きんいろ森とよるの王子様
勤務の最中、お手洗いの為に席を立ち戻って来ると、デスクの上には『21時 バーラウンジへ』とのメモが置いてあった。
隣の同僚に聞いてもにやけるばかりで誰が置いた物なのか教えてはくれない。
勿論私にも仲の良い同僚は居るが、こんな事をする人物は見当もつかない。メールか電話で連絡した方が確実である事を知っているからだ。
勤務を終えて食事を済ませ、一度部屋に帰って着替えをしてから指定された時間にバーラウンジへ足を運んだ。誰からかも分からないメモ等無視しても良かったが、明日は丁度休みであるし久しぶりに酒を飲んで息抜きするのも悪くない。浮き足立ったハイヒールの音が、居住区画から娯楽室までの道のりに響き渡った。
ガラス張りの扉を開くと、中は薄暗いながら人の声で賑わっていた。職員もサーヴァントも入り乱れ、各々酒と会話を楽しんでいる様だ。
その中に私の知っている顔はあれど特に親しい訳でも無いので取り敢えずカウンター席に腰掛け、カウンターの向こう側に居るモリアーティ(時々気紛れでバーテンダーをしているらしい)にマティーニを頼み、片肘をついて私を此処へ誘ったメモを指に挟んで弄ぶ。呼び付けた癖に姿を現さないメモの主に対する苛立ちを込めて。
「待ち人来らず、かな?」
カウンター越しにマティーニのグラスをコースターの上に置きながら、モリアーティはニヤついて言って見せた。オリーブを抜き取って口に含み咀嚼してマティーニで流し込んでから、面白がる彼に視線をやる。
「教授。私は別に待ってません。でも呼び付けておいて時間通りに来ないなんて失礼じゃないですか?」
「彼は駆け引きの最中なのだよ。」
モリアーティは、其の端正な顔をぐっと近付け、内緒話の如く声を潜めて言った。
「駆け引き?」
「そうとも。其れに彼は君が来る30分も前に此処に来て、君が来るのを今か今かと待ち望んでいたというのに。」
「…彼って誰です?」
問いに、彼は答えなかった。その代わり、顔を離してから今度は悪戯な笑みを見せ、片目を瞑り唇に人差し指をつけて「Shh…」と吐息だけで答えた。
如何あっても私の知りたい事は教えてくれないらしい彼に、此方も溜息を以て返答する。
「それじゃあ答えの代わりにマルガリータを。」
「喜んで、レディ。」
グラスに残ったマティーニを煽り、空のグラスの結露をなぞって遊ぶ。此処に来た理由も酒を飲みたいからであったから、別に揶揄われて誘い出されただけでももうどうでも良い。断じて期待していた訳でも不貞腐れている訳でも無い。
ピアスを弄って暇を潰していると、マティーニのグラスと交換でコースターの上にマルガリータのグラスが置かれ、私はまた一つ溜息を吐いてから白濁を煽ろうとグラスに手を伸ばした。
其れは、脇から伸びてきた手に拠りグラスを奪われ叶わなかった。グラスを掴む形で止まった手と鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしたまま動かない私は、目の前のモリアーティの目にはさぞ間抜けに写る事だろう。
「君、ひとり?」
賑やかな空間の中でも、其の声は教会の鐘の音の様にはっきりと耳に届いた。我に返り其方を見やれば、私のマルガリータを手にした人物は、唯一のマスターである藤丸立香と云う少女に拠って召喚されたサーヴァント ビリーザキッドだ。
緩やかな癖のついた金髪と弧を描く瞼に収まった水面を思わせる青い瞳が、バーの薄い照明の中でもはっきりと見える。彼はグラスの中の白濁を一気に煽りグラスをモリアーティに手渡してテキーラとマルガリータを出す様に頼んだ。
「ひとり、です。」
「ふうん。これだけ男が居るのに誰一人として君に声をかけないなんてね。」
当然の様に私の傍に腰掛けて、光沢のあるパンツのポケットからマルボロを取り出し火をつける。私もカウンターテーブルに置いた箱から一本取り出して口に咥えると、マッチを擦るよりも早く彼のZippが眼前に齎され葉先に点火した。驚きつつも唇から煙を漏らせば、彼は満足そうにまた微笑みフィルターに口をつけ、手元に来たロックのテキーラのグラスとマルガリータを引き寄せ、ショートグラスを私に手渡して強引に乾杯させる。
「あの、ビリーさん。」
「ん?」
「何かご用ですか?」
私の問いに彼は一瞬動きを止めたが直ぐにまた人当たりの良さそうな笑みを見せ、薄い唇にフィルターを挟んでから答えた。
「メモ。見たから来てくれたんだろ?」
「え…じゃあこれは貴方が?」
