衝動
世界最後の瞬間は、きっと今日の様に何の変哲もない日常に滑り込み、私達は気づかないままその生を終えるのだろう。自分の死に気付けない者はこの世を彷徨うと言うけれど、彷徨う世すらない魂は何処へ行くのか。
煙草の煙がふうわりと上り消えていった何処までも続く青空を眺めながら、ぼんやりとそんな事ばかり考えてしまう。太陽の光が強く焼き付いた瞳には、陽当たりの悪いこの部屋が一層暗く見える。綺麗とは言えない室内は血の香りで満ちていて、髪の毛や埃が落ちた床には真っ赤な血溜まりが張り付いている。
今日もまた、私は恋人を殺した。昨日も一昨日も、その前の日も、色んな殺し方を試し工夫を凝らして殺したのに、それでも足りずに今日も私は恋人を殺した。
ほろりと溢れ頬を濡らす涙の意味は私自身にも分からない。
「デイビット。」
私達の待ち合わせは、大きいとは言えない公立図書館の宗教関係の本棚の前だ。設えられた古いソファに座って、私は彼が来るのを待つし彼もまた私が来るのを待っている。整髪剤で固められた目を引く金髪に小声で話しかければ、手にしていた本をそのままに此方を振りむく。そして本棚に蔵書を戻し、私と共に図書館を出て行く。
「無理して時間作ってくれなくても良いのに。」
「無理はしていない。」
「そう。論文は順調なんだね。」
「含みのある言い方だな。」
「無いよ。デイビットに会えるのが嬉しいから、無理しててもしてなくてもどっちでも良い。」
車の稼働音と小鳥の囀りが共存する遊歩道を他愛もない話をして通り抜る。風は冷たいが気温はそこそこ高い、春の足音が聞こえて来る季節だ。
そこから映画館に行ったりお茶をしたり、日によって行く場所は様々だが私達のデートは必ずこの図書館から始まる。
「今日は何処に行く?」
「行きたい場所はあるのか。」
「うーん…。」
そんな話をしていた。記憶は曖昧だがいつもそうだからきっとその時もそうだった。そして彼の家に行って、私は彼を、彼の家の包丁で刺し殺したんだっけ。口論をしたのかも、何かカンに触る事をされたのかもよく覚えていないが、この手で彼を刺した事だけははっきり覚えている。
死にゆく彼は綺麗だった。顔に汗を浮かべて眉根を寄せ瞳を細めて、刃物が刺ささり血が湧き出る胸を押さえる彼は、花が萎れる様にじっくりと時間をかけて息を引き取った。動かなくなったデイビットに馬乗りになって、胸から包丁を抜き狂ったように色んな所に包丁を突き立てた。頬や手に散った血液は不思議と冷たい。
血塗れになりながら、「天気が良いから」と私が開けていた窓から身を乗り出せば憎いくらいに晴れた空が広がっていて、私は気分が良くなった。
彼の遺体が発見されるまでは1週間程度猶予がある筈だ。彼は自宅で仕事をする事が多いし、マメに誰かと連絡を取る人間ではないから。死体の処理だとか指紋を拭き取ったりなんかはしなかったと思う。そこまで気が回らなかったし、刺したのだって衝動的な行動だったから。それでも血塗れで外に出るのは不味いという事は分かっていたのできちんとシャワーを浴びて、彼の家に置いていた服に着替えて帰宅した。
夢見よく、次の日は快調だった。すっきり目覚めて仕事も捗り、普段はしない自炊なんかもしてみたりしていつに無く充実した1日を過ごせたと思う。
風呂に入るか、と立ち上がったと同時に携帯が鳴り出して、画面を見れば母親からだった。
「ママ?」
「この間言ったお金、まだ振り込んでないの?」
そういえば、10万貸してくれと連絡が来ていたっけ。金を無心する連絡が頻繁すぎていつ来たかは忘れてしまったけれど。
「何に使うの。」
「あんたに関係ないでしょ。」
「関係あるよ。私のお金だし。」
「こっちはあんたを18年育ててんだから、今度はあんたが私に恩を返す番だよ。明日振り込んで。」
それだけ言って電話は切れた。終話後の無機質な音が母の声と共に頭に響く。
18年育てたとは言うものの、母は私に何もしてくれなかった。自分の浮気のせいで離婚して夜職に就き、客を家に呼ぶからと5歳の私を寒空のベランダに追い出して事に及んだこともある。12歳の時、母の恋人にレイプされた。14歳の私に、売春をさせようとした事もある。酒に酔っていてもいなくても、日常的に私を殴ったし、「お前なんて産まなきゃよかった」と今時映画でも言わない陳腐な言葉は毎日吐かれた。15歳になってバイトを始めてからは、財布から金を抜かれる様になった。問い詰めれば殴られる。食事を作ってくれるわけでも、金を置いて行くわけでもないから、私は母に育てられた記憶はない。同居していただけの赤の他人だ。
「都合いい時ばっか母親面しやがって。」
携帯を床に叩きつけ蹲み込んで泣いていると、ふとデイビットの事を思い出した。
なんで殺したんだっけ。レイプしようとした訳でも無い、暴力を振るわれた訳でもないのに。私に売春させようとした訳でも無いし、金を盗られたわけでもない。殺さなきゃよかったな。
働き始めてすぐに出来た恋人はDV男だった。何かのきっかけでデイビットに会って、確か酔っていた私は彼に恋人の愚痴を話したのだったか。それで私は恋人から逃げてデイビットと付き合い始めて、世の中を嫌っていた私を慰めてくれたから、私は彼が好きだったのに。
「なんとなくで殺しちゃったんだ。」
そう呟いた瞬間にまた携帯が鳴り出して、母親からだったら切ってやろうと思い手に取ると、そこにはデイビットと表示されていた。
もう死体が見つかったのかと背筋が冷えた。でももし警察からの連絡なら出なくてはいけないから、震える手で通話ボタンに触れて受話口を耳に押し当てて返事をした。
「はい。」
「オレだ。今話せるか。」
電話はデイビット本人からだった。なんで?
