花の悪食



花の悪食

 珍しくデイビットが起こしに来る前に目が覚めた。隣に彼は居なかったから、ベッドを抜け出して少し冷えたフローリングは裸足の足にぺたりと張り付き音を立てる。
 ダイニングのドアは開いており、さんに手をかけて覗き込めばデイビットの姿が見えた。食卓テーブルに本を広げ、肘をついて活字を追う横顔はやはり精悍である。
 体重をかけたさんがギシと音を立て、その音に気付いた彼は微笑み此方を見た。

「起きたのか。」
「おはよう。」

 彼は立ち上がりキッチンに入ろうとする。私はそれを制止し座っている様に促して、代わりにキッチンへ入り2人分のコーヒーを入れて彼の向かいに腰掛けた。

「ありがとう。」
「どういたしまして。」
「今日は早いな。」
「何故か目が覚めたの。」
「朝食の支度も終わらないうちに起きてくるのは初めてだ。」
「今日は私が朝食を作ろうか?」
「…作れるのか?」
「…ふざけてる?材料があれば何でも作れるんだけど。」

 私のかわいい提案を眉を上げて揶揄った彼に、意趣返しのつもりで厳しく言えば彼は手元から顔を上げ笑みを見せる。

「イギリス人はジョークが好きなんだ。そう怒るな。」
「日本人は冗談通じないの。今回は怒ってないけどね。」

 私も笑みを見せ、彼の表情を真似ると彼は安心したのかまた手元に視線を戻した。
 湯気のたつコーヒーを飲み下して立ち上がり、彼のそばに寄って頬に手を添えれば動きに倣って此方に顔を向けたから、薄い唇に口づけをしてテーブルを片付ける様に言う。

「本じゃない。資料だ。」
「本でしょ?」
「資料だ。」
「本よ。」

 無駄な話をしながら掬われた髪の毛に視線を向けながら顔を離して彼の肩を軽く叩けば、観念して「資料」を片付け始める。私は、ダイニングに置いていたスリッパに足を通して、シャツの袖をまくりながらキッチンへと向かった。

 実を言うと、この部屋のキッチンを使うのは初めてである。
 お茶を入れたり冷蔵庫を開ける事はあったが、食事は全て彼が用意してくれていたから料理をする必要が無かったのだ。包丁や調味料は見える場所にあったが、冷蔵が必要な物以外の食材が見つけられない。
 かと言って啖呵をきった手前彼の手を借りるわけにはいかない。
 取り敢えず冷蔵庫から取り出した卵と牛乳、砂糖を混ぜて溶液を作り、ベーコンと卵を焼いてからサラダとスープを作った。副菜に汁物は出来たが、肝心のバゲットが見つからないのでメインが作れない。戸棚を確認してみても見当たらず、観念して彼の名を呼んだ。

「デイビット。」
「なんだ。」
「うわっ!」

 ダイニングにいると思っていた彼の声が間近に聞こえて思わず大きな声が出た。彼は私がパンを探して右往左往する姿を見ていた様だ。

「吃驚した…見てたの?」
「何をお探しかな?」
「パン。」
「ああ…バゲットは此処だ。」

 彼が手を入れたのは冷蔵庫の上の籠で、引き抜いた手にはハーフのバゲットが収まっていた。冷蔵庫は背が高く、その上は私の死角になる。隠していたのかと睨めれば彼は私の頭に掌を乗せアイランドへ案内した。

「朝食くらい作れるんじゃなかったか?」
「材料があれば、とも言った気がしたけど。なんで冷蔵庫の上にパンがあるの?」
「さあ?」

 彼が、黒いシャツのカフスを外して捲り、立て掛けてあった木製のまな板とブレッドナイフを取って紙袋から出したバゲットを乗せ刃を立て始めたあたりで気が付いた。

「私が作るってば!」
「作ってあるじゃないか。」
「フレンチトーストがメインでしょ?手柄を横取りしないでよ。」
「これは失礼。」

 ナイフを置き場所を譲った彼は、代わりに収まった私を腕組みして見ている。視線を気にしながらナイフを手に取りバゲットに押し付けると、パン専用のナイフである筈なのに何故か歯が通らずパン屑がまな板に飛び散るばかりで思わず舌打ちをしてしまった。

「ねえ、このナイフ研いでないの?」
「手入れは充分している。切り方の問題だ。」

 ナイフを握る私の手に彼の手が添えられバゲットに乗った手も握られる。急な接触に驚く間も無く、ナイフは滑り簡単に一枚を切り離す。

「このナイフは押す時に力を入れるんだ。手前に引く時に断面に接触させると切り口が乱れる。」
「うん。」
「そう、上手だ。」

 実のところ、髪に触れる吐息の感触と彼の低い声を意識してしまいあまり手に力が入っていないのだが、バゲットはするすると切れていき、いつの間にか6枚の薄切りがまな板に横になっていた。
 彼の手が離れた後、半ば投げる様にシンクにナイフを置き、バゲットを溶液に浸してからオリーブオイルをひいた温めたフライパンに並べていく。湯気と共に甘く香ばしい香りが漂い、思わず笑みが溢れた。

「これは運んでおこう。」
「お願い。できればそのまま座っててくれたら嬉しい。」
「仰せのままに。」

 カトラリーと副菜やスープ、カットフルーツが載ったトレーを持ってキッチンを出た彼を見届けている間にも、溶液が蒸発し気味の良い音が耳に届いていた。裏返して反対側にも焼き目をつけて皿に盛り付け粉砂糖を振り、蜂蜜とメープルシロップを冷蔵庫から取り出してトレーに載せテーブルへ向かう。

「どう?」
「おまえが食事を用意してくれるとは…夢のようだな。」
「失礼な。言ってくれたら作るのに、気付いたら貴方が全部用意してるじゃない。」
「おまえの手が荒れるのは困る。」
「あら、優しいのね。冷めるから早く食べよう。」

 食事の最中、彼は終始楽しそうにしていた。
 「どう?」なんて得意げに言っては見たが、こんな物は子供にだって用意出来る簡単な物で、彼が用意している食事の方が明かに手が込んでいるし味も良い。
 食器の片付けもやると言ったのに、手が荒れるの一点張りで断られた私は、キッチンの入り口でコーヒーマグに口をつけながらアイランドで水仕事をする彼を眺めていた。

「ねえ、なんで食事を作ってくれるの?分担でも良いじゃない。」
「理由は話した筈だが。」
「真面目に答えてよ。」
「オレが作った物をおまえは嬉しそうに食べるだろう。その顔が見たいから、だな。」
「ふーん…。」
「もう真面目に答えろとは言わないのか?」
「その気持ちが分かったから納得してあげる事にした。貴方も嬉しそうな顔してたし。」
「実際に嬉しかった。」

 此方を見て穏やかに笑う彼は子供の様に素直に「嬉しい」と言っていた。彼が私の身の回りの事をなんでもしてくれる理由が分かったし、私が喜んでいる姿を見たいと言った彼の言葉も本心に聞こえる。

 穏やかで緩やかに過ぎ去る日常はこの男によって作り上げられた物だとも気付かずに、この時の私は幸せなんてものを感じてコーヒーを啜っていた。

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