をした」と声がしている。

「痛い、デイビット…離して」
「…君が幸せそうにオレの名前を呼ぶ様になって油断したのかもしれないな」
「なんのこと、」
「君は誓約を破ってしまった。他でもない魔術師との契約を、君は反故にしてしまったんだ。本来ならば君には呪いが齎されるが、その契約の相手はオレであるし、オレは君を愛している。君が傍にいてくれるのであれば、オレは許すつもりでいる」
「ごめ、ん、なさい。もう、しないから…。私、貴方の傍にいるからっ、」
「その言葉を聞けて良かったよ」

 訳も分からず、髪を掴む手を解いて欲しくて、怒りを鎮めて欲しくて、許して欲しくて謝罪を漏らした。私が一体何をしてしまったというのだろう。ただ季節の話をしていただけだ。実家の話をしようとしただけだ。過去の話をしない等と約束をしたのはいつの話であろうか。
 そうだ。
 あれはここに来て目が覚めた日。
 ソファに座る彼の姿を見て、恐怖した日。

『私も殺すの…?』
『?何故そう思う』
『6人も殺してる人間に誘拐されれば誰だってそう思う』
『死ぬより辛い目に合わせてやる、と言ったらどうする』

 そう、彼は私の友人達を殺して、
『柔らかく口の中で解けるような食感、と喜んでいただろう』
 私に、食べさせた男。
「あ、ああ…っ!!なんで、なんで…っ!?」

 何故、忘れてしまっていたのだろう。彼は私の恋人等ではない。私を拉致監禁した連続殺人犯だ。甘やかに口付けをして、身を寄せ合って眠りに落ち、暖かに食卓を囲んだこの男は。デイビット・ゼム・ヴォイドは。

「貴方は、」

 泪で揺らぐ視界に揺蕩う彼の姿は不鮮明であったが、彼が留飲を下げた表情を浮かべている事だけは理解ができた。
 泡を吹く様に口を開閉し、断片的な言葉と呼気を吐き出す私の額には彼の温かい掌が添えられている。それは徐々に顔の上部から下部へと滑り落ちていき、見開いた目蓋をゆっくりと、強制的におろす。

「なまえ」

 私の名前が呼ばれている。蕩ける温度で、穏やかな低音で。

「おやすみ」

 眠気など一切ない筈であるのに、彼が帰ってくる前の様な心地よい微睡がやってくる。
 最後に聞こえた響きは、実に甘美であった。
 暗転。

- 4 -


prev | list | next

top page