Sign of Midnight



 夜闇に満ちた温かな室内。常夜灯すらも消灯し、一寸先すらもこの目には見えない。上掛けの外に投げ出された四肢にはエアコンから排出される生温い風が吹き付け、産毛が僅かに揺れた感覚がした。
 自堕落な生活を送っていると昼夜が逆転して、真夜中に目が覚めてしまう。勿論私室に居るのは私だけの筈であるが、この部屋の中には確かにもう一つの気配があった。

「誰…?」

 乾いた喉から出てきたのは、頼りないかすれた声であった。それでも静寂に包まれた室内には良く通って、気配の持ち主にもしっかりと聞こえた筈だ。
 “其れ”からの返答は無い。ただ黙って息を潜め、勘違いだと思い込んだ私がまた眠りにつくのを待っている。

「誰なの」

 一応、一端の魔術師である私はその気配を勘違いだと思うことはせず、もう一度、今度ははっきりと問うた。空気が揺らいでいる。
 その場をやり過ごす事が困難だと悟ったのか、“其れ”は一度深く息を吐き、ゆっくりと此方へ足を進め始める。聞こえるのはハイヒールの音。重く響く靴底は、遂に枕元までやってきて、読書灯のスイッチを入れた。
 薄黄色の柔らかい灯りに濡れた白い顔。照明を反射して煌めくのは、猫の様な細長い瞳孔を抱えた黄金の瞳。血色の悪い唇で私を呼ぶのは、我がサーヴァントであるアサシンである。

「起こしてしまったかしら」

 アサシン基カーミラは、銀糸の厚い前髪に隠れた眉尻を下げ、切れた瞼を細くしてぽそりと呟いた。ぼんやりと顔(かんばせ)を眺めている私の頬に触れた彼女の指は、氷の様に冷たい。

「いつ入ってきたの?」
「ほんの10分程前に。良く眠っていると思ったのだけど、こんなに早く気づかれてしまうなんて」
「ビリーかと思ったけど、アレはもっと気配を消すのが上手だから」

 カーミラは、上体を起こして髪の毛を掻き乱す私の傍に腰掛け、その行為を軽く諫めた。彼女は私を美しく保ちたがる。自暴自棄になって部屋の外へ出なくなった私を風呂に入れ、スキンケアや髪の手入れ、稀に服装に口を出したりと、色々と世話を焼いた。
 彼女は、私が一番初めに召喚したサーヴァントである。青い光の中から現れた吸血鬼は、私の顔を見て「せいぜい私の糧になると良いわ。」と言って見せた。高慢で高圧的な物言いは、バートリの名に相応しい貴族としての振る舞いだと思うと同時に関わりたく無いタイプであると感じた。どうせ私は彼女を従えて戦いに出る事は無いし、パスが繋がってさえいれば、体内で生成される潤沢な魔力は自動的に彼女へ廻るのであるから今後は顔を合わせなければ良い、と食事をあまり摂らないからろくに回らない頭で考えていた。
 けれども私と彼女は頻繁に顔を合わせる事になる。私室に引き籠る私を、彼女が毎日の様に訪れたからだ。

「紅茶とケーキを持ってきたわ」
「この軟膏を寝る前に必ず塗りなさい」
「貴方、食事を摂っていないのね。だからそんなに顔が青白いのよ」

 小言と共に甲斐甲斐しく運ばれる物品を消化するまで、彼女は私の部屋を出て行こうとはしないから渋々使ってみせると、その氷の様に冷ややかな顔に温もりを宿して嬉しそうに笑うのだ。
 ガウェインも孔明も私を気遣うが、こうも私に関わろうとするのは4番目に召喚したアーチャー ビリーザキッドと彼女だけだ。

「何か問題でもあった?」

 ビリーは時間など関係なく私の部屋にくるけれど、こんな真夜中に彼女が来た事は無かったので、司令室からの言伝でも持ってきたのかと思い問う。カーミラは、たっぷりと睫毛が乗った瞼を伏せて緩く首を振り、淡い色合いの唇を僅かに動かして言った。

