可憐な隣人

今からお話しする事は、全て嘘です。


大学を卒業して就職した私は、都内のとあるアパートで一人暮らしをしていました。駅からも遠く、近くに店も無い場所で、尚且つ大家曰く人の入れ替わりが激しい部屋らしいので家賃は非常に安く、お金のない私にとっては住みやすいところでした。
 ことの発端は、引っ越してから数日経ったある晩。夕食をとることも忘れ、職場から持ち帰った仕事を片付けている最中の出来事でした。
 私がキーボードを打つ音とエアコンの稼働音に混じって、くぐもった女性の声が聞こえてきたのです。古い作りのアパートはどうにも壁が薄い様で、度々両隣の部屋から生活音が聞こえる事がありましたから、聞こえてきたのがただの話し声であれば気に留める事は無かったでしょう。
 しかしその日に聞こえてきた声は嬌声でした。
 私は手もエアコンも止め、いけない事とは分かっていましたが、声が聞こえてきた隣の部屋に接する壁に耳をつけて様子を伺いました。
 情事の荒い息遣いと共に甘さが溶け入った嬌声が聞こえてきます。張りのある声から察するに、声の持ち主は若い女性なのでしょう。そして等間隔で鳴る何かを叩くような音は、恐らく肌で肌を打つ音です。隣室に裸の男女がいる事は明らかでした。
 恋人も居らず、そう云った行為に久しかった私の陰茎は、女性が快楽に飲まれて上げた声を聞き浅ましくも膨れ上がっていました。私の自慰については皆さんも興味は無いと思いますから割愛しますが。

 嬌声の持ち主の顔を見たのは、その3日後の事です。夜の10時をまわっていたと思います。仕事から帰宅した私が鍵を開けていると、先程私が登ってきた階段をハイヒールを履いた足が上ってくる音が聴こえてきました。鍵が見つからないフリをして鞄に手を入れながら足音の持ち主を待っていると、うら若い女性が此方へ向かって来ているのが見えました。彼女は隣のドアの前に立ち、肩に下げた鞄の中を探っていましたから、すぐにあの声の女性だと分かりました。身長が178cmある私より頭ひとつ分弱小さく、黒髪の間から見える横顔は白くこじんまりしていて飛び抜けて美人という事はありませんでしたが、控え目な服装や化粧が清潔感を醸し出して好感を持てる容姿をしている女性でした。
 彼女は私の視線に気がついたのか、見つけ出した鍵をドアに差し込む格好で手を止めて、訝しむような顔でこちらを向きました。

「…なにか?」

「あっ、いえ…先週越してきた者なんですが、ご挨拶がまだだったと思いまして。」

「ああ!すみません、気づかなくって。名字です。」

 名字さんは2、3言葉を交わした後でこちらに微笑みを見せ、丁寧に会釈をしながら部屋へ入って行きました。私も同じく、ずっと握ったままにしていた鍵を差し込み自室へと引っ込みました。そして食事も入浴も忘れ、今日も聞こえてきた甲高い声で自身を慰めたのです。
 それから私は、彼女の事しか考えられなくなっていました。失礼な言い方になりますが、名字さんの見た目は地味な部類だと思います。そんな彼女が、毎晩のように男を連れ込み、華奢な肢体に男を乗せてあの声を上げているのだと思うと、どうしようも無く欲情してしまうのです。果ては、わざと私に聞かせているのではないかと妄想する程に、私は彼女に嵌っていました。次第に、出勤前や帰宅後に出会す度に微笑みかけ、夜中になれば自身の喘ぎ声を聞かせて私の気を引いていると思い込むようになり、何時しか私の頭の中では「彼女は私に好意を寄せている」という物語が出来上がっていたのです。

 そして、恋愛経験が乏しく少々自意識過剰な面がある私は、とうとう行動に出てしまいました。名字さんの職場が土日休みであるという事を知っていたので、壁の向こう側から物音が聞こえる事を確認し、土曜日の昼過ぎに彼女の家のインターフォンを鳴らしました。用向きは、言うまでも無く私への好意を彼女に認めさせ、あわよくば何時もその部屋でしている事を私にさせて貰おうと言う魂胆です。
 皆さんのお察しの通り、この感情が恋する者なら皆抱く正常なものだと思う程におかしくなっていました。

 ドアはすぐに開きました。しかし、静かに鍵を開けて控え目に開かれると思っていたそれは、音を立てて大きく開いたのです。驚く間も無く、来ていたTシャツの襟首を強い力で掴まれ、半ば放り投げられる形で室内に引き込まれました。
 彼女の部屋は私の部屋と同じ作りをしている筈ですから、今倒れているのは浴室やトイレ、リビングルームの扉に面した短い廊下なのでしょう。打ち付けた肩や腰が酷く痛みました。私を連れ込んだ何者かは、転がっている私の髪の毛を掴み、リビングルームまで引き摺ると、勢いをつけて手を離したものですから、今度は反動で頭を打ってしまいました。
 呻きながらもその人物を見上げると、そこに立っていたのは金髪の外国人の男性でした。背が高く精悍な顔付きをした彼は、鋭く光る紫色の瞳で私を冷ややかに見下ろしています。
 本来の私であれば、この時点で恐怖し動けなくなっていたでしょう。しかしこの時の私は彼女に狂っていましたから、恐怖よりも、この男が毎夜名字さんを抱いているのだという嫉妬と怒りで頭が沸騰しそうでした。