「そうだよ。君が席に居ない間にオフィスに忍び込んでメモを置いたのは僕さ。隣のデスクの女の子に口止めしたのも僕。彼女はきちんと約束を守ってくれたみたいだね。」
「でも、どうして?」
グラスを片手に紫煙を燻らす彼と私は全くと言って良い程接点が無い。食堂で姿を見かけたり、廊下で擦れ違った事くらいはあっただろうが、真面に会話すら事がないのだ。そんな相手を態々呼び付けた理由を知りたかった。
彼は、黒革の手袋に包まれた指で挟んだ煙草を灰皿に押しつけてからテキーラを煽り、上機嫌で私の顔に自身の顔を寄せて囁いた。
「男が女の子を誘う理由なんて限られてる。君の事、可愛いな、仲良くなりたいなって思ってたんだ。」
仄かに香るテキーラの香りと彼が醸し出す艶っぽい空気のせいで、まだキャパシティには余裕がある筈なのに頬に熱が上がり脳にべールが掛かった様な感覚を覚える。少年の見た目をして居乍ら、何という色気だろうか。困惑する私に追い討ちを掛ける様に、ショートグラスの足を両手で支える手に指を滑らせ、たっぷりとした金の睫毛に縁取られる瞳で私の反応を伺い楽しんでいる。
カルデア勤務となる前。自国の企業に勤めていた私はバーで出会った男性に彼と同じ様な事をされても決して嬉しくはなかった。其れどころか鬱陶しく感じてしまい直ぐに其の手を振り解いてその場を後にしていた。バー話しかけてきた男と彼の違いはほぼ無い。だからこんな気分になる筈が無い。こんな、欲情とも興奮ともとれる感情を抱く筈が無いのだ。グラスの中身を一気に煽れば、火照った体を僅かながらに冷やしてくれる気がした。
「そうですか。」
「そうさ。次は何を飲む?」
「バラライカを。」
「じゃあ僕も。」
ビリーの声で此方に来たモリアーティに視線を向けると、彼は先程と同じ様に片目を瞑りシェイカーを手に取った。彼にはこの光景が予想できていたのだろう。氷と酒が踊る気味の良い音に耳を傾けながら気恥ずかしさを感じた私は煙草を咥えて火を点ける。一口吸って離したフィルターにはルージュの彩りが与えられた。逆に言えば私の唇から色彩が奪われて居るという事だからあまり好ましくは無いが、酒場の雰囲気の中で見る此れはなかなか如何して嫌いではなかった。
「バラライカです。」
モリアーティがカウンターに3杯目のグラスを置く。
ビリーがグラスを近付けるから、何と無くその場のノリと言うやつで私も煙草を灰皿に置いてグラスを手に取り彼の其れに軽く当てて音を立てた。
唇を付けた彼は眉を寄せて薄桃色の舌先を唇から出し「こんなのが好きなの?」と訝しげな視線を向けた。
「ウォッカベースですよ。ホワイトキュラソーとレモンを入れて作るんです。」
「詳しいんだね。僕、酒好きだけど詳しくは無いんだ。」
「カクテルが好きなので。そんなに詳しい訳でも無いんですけどね。」
其の気さくさと人当たりの良さ、そして少し酔いが回って居る事もあって彼に気を許し始めて居るのか私の顔には笑みが浮かんでいる。そんな私を、彼は頬杖をついて眺めていた。
「何?」
「花を愛でるのに言葉は必要無いだろ?」
「…そうやって何人も口説き落としてるの?」
「酷いな。此処に呼ばれてからは君だけだよ。誓っても良い。」
青色に燃え盛る瞳と唇から溢れる甘言に耐え切れず、グラスを口元へ運ぼうと持ち上げると蓋をする様に当てられた彼の手によって逃げ道を塞がれた。
グラスの足をテーブルに着けた其の指は、私の耳元から頬のラインをなぞり顎を軽く引き上げる。そして視線が交じり合ったまま彼の顔は徐々に接近し、顕になっている耳に薄い唇を触れさせる距離で吐息と共に魅惑を吹き込んだ。
「これから僕の部屋に行かない?」
「…どうして?」
「僕は君の事を知ってるけど、君は僕の事をよく知らないだろ?僕の全部を教えてあげる。そうしたら君だってきっと僕を好きになると思うよ。」
一度だけ耳に口付けてから離れていった彼の顔を、私は真面に見る事が出来ないでいる。羞恥を感じている程度に頭が回る筈なのに、私は差し出された手を取って彼の部屋へと誘(いざな)われていた。
彼の自室は、部屋の真ん中に設えられた黒色のソファとローテーブルを除いては、私たち職員の部屋と対して変わらない内装をしていた。
私は促されるがままにソファに腰を掛け、此処に来る道中に彼に拠って行われた恥ずかしい行為の数々に赤面し頭を抱えている。
『手を繋いでも良い?』
彼の悪戯はこの一言から始まった。指同士を交互に絡めて手を繋ぎ、繋いだ手を口元に運んで何度もキスをしてみたり、対して身長差はない筈なのに足の長させいか余裕たっぷりに腰に手を回して抱き寄せられたりと、まるで恋人にするかの様に私を弄んだのだ。
