青碧は深海にて融解
※きみはポラリス様へ提出
「君の思い通りになっただろう」
眼前の悪魔は、その行為の邪悪さなど少しも感じさせない柔らかい笑みで、動揺を隠せずただただ恐怖に震える私に向かってそう言った。全ての始まりも原因も間違いなく私であるけれど、唆したのも実行したのも全てこの男の筈なのに何故彼は無関係な顔をしていられるのだろう。
テーブルに投げ出した私の腕に張り付く消えかけの青痣を、彼の無骨な指がするりと撫でた。爪の整ったその柔らかな指先は冷たい。
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「男と話すな。笑いかけるな。思わせぶりな態度をとるな。そんなに難しいか?男に媚びるしか能が無いあばずれが」
そう罵声を浴びせて私を殴る彼は、私達が鳥籠にいる事をすっかり忘れてしまっているのだろう。この隔絶された施設内で職務を全うする為のコミュニケーションをも許されないのなら、私はどうやって作業工程の報告を男性である上司に行えばいいのだろう。
でも私は、彼の機嫌をこれ以上損ねたくないから口答えなんて一つもせず「ごめんなさい」と何に対してかもわからない謝罪をくり返す。出来るだけしおらしく、悲しみを込めて。暴力の後で掛けられる言葉は独りよがりの独白だ。「お前を愛しているから」や「不安なんだ」など。仕事をしているだけで、部屋に戻ったら殴られるのだろうか、これが彼に知れたら今日は何をされるんだろう、と「あなたは私が毎日抱える不要な不安については少しも考えたことがないでしょう」なんて言ってやりたいけど、私は慈悲深く愛情たっぷりの眼差しと言葉で彼を慰めるのだ。
此処にいる限り、私は彼から逃げられない。彼を愛しているからじゃない。あんな男の事は、暴力を振るうようになってすぐに見限っていた。逃げないのは、人理継続保障機関での仕事に誇りを持っているから。
私は生まれた時から、彼方まで暗い海の中にいる。
長い歴史を持つ魔術師の家系に生まれながら、私の魔術回路は一般人に毛が生えた程度のもので、両親に「一族の面汚し」とまで言われた程だった。確かに、後継者として産んだ長女が全くの役立たずであれば暴言のひとつも言いたくなるだろう。魔術師に慣れない私に残されていたのは魔術以外で努力する道のみ。勿論、そんな事で両親が私を見てくれる筈がないという事は分かっていたけれど、生みの親に否定された私の存在を証明するにはそうする他は無かった。物理学を学び、新卒で入った研究所で「魔術に精通する技師」として、此処フィニスカルデアよりスカウトを受け今に至る。魔術には二度と関わりを持てないと思っていた私にとってアニムスフィアが管理する機関からの「必要な人材」という言葉はこの上ない賛辞であり、差し伸べられた手を取らない理由は無かったのだ。
カルデアに来てから、暗い海に光が射した。
今日もまた、くだらない理由で痣が増えた。昨日は同僚とランチしているところを見られて自室にて腹を蹴られたが、今日はメッセージに返信しなかった事が相当気に食わなかった様で終業を待たずに人気のない倉庫棟の物陰に引きずり込まれて頬を殴られた。次いで、体勢を崩して床に倒れ露わになった腹に、革靴を履いた爪先が容赦なく打ち付けられ咳き込み鈍く動く私を、彼は見下ろしている。
顔の造形は優しげであるのに、嫉妬と加害欲に支配された表情は鬼の様で酷く歪んでいる。痛みと屈辱を与え服従させようとする様の何と醜いことか。
結局、腹を蹴った後で髪を掴んで頭を持ち上げ耳元で「定時で上がってすぐ部屋に来い」と私に告げた後、彼は蹲る私を放置して仕事へと戻って行った。執着する癖に存外扱いが雑であると、もう笑うしかない。中身が子供なのだ。
私はというと痛みに呆然としながらも、資料室へ行くと言ってデスクを離れた手前、誰の目にも明らかな暴力の痕をどの様に言い逃れようか思案していた。彼は普段、狡猾に服の下に隠れる位置を痛めつけるのに、今回は感情が昂って居たのだろうか。早く起き上がって医務室に行って、デスクに戻らなくてはいけないのに腹に力が入らない。きっと今の私は芋虫みたいに見えるだろう。
そう、痛みに意識を取られすぎていつも頭に置いていた「誰にも見られてはいけない」という基本的な事を疎かにしてしまっていた。
「何をしている」
足音も気配も無く、本当に"いつ間にか"私の前に現れたのは、彼と同じくマスター候補生としてカルデアに呼ばれた、彼とは違う"異質な天才"と謳われる男であった。冷静さを欠いた頭でも、此処から離れなくてはいけないという事くらい分かる。うぞうぞと身を捩らせながら適当な言い訳を吐いてこの場を立ち去りたかった。
「あ、あの…具合、悪くて」
「"あれ"が君を介抱しているようには見えなかったが」
「ほんと、立ちくらみなんで…転んだだけです」
屈んで私と目線を合わせようとする彼の横を這い蹲って通り過ぎようとしたがあまりに私の動きが遅く、片手で肩を引き寄せられそれは容易に阻止される。そして徐に私の胸元のジッパーに手をかけて下ろし、露出した肌に紫陽花のように疎らに散る青色の痣を見た彼は眉を少しだけ寄せ、拒みもせず呆然としている私に問うた。
「この痣も転んだのか?」