「あ…え?」
「間が悪かったか?」
「いや、あれ…。」
「おまえの家に行ってもいいだろうか。昨日会ったばかりで悪いが会いたい。」
うんだかはいだか適当に返事をしたのは、兎に角混乱していたからだ。だってデイビットは死んだのだ。この手で殺したのに。包丁が肉に埋まる音も、血の滑る感触も確かに感じた。光を失ったあの紫の虹彩も、力なく投げ出された手も確かにこの目で見た。
彼は死んでいる。でも電話してきた。なんで?
ぐるぐると思考を巡らせている最中に突如響いたインターフォンのベルの音で、私の体は大袈裟跳ねあがった。力の入らない足を無理やり動かして立ち上がり、ドアの前まで行ってスコープに目を押し当てると、其処にはやはりデイビットが立っている。
彼は平素と変わらない格好だ。血もなければ刺し傷もない。黒いシャツを身に纏って突っ立っている。
「名前?」
名を呼ばれて鍵を開ければ、向こう側からドアが開く。呆然としている私を不思議そうな顔で見ている。
「どうした?」
「…なんで?」
「質問の意味が分からないが…入っても?」
「…うん。」
私は、まともな返事も出来ないままにそれを迎え入れ、お茶さえ用意して死んだ筈の彼の傍に腰を落としていた。香るムスクも私の手に触れる掌の暖かさもなに一つ変わらず彼は此処に居る。様子がおかしい私に何か話しかけているようだったがこの現実を受け止めきれず内容は全く入ってこなかった。兎に角彼は生きているのだ。
殺さなきゃよかったと後悔していた私は、彼の膝に跨り背手を回してきつく抱きついていた。何も言わず、涙でシャツの胸元を濡らす私に、彼は困惑しながらも優しく抱きとめて頭を撫でてくれた。私が突き抜いた筈の心臓はとくとくと緩やかに脈打っている。
「会いたかった。」
「珍しいな。やけに積極的だ。」
「嫌な夢を見たの。デイビット。」
「何だ。」
「キスして。」
彼は、胸元から顔を上げて言った私の唇をすぐに塞いでくれた。何度も型を変えて繰り返される口づけに、凍りついた体が解れるような感覚を覚える。2人の身体は床に投げ出され、ウサギみたいにセックスした。
そして私はまたデイビットを殺した。理由はさもない事だったと思う。覚えていない。愛し合っている最中に首を絞めて殺した。抵抗されたけど、小学校で習ったてこの原理を使ってなんとか殺した。瞠目し、顔色が悪くなっている。綺麗な顔ではなかった。今度は私の部屋で死んだから、とりあえずバスタオルをかけておいた。死体の処理は次の日に回して、シャワーをあびて彼と同じ空間で眠りについた。
翌朝は、やはり目覚めが良かった。盛り上がったバスタオルを見て、昨日の出来事が夢では無かった事を確認し仕事に出た。
「…なんで?なんで居ないのよ!?」
帰宅してデイビットをどう“処理”するか考えながら彼が眠る場所へ向かうと、転がっている筈の彼が消えていた。どう考えてもあり得ない。紫の中心にある瞳孔は開ききっていたし心音が止まっているのを私は確認していた。
彼は確実に死んでいたのだ。
頭がおかしくなりそうだった。殺した筈の彼が生きていて私を訪ねて来たから殺したのは夢の中での出来事だったのだと安心してセックスしたらまた殺してしまってその死体が消えているなんて、どう考えてもおかしい。
私は昨夜確実にデイビットにあっている。通話履歴を見ても母親からの連絡の後でデイビットからの着信が残っているし、昨日抵抗された際にぶたれて出来た青痣が腕に濃く張り付いているのだ。
理解出来ない状況に苛立ち、頭を掻きむしりながら部屋を徘徊していると私の携帯が鳴り出した。話す余裕も無いから無視していたのに鳴り止まない着信音により更にストレスを受け、乱暴に携帯を手に取り受話すると、相手はデイビットだった。
