青い果実を君に
橙色の光が瞳にちらつき眉根を寄せて瞼を上げると、そこは眠りについた筈の自室ではなく、四方を真白の壁に囲まれた六畳程の個室であった。
この様な部屋に見覚えは無く、カルデアのどの区画に居るのかすらも見当がつかない。長い事床に横たわっていたのか身体中が痛むし、壁が白いせいで異様に眩しく、寝起きの瞳には大きな負担が掛かり無意識に瞼を細めて辺りを見回した。
床には男が居た。先程までの私の様に硬い床に横になり、すうすうと小さく寝息を立てている。普段は整髪料で固められている髪の毛も、重力に従ってさらさらと流れ、金の睫毛が縫い付けられた伏した瞼は、魔眼の様な模様を抱えた宝石の瞳を覆い隠していた。
「デイビット…?」
彼は、正規マスターであるデイビット・ゼム
ヴォイドだ。特に仲が良いわけでは無かったが、友人のカドックのチームメイトであるからそれなりに交流がある。
思わず漏らした名前に、彼は喉の奥で小さく返事をしてゆっくりと瞼を開いた。光源が分からない白い光をヴァイオレットの虹彩に写し、ぐるりと辺りを見回してから私に焦点を合わせ、寝起きの掠れた声で同じ様に私の名を口にする。
「おはよう。」
「…此処は何処だ?自室で眠っていた筈だが。」
「私も起きたら此処に居たから分かんない。」
私の回答にデイビットは小さく吐息を溢して上体を起こし、私がした様に部屋の様子を見回している。
「壁以外は何も無いのか。」
「そう。変な部屋だよね。こんな場所、カルデアにあった?」
「…此処がカルデア内だと思っているのか?」
「え、違うの?」
「魔力反応がある。恐らくは何者かの固有結界に近い空間だと思うが…。」
呆れた、と顔に書いてある。私も一応魔術師の端くれであるから、「魔術師ならその程度分かれよ」と言いたいのであろう。けれども考えても見て欲しい。寝起きで、出口もない真っ白な空間に閉じ込められて、しかもそんなに仲良くも無い人物と2人きりなんて状況に陥ったら、魔力がどうとか結界がなんとかそんな事には気付けない筈だ。
少し気分を害した私は、適当に返事をし、部屋を調べるふりをして彼から離れた。別に嫌な人では無いし、相談すれば結構何にでも答えてくれるから逆に良い人だと思い始めていた矢先のコレであるので彼の好感度がガクンと下がった気がする。思っても顔に出さないで欲しい。落ちこぼれ魔術師である自覚がある分余計に傷つくから。
広くは無い空間に。コンクリート製の壁。調べた所でこれ以上の情報は得られないと分かっていながら、壁を押したり撫でたりしてみた。そうすると、ある部分に触れた瞬間に、じわりと黒い模様が浮かび上がり、模様達は渦巻いて一つの文章を作り上げたのだ。
『此処はどちらかが相手の片目を潰さないと出られない部屋です。出来なければ2人とも30秒の焼き土下座をしてもらいます。20分以内に実行してください。』
それは日本語であった。私の母国語であるのだけれど、意味が全く理解出来ない。目を潰す?焼き土下座?
「ね、ねえ。これ、触ったら出てきた。」
混乱している上に何度読んでも埒が明かないので、反対側の壁を調べていたデイビットに焦って声を掛ける。デイビットはゆっくりと此方を振り向き、表情を全く変えずに淡々とした声音で言った。
「焼き土下座とは何だ?」
彼が見ている壁にも同じ文章が現れていた様だ。真面目な顔で焼き土下座という言葉を吐いた彼がシュールで面白かったが、今はそんな事を言っている場合では無い。文字の下には新たに数字が表示され、20分のカウントダウンを始めている。
「焼き土下座はその名の通り、焼けた鉄板の上で土下座をする事なんだけど…それよりもこの条件、どう思う?」
「オレが君の目を潰すかその逆か。実行しなければ2人とも焼き土下座とやらをさせられる、と。出口もなく出る手立てもない今は従う他ないだろうが…。」
言葉尻を濁した彼が何を考えているのかは分かる。私の目を自分の手で潰すか、自分の目を差し出すか、何方が良いかを思案しているのだろう。私も同じだ。この空間を作った人物は、如何にも映画被れらしい。人が人を傷つける様を見たくて私達を此処に閉じ込めたのだろう。そうで無ければ他に理由が思いつかない。
優先すべきは彼の目だ。そんな事は分かっている。彼は人理修復という大きな使命を持った人類の希望である正規マスターだ。一介の職員である私よりも価値がある。それを分かった上で言い出せないのは恐怖があるからだ。片目を潰せと簡単に言いはするが、実行すれば相応の痛みが伴うし