「なんなんだよお前!」

 それをいう資格があるのは彼であるのに、私は怒鳴り散らします。彼は依然として私を見下ろしたまま、瞳の色を濃くしていうべき言葉を言いました。

「…おまえこそ、何のつもりでベルを鳴らした。名前は気にしていない様だったから聞き耳を立てる程度であれば放って置いてやったものを。」

 名前とは名字さんの下の名前なのでしょう。気安く呼べる彼が羨ましくて妬ましくて仕方がありませんでした。

「名字さんが本当に愛してるのは俺なんだよォッ!!会う度笑って挨拶してくれるし声だってわざと俺に聞かせてるんだ!!俺とそういう事がしたいって!!言ってんだ!!テメェは邪魔なんだよ!!」

 勘違いも甚だしいとお思いでしょうが、この時の私は心の底からそう思っていたのです。この男は、私を愛してやまない彼女の足枷になっているのだと。
 言ってやった、と心の中は僅かばかりすっきりとしていました。現実を受け入れろと、自分の事は棚に上げて得意げになっていました。
 刹那、大きな衝撃と共に星の様な白い点が視界いっぱいに広がったのです。星が晴れた後に見えたのは、彼女の部屋の白い天井でした。だくだくと流れ出した鼻血を認識した後で、彼に顔を蹴り上げられたのだと理解しました。
 後から襲った痛みにのたうちまわる私の腹に、彼が馬乗りになり何度も何度も私を殴りつけました。親にも殴られた事がない私にとって重い拳によって齎されたその痛みは壮絶でしたが、歯は折れ、口内に溢れた血で窒息しそうになりながらも、まだ意識はありました。
 だからこそ、愛しいあの人の声に気がつけたのです。

「デイビット…!」

 知らない名を呼ぶ声には焦りの色がありました。腫れ上がった瞼の隙間から見えた彼女は買って来たものを入れていたバッグを放り投げ、男の肩を掴んで私から離れさせてくれました。

「どうして佐藤さんがここに居るの?」

「自ら訪ねて来た。彼の頭の中では、おまえが真に愛しているのはオレではなく彼ということになっているらしい。」

 彼の冷たい声音で発せられたのは、ありったけの軽蔑と侮辱を込めた言葉でした。けれども、既に私には反論する体力はありません。彼女が、傷ついた私に駆け寄って優しく介抱してくれる時を只々待っていました。

「でもこんなに殴ったら死んじゃう。殺してはダメよ。」

「おまえがそう言うのなら。」

 てっきり私を助けてくれると思っていた名字さんがこちらに来る事はなく、膝立ちになって、床に座っている男の頬を細くて綺麗な指先で撫でてから、ルージュで淡く色づいた唇を男の唇に重ねました。頭の中の名字さんは小鳥の様に啄むキスしかしなかったと言うのに、目の前の彼女は何度も何度も男に吸い付き、舌を絡め合う濃厚で官能的な口づけを交わすのです。くちゅりと鳴る唾液の音が、握り締めた拳に更に力を入れさせました。
 銀の糸を紡ぎながら離れた唇で、彼女は私に言います。

「佐藤さんって運が悪いね…頭が悪いのかな?いくら安くても、住人が失踪した部屋なんて借りちゃダメだよ。」

 立ち上がる二人は各々別の行動をとりました。男は私のシャツを破って脱がせ布切れになったそれで私を後ろ手に縛り、ビニールの様なものが被せられたソファに座らせました。彼女は私の目の前に立ち、見せつける様に一枚ずつ衣服を脱ぎ捨てはじめました。
 男も私から離れ何処からか収納ボックスの様な箱を持って来たかと思うと、下着姿になった彼女の肩にかかる髪の毛をゆっくりと払いながら、顕になった首筋に愛おしそうにキスを落としました。

「今回は少し早かったね。前の人は半年かかったのに。」

「その方が都合がいいだろう。」

「ていうかこの方法使い始めてから思ってたんだけど、普通隣の女の家に凸ってセックス迫る?」

「普通じゃない人間だからこそ釣れたんだ。心置きなくやれるだろ?」

「確かにね…それじゃあ準備を始めましょう。」

 そう言って名字さんは私の足元に座り込み、徐に私のベルトを外します。ジーパンのジッパーを下ろして「腰、浮かせてください。」とあの笑顔で言うものですから、私は素直に言う事を聞きました。少しもたつきながらもジーパンはパンツと一緒に彼女の手によって引き抜かれ、部屋の端に投げ捨てられました。