「なにも言いたくありません」
「であれば報告を上げることにする。恋人と思わしき男に暴力を振るわれている職員がいると」
「やめて!…誰にも言わないで。大事にしたくないんです」
風の音にも消え入りそうな小さな声で床に這いつくばって情けなく懇願する。この通行人Aが私の運命を握っているから。
「それは最善とは言えない。理不尽な暴力は受け入れても何も解決しないし、あの手の男はそれを見て服従したと思い上がる。行為はエスカレートしていくだけだ」
彼は痣から視線を移さず言った。それはきっと、全て理解した上での言葉だ。道があっても唯一の道が最善とは限らないと。
「君がしても意味がない話が、おれが話す事で意味を成すということもある」
「それは…?」
「一言、助けを乞えばいい。俺に救ってくれと言えばいいだろう」
深い紫色の瞳を眼球が捉えた時、私は心からこの人は神様なんだと思った。
誰も私に気づいてくれなかったから。この地獄が永遠に続くと思っていたから。私が誰にも言わなかったし気づかれないようにしていたから。彼は、そんな私に手を差し伸べてくれた。その微笑みは聖人にも似ていたし、祝福の天使にも見えた。
「その青痣にも別れを告げておけ」
治りかけの青碧の痣に口づけを落とした彼が言った通り、その日の夜から新たな青痣が増える事は無くなった。それどころか“恋人”は私を見つけると酷く怯えた顔をして逃げていくのだ。私はその原因が分からない程鈍感ではなかったし、何よりあの征服欲に飲まれた醜い顔が私を畏怖していると云う事実に堪らなく優越を覚えていた。私だって魔術師だ。小指をぶつける呪いくらいなら掛ける事は出来たけどそれをしなかったのは後が怖かったから。その程度の反骨心だったけど、デイビットという後ろ盾のお陰で一矢報いることができて胸がすく思いだった。
デイビットについては多くを知らない。彼が元恋人に何をしたのかも知らないし興味もなかった。あの男は二度と私を殴ったりしないし近づきさえしない。その事実だけで十分だった。
十分だったのに。
元恋人の男が失踪した。青痣が絶えた日から1週間後の事だった。
カルデアは彼の失踪を「逃亡」として処理したが、彼はマスター候補生に選ばれた事を誇りにしていたのだ。裏があると分かっていた私はデイビットを訪ねていた。昼下がりの比較的空いている食堂内でコーヒーを嗜む彼は私に着席を促して言った。
「君の思い通りになっただろう」
眼前の悪魔は、その行為の邪悪さなど少しも感じさせない柔らかい笑みで、動揺を隠せずただただ恐怖に震える私を見ている。全ての始まりも原因も間違いなく私であるけれど、唆したのも実行したのも全てこの男の筈なのに何故彼は無関係な顔をしていられるのだろう。
テーブルに投げ出した私の腕に張り付く、消えかけの青痣を彼の無骨な指がするりと撫でた。爪の整ったその柔らかな指先は冷たい。
「彼が消えたの、貴方が何かしたんですか…?」
「君が望んだ事をしたまでだ。オレに助けを求めただろう」
傾けたカップから漂うコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。穏やかな顔をして穏やかに言葉を紡ぐくせに、言葉の中には微塵も穏やかさは感じられず、まるで別の生き物の様である。彼が手を差し伸べた時に気づくべきだったのだ。彼の言葉は神の救いなどではなく、悪魔の甘言だったのだと。
「何故気にする。あの男はもう君の恋人ではないだろう。…そんな事よりも、君はオレに何をくれるんだ」
「何…?私が?」
「施しを受ければ必ず見返りが求められる。道理だろう」
「だって、貴方が助けを乞えと…」
「契約を持ちかける時は相手が求める言葉をかけるのが定石だ。覚えておくといい。」
吹かれた様に笑みが消え、聖人の慈悲が滲んでいた紫の瞳は爛々と燃えている。淡々と述べた口上が私の心臓を掴み喉元から引きずり出される錯覚をして本能的に鳴咽しそうになった。
「まさか魔術師との約束を反故に出来るとは思っていないだろう?…おまえが何かする必要はない。支配権があの男からオレに移るだけだ。おまえが男と会話しようが触れ合おうが、オレがおまえを傷つけることは無い。男が消える、それだけだ」
踠いても逃げられない海に落ちたような気分だった。恋人を縛る男の方が人を人とも思わない悪魔なんかよりよっぽど御し易く可愛いもので、あの時に私が頑として床に視線をやり続けこの男の言葉に耳を貸さなければ状況は彼処から悪くなる事は無かったのに。やっと見えた海面の青。陸から伸ばされた手を取って必死に足掻いても私が陸だと思い込んでいたのは海のずっとずっと底で、引き上げられていると思っていたのは底に誘われていただけ。
デイビットは空になったカップを置いて立ち立ち上がり、私に手を差し伸べて瞳だけで「立て」と言う。この手は取らなくてはいけない。
青痣を抱えて生きていた方がマシだった。青痣は真っ暗な海の中じゃ融けて見えないから、青痣なんてどうって事無かったのに。少しだけ色づいた青がまた黒になる。高望みしたから。身の程を弁えなかったから。私は落ちこぼれで誰かに虐げられる身なのに、個を守ろうとしたから。
私のいるべき場所はここに来る前と同じ、彼方まで暗い海だけなのに。