星は静かに水没する



星は静かに水没する

 私達の生活は、第三者から見ればつまらない物かも知れない。毎朝同じ時間に目覚め、朝食を摂る。朝食の後は本を読みながらコーヒーか紅茶、たまに緑茶を楽しみ、時間が来れば彼が用意した昼食を摂る。その後私は少しだけ眠って、起きればまた本を読む。夕食を摂り、本を読んだり映画を見たりして過ごし、シャワーを浴びて眠りにつく。
 外に出る必要も、出たいとも思わない毎日の繰り返しは、冷めた湯船の様に心地良かった。

 今日は夕食の後、彼が好きだと言ったフランス映画を見た。
 美しい女が、出会った男達の人生を狂わせる。しかし彼女は自身の愉悦の為に男達を壊していた訳ではなく、男達は過去に彼女の大切な人を間接的に苦しめ、最終的には死に追い込んだ人間達であった。彼女は復讐者だ。その美しく残酷な復讐劇は、最後の男の死と彼女の笑顔で幕を引く。

「この女はおまえに似ている。」
「どこが?プラチナブロンドのパリジェンヌと私、全然似てないよ。デイビットには私と違う世界が見えてるの?」
「その気丈な性格も似ているが、人種や見た目じゃない。他人の人生に絡まり、運命を捻じ曲げる性質がおまえにはある。」
「私にそんな性質が?」
「現にオレはおまえに狂わされてる。」

 ソファに腰掛け彼の肩に寄り掛かった姿勢を崩し、彼に顔を向けて冗談めかして言えば、長い指に顎を掬われ、それが当然であるかの様に唇を奪われる。顔が離れて行き、視線が交わると彼は至極真面目な顔をして私にキスをした唇で言った。

「…そんな恥ずかしい科白、良く真顔で言えるね。」
「…事実だからな。」

 私の発言が理解できないと云った顔をして眉を潜めた彼の肩を押し、背中を座面に追いやる。私は彼に跨って、彼が私にした様に顎を掬い、唇が触れそうな距離で吐息と共に呟く。どうやら映画の余韻に酔っているらしい。

「それなら、私無しでは生きられないって言うの?」
「オレはおまえが居なくては生きられない。」

 フ、と吐息ともつかない笑みを漏らしたのが先か。長い睫毛を伏せて息だけで笑う彼と目を細め、歯を見せて笑う私は対照的だ。
 顎にキスをして身を離そうとすると、彼の手に置いていた手が逃さないとばかりに拘束される。少し驚き唇を開く私はさぞ間抜けな事だろう。

「レディ、もっと君に触れていたいんだが。」
「こんなに毎日一緒にいて、毎晩二人きりで眠っているのにまだ足りないの?」
「足りないな。」
「そう?でも残念。私、この後予定があるの。」
「恋人との時間を放棄してまで優先されるべき予定なら、俺も文句は言わないさ。」
「湯船に浸かりたいの。シャワーはもう浴びたけど、少し冷えたから。」
「奇遇だな。オレも其処に用があるんだ。」

 唇の端を上げて得意気な表情を浮かべる顔から離れ、手首を返して緩められた彼の手から腕を引き抜いて立ち上がる。其れに倣って彼も立ち、つい先程まで私の手を掴んでいた掌を差し出して私の指が其処に置かれるのを待っていた。
 否応無しにバスルームへ連れて行くつもりであるその手を取り、濃青のヒールを脱ぎ捨てた。

 バスルームはいつも温かい。床暖房か、恐らくセントラルヒーティングが行き届いているのだろう。浴室というのはシャツを脱いだ瞬間に触れる冷気やタイルを踏むひやりとした感覚がつきものであると身体が覚えていたから、初めて此処に来た時は驚いた。
 鏡に向かってピアスを外している私の頸に指が触れる。下ろした髪を左右に分けて肩に流す背後の人物がこれから行う動作を予期し私は慌てて振り向き牽制する。

