満ちない夢のまま
起床後にリビングへ降りると、ガンナーが古い柱時計を抱きしめて舌を這わせている現場に遭遇した。「私はまだ夢の中に居るのではないか」と疑う程にその光景は異様であったが、朝日が痛いくらいに瞳を刺して頭痛がしていたので現実だと受け入れるしかない。
私の存在に気付いていない彼に近付き、気は進まないながらも声を掛けた。
「あー…ガンナー?」
「んー?まだ物足りないの?マスターって意外と…。」
「…大丈夫?」
依然として柱時計に熱いキスをし続ける彼の肩に手を掛けて此方を向かせると、涼しげで知性を感じさせる瞳は潤みふっくらした頬は薄桃色に染まっていて、見せた表情は女が情事の際にする甘えた顔そのものであった。そしてしなだれかかった彼の身体を受け止めきれず、私の身体は絨毯が引かれた床の上に投げ出された。
痛い、と声を上げた私に覆いかぶさったガンナーは、夜着の裾に手を入れて冷えた腿を執拗に撫で回しながら首筋に何度も吸い付く。
様子のおかしい彼の行動は催淫の呪いにかかった対象に酷似している、と一応魔術師であるから気付く事が出来た。私は降り注ぐキスの雨を受け続けながら、敵陣営の攻撃を疑ったが、視線が捕らえた絨毯の上のとある物を見て合点がいってしまった。
「ガンナー!!ペヨーテを使ったのね!!」
ペヨーテとは、メキシコ原産のサボテン科の植物である。はじめ様々なフェネチルアミン系アルカロイドを含むこの植物は、ネイティブアメリカンを中心に治療薬として使用されているが、これを煎じて飲んだり食したりする事により幻覚などの精神作用を得ることが出来る為、開拓時代のアメリカでは麻薬の様に使用されていた。
ガンナーは生前に使用したことがあったのだろう。何かの拍子に私の薬品棚にあるペヨーテを見つけ、私が眠った後に楽しんだのだ。ペヨーテが見せる幻覚は非常に強力で、使用してハイになった人間が自分自身の皮膚を縫い付けたという事例もある程に危険であるが、サーヴァントの身には効きが悪かったのかこの程度で済んでいる様だ。
それにしても、ガンナーにこんな一面があったとは。いつも陽気で飄々としては見えるが、その実冷静で冷酷な男であるという事は、マスターとして彼を使役している私が一番良く知っている。そんな彼がたかが草に翻弄される様を見ていると情けないやら残念やらで溜息が溢れてしまう。
未だ私に伸し掛かり身体を弄り続けるガンナーの耳元に唇を寄せ小ぶりな耳殻に息を吹きかけて昏倒の呪い(まじない)を施せば、彼は糸が切れた様にピクリとも動かなくなった。
取り敢えずは大人しくなったが脱力した彼の身体は非常に重く、苦労しながらもなんとか下から抜け出して彼によって乱された着衣を着替える為、ガンナーを床に転がしたまま自室へ引き返した。
身支度をした後は、リビングに降りる気にもなれず自室でお茶を飲みながら本を読んで過ごした。私とガンナーは常に一緒にいるわけではないので彼がいない空間はただの日常に過ぎない。そのガンナーが階下でラリった上に気を失っている事以外は。
静か魔術書を読み進め、正午を知らせる柱時計の鐘が聞こえてきた頃、自室のドアをノックする者があった。訪れる者など一人しかいないので文字を辿る視線はそのままに入室を促すと、ブーツを履いた聴き慣れた足音がそろりと近付いて来た。
「おはよう、マスター。」
「…おはようガンナー。」
読書の時だけ着用する眼鏡越しに彼を見遣れば、先程の蕩けきった表情から一転しなんとも気不味そうに私の顔色を窺っていた。視線をうろうろと彷徨わせて立ったままの彼に座るよう声を掛ければ力なく笑って、私が座っている長椅子の傍に腰を下ろした。