「突然悪いな。今話せるか。」
「…。」
「どうした?掛け直すか?」
声が出せずにいる私に優しく掛けられる声も恐怖の対象でしか無い。
「あ、の…どうして、」
「何の事だ?」
「なんで電話かけてくるの…?貴方死んでる筈でしょ!?2回も殺したのに…なんで生きてんの!?ねえ!?何でよ!?」
「…今は自宅にいるのか?すぐに向かう。」
「来ないで!!」
私の叫びが届く前に通話が切れたので、彼が心からの“お願い”を聞いてくれるかは分からないが、大急ぎで玄関の鍵を閉めチェーンまでかけてベッドに潜り込んだ。暫くして鳴り響いたインターフォンに身体を震わせ、両手で耳を塞げば今度はベッドサイドの携帯が鳴り出して、枕に顔を押し付けて叫び声を上げた。インターフォンも電話もデイビットだと分かっていたから。
ドアを叩く音まで聞こえてくる。死人がドアを叩くなんて映画の中だけの話であって欲しかった。いつまでも音は鳴り止まない。
苛立ちと混乱が頂点に達し奇声を発しながらベッドを飛び出してもたつきながらもドアを開き、靴棚の上の花瓶をデイビットの脳天に叩きつけた。
美しい顔と金髪を血に染め、彼は膝から崩れ落ちる。投げ出された指先がひくひくと小刻みに震えていて、瞳は瞼の裏側を見ていた。私の絶叫で隣の住民が部屋からでてきてこれを見てしまっては困るので、彼の足を掴んで部屋の中に引き込む。彼は大柄で筋肉質であり、かなり苦労したがなんとかドアを閉められるまで入れる事ができた。廊下についた血痕は雑巾で綺麗に拭き取った。
私はまたも彼を殺してしまった。今度は明確な殺意を持って、衝動のままに殺した。彼は私を心配してきてくれたのに殺した。
明日もまた、彼の遺体は消えているのだろうか。
1475回。様々な方法で彼を殺した。刺殺絞殺撲殺と毒殺圧殺焼殺溺殺、駅のホームに突き落とした事もあったっけ。
それでも、殺した次の日は必ず私に連絡をしてきて家にくる。タイミングが悪いのかと、色んなシチュエーションを試したが彼は戻ってきた。殺す必要なんて無いのは分かっているのに、何故か彼を殺してしまう。彼を愛しているのに、この手で幾度となく殺した。不思議な事に、通り雨のようなこの殺意は他人に向く事は無く私が殺すのは彼だけなのだ。
1476回目にして、漸く彼に聞いた事。
「私に殺されてるの、知ってるの?」
彼は笑い飛ばしたけど誤魔化せないと気付いたのか、笑みを引っ込めてこう言った。
「勿論。」
私はキッチンに走って包丁を手に取る。脇を締めて刃先を彼に向け、体当たりの形で彼の鳩尾に包丁を突き立てた。刃物が見えているのに、彼は両手を広げて私を抱き止め、愛おしそうに囁いたのだ。
「オレがそうさせているんだよ。」
世界最後の瞬間は、きっと今日の様に何の変哲もない日常に滑り込み、私達は気づかないままその生を終えるのだろう。自分の死に気付けない者はこの世を彷徨うと言うけれど、彷徨う世すらない魂は何処へ行くのか。
煙草の煙がふうわりと上り消えていった何処までも続く青空を眺めながら、ぼんやりとそんな事ばかり考えてしまう。太陽の光が強く焼き付いた瞳には、陽当たりの悪いこの部屋が一層暗く見える。綺麗とは言えない室内は血の香りで満ちていて、髪の毛や埃が落ちた床には真っ赤な血溜まりが張り付いている。
私の恋人殺しは1476回目に達した。
ママ。あの時私に「愛してる」と言ってくれたらこんな事にはならなかったのに。貴女が正しく愛をくれたのなら、殺しても殺しても帰ってくる男に恋したりはしなかったのに。
そう言えば、どうして彼は生き返るのかと何故私に殺させるのかを聞けていなかった。
明日彼に聞いてみよう、と私は窓枠で煙草を揉み消しシャワーを浴びるべく、血の足跡を残しながら浴室へと向かった。