「待って待って待って。自分で脱げるし、」
「何か言ったか?」

 正面から背に向けて腕を回し抱き込められれば微々たる抵抗は虚しく、ジッパーは下ろされワンピースも肩から降りて足元に黒い円を描いた。肩を撫で鎖骨を滑る指の次の標的を私は知っていたから、態とらしく咳払いをして彼を睨めつければ彼もまた態とらしく肩を竦めて降参のポーズをとり後ろを向いた。さっさと下着を脱いでしまわなくては。

「先に入ってる。お湯入れてくれた?」
「おまえは空のバスタブを見た事があったか?」
「無い。」
「早く行け。おまえと同じで、オレも肌を見られたく無いんだ。」
「何それ。これから嫌って程見られるのに。」

 彼が何か言う前にスモークガラスのドアに滑り込み、緩やかに閉じていく様を見届けてからレインシャワーのコックを捻る。温かな雨が頭の天辺から素肌を濡らし、水滴は音も無く排水溝へと飲まれていった。
 浴室に設えられたバスタブはイギリスでは珍しい物だ。もっと言えば浴室と脱衣所が分かれていると云うのもこの国では珍しい。この大きな船形のバスタブを収める広い浴室は彼が特注したのではないだろうか。
 よく磨かれた銀色の蛇口から注がれた静かな水面に、それを覗き込む私が映る。指を差し込めば姿は溶けて、私の形をした何かが漂う。
 もう少しこうしていたかったが、このままでは裸のまま遊んでいる私を彼が目にする事になるのだからそうなる前に湯船の縁を跨ぎ人肌以上の湯に身を沈めた。

「大人しく浸かっているな。」
「…惜しかったね。もう少し早ければ裸でしゃがんで水遊びする成人女性が見られたのに。」
「それは残念だ。」

 薄靄のガラス戸が僅かに開くと共に、まろやかな湯気を脱衣所の空気が目に見えない隔たりとなって裂き、衣服を全て取り払った彼が姿を現した。彼がコックを捻ると私の時と同じように流れ出た湯は、セットした金の髪を崩しながら降下して筋肉の窪みを滑り彼の裸体を隈なく濡らす。張りのある肌が弾いた水滴が球になって落下しタイルを打った。
 淵に頭を置いて横目で様子を窺えば彼は視線に気づいたのか、シャワーを止めて顔を隠した髪の毛を掻き上げ、揶揄う様に薄く笑う。

「珍しいか?」
「さっき言ったでしょ。嫌って程見られるって。」

 ハリウッド俳優よりも見事な裸体を惜しみなく晒しながら此方に足を向けた彼が入れる様、蛇口側に寄りスペースを開けた。私が二人入ったとしても十分な広さがあるこの湯船だが、彼が浸かると途端に狭くなる。浴室に響く軽やかな水の音と、水温とは違う肌の温もりが心地良い。厚く滑らかな胸板に背と頭を預け、立ち昇る湯気の行方を瞳で追う。

「ワイン持って来るの忘れた。」
「風呂で酒を飲むなと言っただろう。」
「だって、映画で見たんだもの。たっぷりお湯と泡の入ったバスタブの中でおっきなワイングラスを傾けるの。」
「確かに情緒はあるが入浴中の飲酒は不整脈を招く。湯船で死にたくはないだろう。」
「オフィーリアって素敵じゃない?」
「死体はただの抜殻だ。飲み干したワインボトルに執着などしないだろう。」
「…貴方の生死観ってよく分からない。」
「生は不平等であるが誰にでも死は平等に訪れる、というのがオレの持論だがこれは今すべき話じゃない。」

 ちゃぷ。可愛らしい音と共に湯から引き上げられた手で探り当てた、髪に埋もれた耳に吐息が触れる。濃度のある深い艶めいた吐息だ。背を少しだけ浮かせれば、指は湯の中へは戻らず乳房を包むカーテンとなって油絵の様に張り付く髪を退かして色づいた頂きが顕になる。彼もそれを見ていると思うと羞恥が湧いたが、脇を潜った彼の手が僅かに上下する腹だとか足の付け根だとかを行き来する間、私はそれを手で隠したり彼から離れたりはしなかった。