「僕、床で眠ってたみたいなんだけど…。」
「私が眠らせた。」
「あー…そっか。うん、分かった。それで、僕…。ごめん、マスター。」
「どうして謝るの?私の薬品棚からペヨーテをくすねた事?ラリって私を押し倒して好き勝手に身体を触った事?…それとも柱時計を唾液塗れにした事かな?」
わざと責めるように言うと、彼は青の瞳を大きく見開いた後で金色の頭を抱えて唸る。暫くそうしていたが、なんだか可哀想だし自分の行いを反省している様だったので、眼鏡を外して傍に置き、彼の腿に手を添えて顔を上げさせた。
「聞きたい事があるんだけど、良い?」
「今の僕が君の頼みを断れると思う?何でも聞いて。」
「ペヨーテを使うとどんな幻覚が見えるの?」
その質問は彼の予想の範疇を超えていたのだろう。薄い唇から息を吹き出して笑い、腿に置かれた私の手を取り視線を合わせてとんでもない事を言い出した。
「マスターもやってみたらいいよ。興味があったから持ってたんじゃないの?」
「…魔術で使うからストックしてただけ。あれはトリップする為だけのものじゃないのよ。」
「ちぇ。前から思ってたけど、マスターって本当に“いい子”だよね。」
「…ふうん?」
「…分かった。分かったからそんな目で見ないでよ。と言ってもね、そんなに面白い物は見られなかったんだ。前に使った時より刺激がなかった。生きてた時は凄いのが見られたんだよ?」
曰く、初期段階は頭がぼうっとする。
「煙草を吸いすぎると目眩がしてくるじゃない?あれを100倍強くした感覚かな。歪んだ風景の中に蠢く蛆虫やら蝶々やらが見え始めるんだ。其れ等は目を閉じても消えてくれやしない。僕の脳にタールみたいにべったり張り付いてるんだから。」
中期段階に入ると目眩は治り、現実と見まごうリアルな幻覚が見え始める。
「僕はキッチンに座り込んでた。僕が草っ端を口に入れる前に見てた光景だよ。でも其処には沢山の人間が居て、酒場みたいに賑わってた。ファンダンゴすら聴こえてくるんだ。生きてた頃に通ってた酒場の主人も居たし気の良い鉄屋の男も居た。そいつらは僕が立ち上がると一斉にこっちを見て“ビリー”と僕を呼ぶんだ。懐かしくて良い気分になった僕は、一番近くにいた女の子の手を取って一緒に踊っていたんだけど、突然曲が止まって辺りを見回したら、僕は真っ暗なキッチンに立ち尽くしてたんだ。」
最終段階に入ると、ほろ酔いの様な気分になる。
「立ち尽くす僕の前にマスターが立ってた。無表情で。声を掛けたら笑ってくれたけどね。マスターは僕の瞳をじっと見ながら煽るみたいに着てた服を一枚ずつ脱いでみせた。僕は止めなかった。初心な君が大胆に服を脱ぎ捨てるのは見ててとっても“楽しかった”から。何も覆う物が無くなった身体を僕に擦り寄せて、優しい声でウィリアムと呼ぶから、僕は堪らなくなって夢中で君に口付けたんだ。ま、柱時計だったんだけどね。それで気付いたら床にキスしてた。君が来たのが何と無く分かったから此処に来たんだ。…満足した?」
ガンナーが語った内容は非常に興味深かった。幻覚にも段階があり、見る内容は自身の記憶や経験に基づく物らしい。という事は見る内容は使用者によって変化するという事になる。自身で使う気はさらさら無いけれど。
「私の裸を見たのね。」
「黒子があったよ。胸元と脇腹に。」
「残念だけど本当の私にはもっと黒子があるのよ。」
「へえ…いつか見せてもらいたいね。」