その後の生活も変わってくる。我が身が可愛くて膠着しているのだ。
何方ともなく部屋の中心に集まって、私と彼は向かい合い座り込んだ。室内は明るいのに、重い沈黙のせいで不安と焦燥に駆られている。
「オレの目を潰せ。」
静寂を裂いた言葉に、弾かれた様に彼を見上げると、美しい瞳が私をじいっと見つめていた。願ってもない言葉だ。彼は自身を犠牲にして此処を出ようとしている。私は艶めく彼の瞳に指を突き立てるだけで良い。
「それは駄目。私と貴方、何方が尊重されるべきかは明らかでしょ。私の目を潰して。」
それは正義感からの台詞ではない。“カルデアのマスターの瞳を奪った犯人”という肩書を背負って生きていく覚悟が出来ない保身からくるものだ。
「オレも君も個人として価値は同じだ。」
「マスターと一般職員の価値が同じ筈無い。それに、貴方なら一思いにやれるでしょ。私は力が無いから、失敗して余計に痛い思いをさせてしまうかもしれない。」
力強い瞳の色が僅かに揺らいだのを、私は見逃さなかった。私の言葉にはそれ程説得力があったのだろう。戸惑う彼の手を取って、私の瞼に触れさせれば、浮き出た立派な喉仏がごくりと上下する。
「時間も無いし、やってよ。」
「…痛むぞ。恐らくは気を失う程に。」
「それはそうでしょ。怖いし覚悟も出来てないけど…。大丈夫。私沢山ピアス開けてるから。おんなじ。やったら意外となんでも無いかも。」
無意味な強がりと空笑いに、彼は眉根を寄せた。私の様子が痛々しい為だ。親しい訳では無いが、それなりに見知って交流のある人間の目を潰すのは、冷徹に見える彼でも気が進まないのだな、とこれから見舞われる痛みを思い恐怖に震えながら考えた。
掴んだ手を離さず意地でも退かない私に、デイビットは幾らかの間を置いて「分かった」と呟き、床に横になる様に指示をする。
彼の手を離してから言われた通りに硬い横に背中をつけて仰向けになり、遠い天井を眺め見た。明るい癖に何処から光が出ているのか分からない様はまるで曇り空の様だ。デイビットは私の頭の横に来て、冷や汗で濡れた私の手を取り確りと握る。その様は今際の際に寄り添う恋人にも見えた。
「痛みに耐えられない様ならオレの足を握れ。爪を立てても構わない。」
「うん。あ、左目にして。多分右は利き目だから。」
「…すまないな。」
呟きには答えなかった。彼が謝る必要は無い。謝るべきはこの空間を作った張本人なのだから。どくどくと跳ね上がる心臓が大量の血液を押し出して耳元でまで脈打っている。ネイプを開ける時もこんな感覚だった。未知の痛みは、被ってみれば案外そうでもない事が多い。私の経験値はピアスしかないのだが。
デイビットが私の顔を覗き込んだ事で天井の淡い光が遮られ、瞳孔が僅かに広がった。柔らかそうな金髪の右側を耳にかけ、睫毛を何度も瞬かせる彼の顔は綺麗だ。左目が最後に見るのは彼の顔なのだと思うと尚更視線を逸らす事が出来ない。いつでも握り込める様に彼の逞しい腿に手を置いて彼の挙動を待った。
髪の生え際の辺りに人差し指から小指までを優しく差し込まれ、親指は下瞼に添えられて頬に掌が触れる。まるで口づけの瞬間の様だ。目を閉じない様に反対側の人差し指で上瞼を引っ張りながら、下瞼に留まっていた親指がじわじわと粘膜に触れていく。
「始めるぞ。」
声が上手く出せなかったので唇の動きだけで返事をした。眼球に異物が触れるピリピリとした痛みを感じる。親指に少しずつ力が込められ、眼窩に沈み込む圧迫感を覚える。爪が刺さって鋭い痛みが走る。恐らく眼球がぶれて捉えづらく、押し潰すのに難儀しているのだろう。右目が、焦る彼の顔を見ている。
左目が焼ける様に痛い。喉の奥からは嗚咽とも取れる叫びが漏れ出して、その声が更に彼を焦らせているのだろう。彼の勧め通りに腿に添えた指に力を入れ、寝巻きのスウェット越しの柔らかい皮膚に思い切り爪を立てる。けれども、彼は眉を一瞬ぴくりと動かしただけで、直ぐに私の左目に集中を戻した。
もうやめて。痛い。痛い。と泣き叫んでいたと思う。正直な所、既に意識は飛び掛けていたのだ。映画や漫画では茹で卵が弾けるみたいにみたいにすんなり潰せていたと思ったのに、現実はこうも彼を手こずらせている。
粘性の水音と共に彼の指が引き抜かれ、私の目尻から顳顬に向かって生温い液体が伝う感覚がした。ずくずくと左の眼孔が痛み、瞼を開いているのに夜闇の最中の様に何処までも深い黒ばかりが見えている。痛みで涙ぐみ、ぼやける視界に映るデイビットは、何処か悲しそうな、申し訳なさそうな顔をしていた。