「何処も彼処も柔らかいな。」
「ふーん…そんな事言うんだ。毎日三食おいしいご飯を食べさせて肥え太らせてるのは貴方でしょ。」
「おまえが肥えていると言いたい訳じゃない。女性であるおまえの脂肪量が、男であるオレよりも多く感触が柔らかいのは当然であって、」
「良い。分かってて言った。」

 私が不機嫌そうな声で言ったからか、少し焦った様に捲し立てる彼が面白いやら可哀想やらで科白を遮ってやると彼は黙って指の往復を再開した。私は彼の足の間に収まっていたから手を伸ばせば彼の腿に触れられる訳で、彼が綺麗に整えてくれた爪で柔く引っ掻けば、彼はひくりと身体を捩り私の肌から手を離す。指の動きは止めず首を捻って横目で見遣れば、彼は唸る様な声を上げて頬を赤らめていた。

「え…。」
「…なんだ。」
「いや…女性の扱いに慣れてると思ってたから。その反応は意外。かわいい。」
「オレを何だと思ってるんだ?おまえを目の前にすると緊張で体温が下がる男だぞ。」
「嘘ならもっと詩的なものにしてよ。体温下がるって意味分かんない。」
「詩は詩人に頼め。…そろそろ出よう。逆上せそうだ。」

 指で腹をつつかれ、彼を揶揄うのを中断して立ち上がると彼もそれに倣い立ち上がり、二人で浴室を後にする。
 純白の柔らかいタオルに子供の様に包まれて、身体中隅々まで水分を拭き取られた後で彼が身体を拭いている間に下着と夜着を纏いドライヤーのスイッチを入れ全体的に風を当てる。手櫛を通して乾かしながら鏡越しに背後を窺うと、身支度を済ませた彼が床を拭いたりタオルをランドリーに入れたりしてちらちらと動いているのが見えた。
髪が全体的に乾いたところでドライヤーのスイッチを切りブラシを手に取ったと同時に腹に腕が巻きついて引き寄せられ、正面を見れば、中の私はデイビットに捕まり少し困った顔をして彼を見ていた。

「もう終わったのか?」
「…ねえ、髪梳かすから離れてくれない?貴方も乾かさないと風邪ひくよ。」
「ブラシを。」

 差し出された掌に渋々柄を触れさせるとブラシはするりと抜き取られ、片方の手で頭を押さえつつもう片方の手は撫でる様にブラシを這わせる。他人に髪を触られる感覚とヘアオイルの華やかな香りが齎す安心感は昼下がりの太陽に似ていて眠気を誘った。
 彼はブラシを置き私の頭にキスをして、部屋に戻る様に言いドライヤーをかけ始める。今度は私が髪を乾かしてあげようとも思ったが折角身体が暖まったのにフラフラして冷えてしまっては勿体無いので、歯を磨き、言う通りに脱衣所を出た。


「オレはおまえ無しでは生きられないと言ったが。」

 消灯を終え、冷たいベッドで温かい身体を寄せ合って微睡を甘受していると、不意にデイビットが静かに声を上げた。

「ん…お風呂に入る前の話?」

 半ば睡眠に入っており脳に靄が掛かった様な、意識もはっきりしない中で返した言葉は舌っ足らずで情けない。彼の言葉も、髪を撫で付ける手も全ては夢の中の出来事なのかもしれない。

「うん、言ってた…。」
「おまえもオレ無しでは生きられないんだよ。」

 父親が子供に寝物語を聞かせる様な、安らかで柔らかい声は私に何を伝えたのだろう。瞼が重くて開かない。眠くて頭が働かない。多分何時もみたいに愛を囁いてくれているのだろう。

- 6 -


prev | list | next

top page