予想していた言葉が返ってきて私は眉を下げた。皮肉屋で意地悪な彼は私を困らせて楽しむきらいがある。主従で言えば彼は私に反抗的な態度を見せる事は無いしどちらかと言えば私が優位に立っているが、日常的には彼のペースに乗せられてばかりだ。魔力供給と称したキスもそうだし、何の意味があるのか分からない触れ合いもそう。まるで男女の仲にあるかの様に私に接するのだ。
「ペヨーテは禁止。というか私の薬品棚からトリップ出来そうな物を持ってくるは禁止。お酒も煙草も好きにしていいけど、意識が飛んでしまうのは困る。」
「分かった。誓うよ。」
「じゃあお昼ご飯にしましょうか。私、オムライスが食べたい。」
今度は彼が眉を下げる番だ。彼の手を掴んで立ち上がれば、彼も観念した様で溜息混じりに笑って同じく立ち上がる。私達が向かう先はキッチンである。
「食後のお茶まで用意したんだから、もう許してくれる?」
真白で滑らかなボーンチャイナのティーポットから琥珀が注がれた。十分な量が溜まった所で手を翳せば、注ぐのを止めテーブルの上にポットを置き私の隣に腰掛ける。
私は彼に対して怒りを感じていたわけでは無い。ただ少し落胆していただけだ。理性的に物事を判断できる男だと思っていた分、軽率な面を見て軽く失望したというだけの話。彼は約束すると言っても破るが、誓うと言ったら必ず守る。私に彼の令呪が宿っている内は二度と薬物に手を出す事はないだろう。
「怒ってないよ。だから私の顔色を窺うのは止めて。貴方らしく無い。」
香り立つティーカップを傾けて紅茶を口にしながら言えば、彼は安堵した様にまた笑った。
大好きなアッサムを2、3口飲んだ辺りで、気分が高揚している事に気が付く。まるで、度数の高い酒を一気に煽ったときの様な目眩と浮遊感に椅子から転がり落ちそうになったが、傍にいたガンナーが身体を受け止めてくれたので私の腰は椅子に留まることが出来ている。彼は私の肩を抱き、耳に口づけをするとその唇で信じられ無い言葉を吐いたのだ。
「百聞は一見にしかず、でしょ?楽しんで、マスター。」
肩を抱かれたまま、ぐらつきながら崩壊する世界の中にいつかに見た道路端に置き去りにされた猫の死骸を見た。烏や虫に食い破られ腐敗した身体には無数の蛆が湧き出し、死に飲まれた双眸は虚空を眺めている。そして、私を覗き込むガンナーの顔。自宅の屋根から飛び去る沢山の鳩達。羽音までもしっかりと聴こえてきた。
瞳を閉じても見え続けるまやかしに辟易した頃、強い衝撃と鋭い痛みが頬に走り私は瞼を持ち上げた。其処にいたのは怒りを顕にした祖母だった。
「何故こんなにも簡単な事が出来ないの。」
ダイニングに居た筈であるのに、いつの間にか私は工房の床の上に横たわっていた。言われた通りに起き上がる為床に付いた手は私の物にしては小さく、服装もまた幼い。
「ごめんなさい、師匠。」
そう紡いだ声も僅かに高く聞こえた。私の言葉を聞いても、祖母は怒りを収めてはくれない。髪の毛を掴み無理矢理に私を起き上がらせ、作業台に並べられた箱の前に私の頭を突き出して厳しい声音で私を責め続けた。
「こんな事では聖杯戦争など夢のまた夢です。父と同じくお前まで私の期待を裏切るつもりですか。」
「出来ないの…!分からないの!」
「泣き言は聞き飽きました。出来ないのでは無くやるのです。」
「痛い!…本当に分からないの!魔術師になんてなれないの!」
祖母は掴んでいた髪の毛を引き、もう一度掌を私の頬に強く叩きつけた。久しく感じなかったこの頬の痛みに涙が溢れる。これは私の幼き日の再現だ。学校が終われば深夜までこの工房に閉じ込められ、課題を終えない限り眠る事は許されない。祖母による折檻と暴力は私の日常であった。けれども期待に沿った成果を上げた時は両親よりも優しく私を抱きしめ、私を「宝物」だと言い愛してくれた。祖母は私の全てだったのだ。