「あっはは!ここ、萎れちゃってますね。痛みのせいかな?それとも怖い?」

 彼女の言葉が何を指しているのかはすぐに分かりました。同時に言い様の無い屈辱と羞恥を感じ、私の瞳からはみっともなく涙がこぼれ出しました。
 私の涙が見えたのか、名字さんがまた笑いだします。そして笑いながら、先程男が持って来た箱を開け、中身を床に並べ始めました。

「良いですか?今から私が言う事をよく聞いて、きちんと守ってください。」

 かた、かた、と様々な道具を並べながら、視線を向ける事なく言った名字に、何度も何度も頷きます。

「ひとつ、暴れない事。多少は仕方がないとして、逃げる目的で暴れるなら容赦なくあなたを殺します。ふたつ、大きな声は出さない事。よく知っていると思いますけど、このアパートは壁が薄いの。あんまり大きな声を出したらご近所迷惑になってしまう。みっつ、この部屋で起きた事は誰にも言わない事。誰かに身体の事を聞かれても覚えていないと言いなさい。もし誰かに話してしまったら、あなたがこの世にいる限り必ず見つけ出して殺します。」

 いいですね?
 そう優しい声音で言われれば、私はまた頷くしかありませんでした。一体この身に、彼女達は何をしようとしているのかは分かりませんが取り敢えず命は助かるのだと自分自身に言い聞かせ、愛してやまない彼女との約束は必ず果たさなくてはいけないという使命すら感じていました。

「さて、やるぞ〜…。死なない様にって、なかなか難しいよね。計算しなきゃいけない。」

「おまえなら出来る。」

「ありがと。それじゃ足から少しずついきますね佐藤さん。」

 彼女の手には、柄まで銀色の牛刀が握られています。刃の側面をひたひたと私の脹脛の皮膚に触れさせ、上気した頬に薄らと汗を浮かべながらこちらに微笑みかけていました。そして牛刀の刃はゆっくりと私の肉の中に潜り込み、ケバブの要領で薄く肉を削ぎ落としました。薄切りを手に、彼女はけらけらと楽しそうに笑っています。私は痛みで叫び出しそうになりましたが、名字さんとの約束がありましたから、折れた歯を食いしばり、必死で声を飲み込みます。

「できた!上手くない?」

「センスがあるな。」

「次はデイビットの番よ。うまくいけば100刀はいけるかな?」

 名字さんは牛刀を男に手渡して私の肉を引っ張って伸ばしたり、自身の手の甲に貼り付けて遊んでいます。男は彼女がずれてできたスペースに割り込み、私の足首を掴み躊躇なく脛の肉を削ぎ落とします。切り離された肉は彼女に手渡されましたが、当の名字さんは肉片を弄るのに飽きたのか、手渡されたそれを今まで持っていたものと一緒に、汚らしいものの様に床に投げ捨てていました。 
 男は牛刀を渡しながら彼女の顎に手を掛けて上を向かせ口づけをしています。名字さんも男の首に手を回して唇を貪り、時折情事のような甘美な声を漏らしました。

「んぅ、ふふ…、佐藤さん、声我慢できて偉いですね。」

 煽情的な流し目は、気休めではありますが文字通り身を裂く痛みを和らげてくれました。彼女が私を見て楽しそうに笑っている。その事実だけで、私は自分自身に価値があると思えたのです。
 あの部屋で過ごした時間は気が遠くなる程長かった気がします。しかし正確には半日程度の時間でした。 

「そろそろ終わりかなぁ。血が凄い。」

 彼女の、少しがっかりした様な声の後で男が私の目の前に来て拳を振り翳したところで私の記憶は途切れています。
 気がつくと、私は病院のベッドの上に居ました。路上に転がっていた所を見つけた、現場付近の住人が救急車を呼んでくれた様で。

 彼女は約束通り私を殺さなかったんですよ。本当に誠実な女性だと思います。例えわざと声を聞かせて私を誘き出し、猟奇的な行為を楽しむ様な変態だとしても、私は彼女のことが好きでした。
 そういえば、彼女が私に施してくれたあれは凌遅刑って奴だったんですね。中国の処刑方法ですよ、知らないんですか?…嫌だなぁ。聞きたいっていうから話したのに、そんな顔しないでくださいよ。これは事故でこうなったんです。
 言ったでしょう。「全て嘘です」って。嘘なんですよ。本当に。そういう事にしないと彼女達がここに来てしまうかもしれないので。

 そう言った男の四肢が切除され胴だけが車椅子に乗せられている姿はまるで達磨の様だ。グループホームの職員に押されて彼が去っていった後も、私はしばらく動けなかった。この話を本にしたら彼は怒るだろうか。偶然「名字さん」が私の本を手に取ってしまったら、彼は殺されてしまうのだろうか。