「何も問題はないの。ただ貴女の傍に来たかっただけ」

 溢れた言葉に驚いた。彼女がこんな台詞を吐くのを聞いた事が無かったからだ。常に気高く、隙を見せず、主従など無いかの様な素振りを見せていた彼女が、何の理由も無く私の傍に来たかっただけなどと。カーミラは、みっともなく口を開けて茫然とする私に不愉快そうな表情を向けている。

「何よ、その顔は」
「何か変なものでも食べた?薬か呪いの類をレイシフトで貰ってきたとか…?」
「失礼ね。至って正常よ」
「だって…そんな、甘えるみたいに」
「そうよ、甘えに来たの。最近はあのガンマンに貴女の世話を取られてばかりだから」

 うっとりと笑み立ち上がったかと思うと、カーミラはキャビネットから小箱を取り出して私の元へと戻ってきた。彼女の爪の色に似たターコイズが中心に埋め込まれた派手な箱は、いつかにガウェインが贈ってくれた化粧箱である。中にはカーミラが揃えた化粧道具がいっぱいに詰め込まれているのだが、何故今この箱を取り出したのだろうか。訝しみ、視線を向けると彼女はまた微笑んだ。

「お化粧」
「するの?今から?」
「本当は日が高い内が良いのだけれど貴女は眠っているでしょう。丁度目が覚めたのだから遊んで頂戴」

 化粧をされる分には問題無いのだが、後々落とすのが面倒臭い。けれども、断ったとして潔く引き下がりそうにも無いので渋々了承してベッドの端に足を下ろし顔を彼女へ向けた。彼女はデスクの椅子を持ってきて腰掛け、化粧箱の中から幾つかのコスメを取り出して私の横に並べ始める。眠る前に化粧水と乳液を使用した事を伝えると、か細い指に化粧下地をとり、私の顔に点々と置いて軽く伸ばした。

「肌が荒れているから白粉はやめておくわ」
「悪かったね」
「食事をしないからよ。きちんと三食食べなさい。あのガンマンが持って来ている筈でしょう」
「まあ、そうだけど…」
「貴女は食べ物の好き嫌いが多すぎる。私も生前は偏食だったけど、貴女ほどじゃ無かったわ。」

 小言を漏らしながらも彼女の手は止まらず、長い爪が張り付いた指で器用にアイシャドウを塗り進めている。化粧をするのは本当に久しぶりだ。カーミラが道具を持って来た日に、こうやって化粧を施されたきり一度も化粧箱は開けていない。

「睫毛を上げるから上を向いて頂戴」

 言われるが儘に眼球を上に持ち上げると、金のビューラーが瞼に沿って当てがわれ、3回程段階を置いて睫毛を挟み込む。冷たい金属が離れていき数回瞬きをすると、瞼がいつもより軽く感じた。

「薔薇色の頬は貴女に似合わないから、コーラルにしましょう」

 パレットの中の珊瑚をチークブラシにとり、自身の親指の付け根で色を調整してから私の頬に毛を滑らせる。真白な彼女の手が薄く色付いていて、陶器製の人形の様だ。
 簡易的にではあるが化粧が粗方終わり、彼女は口紅を残して他の道具を化粧箱へ仕舞う。手にした紅は金の装飾が施されている、あきらかに高級な見た目をしていた。

「さあ、仕上げよ。唇を開いて」

 緩く開いた唇を、紅を塗りやすい様に少しだけ前に突き出して待つ。冷たい指が顎を掬い上げるから、力に従って顎を持ち上げるとカーミラはまた嬉しそうに微笑んだ。冷たさを湛える美しい顔が吐息すらも触れる距離に近づいている。ぬるい固形が滑り、唇が紅を纏う。舐る様な感覚に無意識に瞼が降りて、次に開いた時には彼女の顔は既に離れていて口紅を化粧箱に戻している最中であった。

「終わり?」
「お終いよ。貴女の顔は化粧が映えるわね」
「地味な顔ですみませんね」
「そういう意味じゃあないの」

 言葉尻を暈しながら茨の装いを解き、ベッドの上に乗った彼女は、未だに呆けている私の膝を跨いで座り、肩を押して私をベッドに縫い付ける。天井を向いた私の顔にその美貌を近づけると、緩く畝る月明かりの様な柔らかい髪の毛が頬を掠めた。