「お前は大師匠の血を継いでいるのです。お前の代で必ず聖杯を手にしなさい。そして名字の名を魔術師の大家として轟かせるのです。」
「出来ないよ…私、生き残れない。アサシンに殺されかけたの。私の令呪を舌ごと切り取って嬲り殺すと言われたの。嫌だよ、私死にたく無いよ。」
溢れる泣き言に祖母は憤慨するだろう。また頬を打たれる覚悟で目を固く閉じれば、予想していた衝撃は来なかった。代わりに頬に触れたのはごわついた革手袋の掌であった。
「マスターは死なない。僕が守るって、一番初めに会った時にそう言っただろ?」
優しい手と声はガンナーのものだ。彼は、魔術が成功したときの祖母よりも私を慈しみ慰めてくれる。ぼんやりと彼を見つめる私に向き合い、彼は頬と髪を何度も撫でた。
「ねえ、僕のこと好き?」
「好きよ。何度も私を助けてくれたし、貴方と居ると青春が戻ってきた気がする。」
「僕もマスターの事が好きだよ。主としても、友人としても。女の子としてもね。」
美しい海の色の瞳に戸惑った顔をした私が映る。青色は近づきすぎてぼやけ、唇にはいつもの柔らかい感触が齎された。何度も交わした口づけであるが、彼のキスでこんなにも安心した事は無かった。
「愛してる、名前。」
「私は…分からないよ。」
「マスター?」
「分からないの。貴方を召喚した事が正しかったのか。聖杯を求める意味も。何も分からない。分からなくなってしまった。」
「マスター、しっかり。もう切れる頃だろ?」
身体が揺さぶられ、白昼夢から覚めた私が見たのはやはりガンナーだ。夢の中の彼も目の前にいる彼も姿形は変わらないのにどこか違って見えるのは、口付けて愛を囁いた彼は私の理想だったからだろうか。
「少量だったからすぐに覚めると思ってたけど、あんまり良い夢は見られなかったみたいだね。」
「…楽しい思い出なんてなかったから。よくも盛ったわね。許さないから。」
「ごめんね。でもペヨーテは脳機能に障害を残したりはしないから安心してよ。得難い経験ができたと思ってさ。」
力無く睨みつける私をそっと抱きしめた彼は吐息だけで笑って言う。無責任な物言いに腹が立たない訳では無かったが、温もりに免じて今は何も言わないでおいた。
「私、何か言ってた?」
「泣きながら謝ったり、僕の事好きだって言ってた。」
「そう…。」
「僕もマスターの事好きだよ。可愛いし、ちょっと鈍臭くて目が離せない。でもね、僕はサーヴァントだからずっと君のそばにいる事は出来ないんだ。聖杯に願えば叶うかもしれないけど、ダメだ。君に必要なのはこの時代に生きる人間との関わりだから。…僕が必ず守るから、君はシワシワになるまで生きなくちゃいけない。喜びも悲しみも、温もりも冷たさも感じられる生を謳歌して、長い人生の中でたまに僕を思い出してくれたら嬉しいかな。」
「…貴方以上に私を見て、思ってくれる人はこの世にはいないと思う。貴方の声も、香りも、瞳の色も何もかもが私の人生に刻み込まれてる。きっと他人が笑っているのを見る度に貴方の笑顔を思い出すし、街で煙草の香りが鼻を掠める度に人混みの中に貴方を探すわ。」
彼は何も答えなかった。けれども私の背に回した腕に力を込め、首筋に強く押し当てられた顔が彼の答えを示している。
人生の中で一番愛おしく手放したくないと思った人間が死人だなんて、私はどこまで哀れなんだろう。