「まだ赤くなってる。初心なんだね。」
傍に腰を下ろして私を覗き込む彼は、バーラウンジにいた時よりも楽しそうな顔を見せた。膝を揃えその上に掌を置き肩を窄めて座る私と、足を組み私の肩に手を回して堂々とした態度を取る彼のどちらがこの場に置いて優位かは一目瞭然であろう。
手の早い彼は私の肩を自身の方向へ引き寄せ、耳殻の輪郭を指で擽っている。走る快感に身を戦慄かせれば、また彼は笑った。
「子供の見た目をした僕に拐かされてそんな顔しちゃうなんて、どうしようもないお姉さんだね。」
「…貴方の方がずっと年上でしょう。」
「歳は…まあそうだけど。この光景を第三者が見たら君が僕を誑かしてる様にしか見えないと思うよ?」
サーヴァントとは、全盛期の姿で顕現するものだと聞いた事がある。彼の全盛期の姿がこの少年であるのなら、21歳でこの世を去った彼の少年時代は、記録として彼の過去を知っているだけの私の想像が及ばない程に凄惨で荒廃したものだったのだろう。見た目が私より幼かろうと、彼の精神は私の何倍も遥かに成熟し、瞳の奥には空虚とも呼べる余白が見える。
ぐっと近づいて触れた唇を、私は避けずに受け入れていた。下唇を喰み、舌を舐り上顎をなぞられる感触も、唇を重ねながらゆったりと髪を撫でる掌も何もかもが気味良く舌先を甘噛みされたタイミングで、彼の背に回した手で思わずシャツを握りしめ、顔を背けた。
離れた彼の唇は唾液に濡れ、照明の光を反射して艶めいている。
「蕩けた顔してる。気持ちよかった?」
「違う…そんな事ない、」
「嘘つくなんていけない子だね。首元まで赤くなってるのに。」
「酔ってるせいです。」
欲情した顔で吐いた苦しい言い訳に、彼は髪を撫でる手を止める事なく笑った。きっと褒められて照れ隠しをする幼子の様に見えているのだろう。
「続き、したい?」
「…お好きにしたらいいじゃないですか。」
「駄目だよ。君の口から言って。」
子供を嗜める様に言った彼に対し私が何と答えたのかは、波の模様に乱れたシーツと全裸の二人を見れば想像に難くない。
隣ですうすうと小さな寝息を立てるは、私の罪悪感と良心の呵責を増幅させた。いくら彼が100年以上も前に生きた人物であっても見た目が少年であるのだから、どうしても開き直る事が出来ない。
そうまで言うのなら拒めば良かったのだけど熱を帯びた彼の肉体と私に覆いかぶさった恍惚とした表情は私を酷く興奮させたし、何より「彼が欲しいと」心を打ち震わせたのだ。
肘をついてそっと上体を起こし、カーブを描く白い頬に指を滑らせ口付ける。あどけない寝顔はまるで天使の様だ。吐息だけで笑み顔を離すと、それを待っていたかの様に金色の睫毛が持ち上がり水面の青が私を写す。驚き起き上がるべく腕を立てたが、意図も容易く腕はとられ、無様にも彼の上に倒れ込んでしまった。
「捕まえた。」
背と頸に腕を回され、私の頭は彼の頭の真横に固定されている。耳もとで囁く彼の声は寝起きの為に僅かに擦けていつもより低く、昨夜の情事を思い起こさせた。
抵抗する気が無いと判ったのか、彼は背に回した掌を私の肩に移して体を反転させ私を押し倒す格好をとり、逆光で影になった彼の顔は何処か気怠げでシーツの隙間から見える彼の肌も相まって色香を放って見える。
「おはよう、愛しい人。」
「…おはようございます。」
「昨日あんなに触れ合ったのに、まだ触り足りないの?」
「ちが、」
「…ほら見て。此処にも、此処にも、こんな所にも綺麗な花が咲いてる。此れは君が僕の物になった印だよ。」
肌の上を辿る白い指先が指し示した場所を顎を引いて確認すれば、其処には赤黒い鬱血が出来上がっていた。
「なっ!何してるんですか!こんなに沢山…!」
「首にもあるから、誰かに見られたく無いのならシャツを上まで閉めなきゃね。」
「酷い…。」
「今更気付いたの?欲しい物は奪って、仇なす者は撃ち殺す。僕はそういう男だったんだよ。可愛い君を手に入れる為なら何だってする。」
「私はもう貴方のものなの?」
「それも今更だよ。悪い男に捕まった、そう思って観念するんだね。」
明朝のベッドの中で睦み合う私達は如何足掻いても親密な関係になってしまっている。深く嵌まり込んだ末路は一体どんな所なのだろう。昨日のメモを無視していれば、きっといつも通りに自室で一人きりで目覚めていた筈だ。
ロクに恋愛等した事がない私を捕まえたのは、よりにもよって、少年悪漢王の異名を持つ世界屈指の悪い男だった。
「もう一回しよっか。」
問いとも言えぬ彼の言葉に私が何と答えたのかは言うまでもない。