「…粘膜を介した魔力供給は必要ない筈だけど」
「貴女の魔力は極上よ。今も私の身体を潤してくれている。でもこの行為にはそんな味気なくてつまらない意味は無いのよ」

 ゆっくりと重ねられた唇は冷たい。冷たいながらも柔らかく、私の体温で蕩けていく。小さく鳴るリップノイズと艶かしい水音は、紛れも無い情事の其れであった。
 サーヴァントとの口づけは此れが初めてではない。先程言った通り、私は魔力を無尽蔵に生成出来るから粘膜経由で魔力を供給する必要が一切無いので、ガウェインや孔明に唇を委ねる事は無かった。ただ、ビリーだけは、悪戯に唇を重ねる。勿論私の本意では無く、不意を突かれて半ば強引にであるのだが。
 重なる唇の間から、彼女の浅い吐息が漏れて濡れた唇を擽る。枕に散った黒髪を掬いながら、反対の手で耳殻に触れ、私の反応を楽しんでいる。
 絶えず粘膜を舐る彼女を拒否しないのは、拒否する理由が無かったからだ。ビリーとキスをしている事を彼女は知っているのだから、カーミラの唇を拒むのは棘が立つ気がする。それに頼んでいないとは言え世話に対する対価を、私は一切支払っていないのだ。彼女が望むのであれば、気が済むまで付き合うつもりでいた。

「子供との口付けよりも刺激的で楽しいでしょう?」
「…私はビリーとのキスを楽しんでる訳じゃないんだけど」
「私は貴女の最初のサーヴァントなのに、4番目に先を越されたのが気に入らないのよ」
「くだらない事に執着するのね。そんなタイプには見えないけど」
「…そうね、くだらないわ。全くもってくだらない。冷血と言い伝えられる私らしくも無い。けれど貴女の唇はとても甘美で唆られる。纏う香りは芳醇で、熟れた果実の様に私を誘うの。だから、この私にくだらない執着を抱かせるのも、らしくない振る舞いをさせるのも全部貴女のせいよ」

 其れは母親が子に抱く慈愛に似たものであるのか、永く持ちすぎて捨てるに捨てられなくなった“物”に抱く愛着であるのかは分からない。けれども、爛々とした黄金色の瞳に宿るのは確かに愛情の色である。

「それで、満足したの?」
「口づけはもういいわ。またいつか、今度は貴女から求めてくれると嬉しいのだけど」

 悪戯に持ち上げられた血色の悪い唇には、私と同じ珊瑚色の紅が付いている。きっと綺麗に塗られた紅は、塗った本人であるカーミラの唇によって乱され、口の周りに付着しているのだろう。

「カーミラ」
「なに、」

 一方的に弄ばれてさようならでは寝つきが悪いから、彼女のスカーフを引き寄せて不意にその唇を奪ってやった。口内に舌を入れた時、彼女の鋭い犬歯で舌が裂けて血が滲んだが、それにも構わず夢中で唇に吸い付いた。ベッドに付いていた手が私の背に回されて、彼女は縋るようにキャミソールを掴んだ。スカーフから彼女の頬に手を寄せて、カーミラが寝起きの私にした様に優しく何度も指を滑らせると、彼女の口内でくぐもった甘い声が響く。
 唇を離す瞬間に、流血した私の舌を名残惜しそうに吸ってから顔を離した彼女に向かって得意気に笑って見せると、彼女もまた、唇に付着した私の血を真紅の舌で舐めとって笑っていた。

「やっぱり、貴女の血は芳しい」

 それは、何百人もの少女を殺した女領主でも、人理修復の為に抑止の輪より呼ばれたアサシンでもなく、ただ1人の吸血鬼の顔だった。
 再度齎された口付けを受けながら、舌先から溢れ出す血液が止まるまでこの触れ合いは続くのだろうなと、彼女の後頭部へと手を回して形の良い頭蓋を掴んで唇を深く触れさせながら考えた。


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