「意外と、意識ある…わ。」
荒い呼吸まじりに放り出した言葉は自分の声かと疑う程に気持ちが悪く弱々しい。力なく笑った彼は、ぐったりと脱力した私の首と膝裏に手を差し込んで横抱きにすると「カチリ」と音を立てて現れた出口に向かって進み始めた。
気が付くと、私は真っ白な空間に横たわっていた。一瞬、まだ出られていないのかと焦ったが、如何やら此処はカルデアの医務室の様だ。消毒液とコーヒーの香りが鋭敏になった鼻を擽り、半覚醒していた頭を揺り起こす。
「体調はどうだ。」
声が聞こえた方向へゆっくりと右の眼球を向けると、其処にはデイビットが居た。あの空間から2人で抜け出す事が出来た安堵で、深く息を付く。左目があった場所に指を触れさせれば、きちんと包帯が巻かれており、動作を見ていた彼が「Dr.ロマニに処置をしたもらった」と教えてくれた。
「おまえの左目を奪ってしまった。」
「…別に、私がそうしろって言ったんだし気にしないで。貴方に責任は無いでしょう。やらなきゃ2人とも焼き土下座しなきゃいけなかったんだから。そうだ…犯人は?分かった?」
焼き土下座と左目を失う事、何方がマシかという究極の選択で、私は左目を選んだのだからこの結末に不満は無い。無いが犯人は必ず見付けて左目を潰してやらなくては気が収まらない。デイビットは緩く首を横に振り、まだだと言った。
「見当も付かないが、オレが必ず見つけ出す。」
「見つけたら目潰しておいて。」
「犯人探しもそうだが、オレはおまえの目を潰した責任を取らなくてはいけないと思っている。」
瞳の色を濃くして力強く言った彼に、責任を感じる必要は無いと再度伝えるも、彼は頑なに「責任を取る」と繰り返した。あまりにもしつこいので「どうやって責任とるの?」と聞いてみると、彼は予想を斜め行く解答を私にして見せた。
「オレがおまえの目になる。」
「え…?」
「何をするにも片目では不便だろう。」
「両眼失明した訳じゃ無いし、そこまでしなくても生活できると思うんだけど。」
「片目では平衡感覚が狂い、両眼が健全だった頃とは勝手が違う。物を取り落とし、文字も読み辛く、階段を踏み外すかもしれない。」
「そうかもしれないけど…。常に私の側に居るってこと?貴方が?」
「そうだ。」
「現実的じゃ無いよ。それに私達は仲良しって訳でも無いんだから、べったりしてたら不審に思われる。」
「結婚しよう。」
「は!?」
「それなら不審に思われない。夫婦が共にいる事はごく自然だろう。」
巫山戯ているとも取れる発言だが、彼の表情が至極真剣であると言っている。掛布の隙間から私の手を取り出して、目を潰す前にした様に握りしめて真っ直ぐに私の右目を見つめていた。
「は!?ちょっと待って。冷静なデイビットゼムヴォイドらしく無い!」
「冷静だが。」
「結婚は愛し合う人同士がするものでしょ?少なくとも日本ではそうなんだけど、イギリスは違うの?」
「同じだ。では聞くが、おまえはオレの事が嫌いなのか?」
「別に嫌いでは無いけど。」
「オレはおまえが好きだ。何も問題は無い。」
「その好きは、私がカドックの友達だから好きっていう友愛の話では?」
「…オレはおまえの目を潰すのを躊躇した。彼処に居たのがおまえ以外なら、オレは直ぐに決断出来ていただろう。躊躇した理由も説明した方が良いか?」
「…もう結構です。ちょっと疲れたので私は寝ます。」
彼の突飛な申し出のせいで、なんだか頭も痛くなってきた。包帯の奥で鈍く痛む眼孔も頭痛の原因の内だろう。兎に角今は余計な事を考えずに眠ってしまいたい。私の手を握って愛おしそうに此方を見ているデイビットの姿を遮断する様に、私は右の瞼を下ろした。
翌日から、彼は宣言通りに私の横に貼り付くようになった。レイシフトが回ってこないのを良い事に、私の職場にも来てずっと私を眺めている。トイレにも着いて来ようとするので全力で拒否した。あまりにも過保護というか何から何まで手伝おうとする様が段々鬱陶しくなって来て、カドックに相談してみたが目の心配と共に「諦めろ」とだけ言われた。その時の彼は関わりたく無いという顔をしていた。
「ねえ…ほら、変だと思われてるよ。皆見てるもの。」
「気にする事はない。」
「結婚はしないから。」
毅然と言い放っても、彼は「やれやれまた我が儘ですよ」といった顔でその場をやり過ごし、結婚を断った事実など無かったかの様にプロポーズを仕掛けてくるのだ。あの部屋に行く前とその後の彼のイメージがどんどんかけ離れて行く。こんな事になったのも全部あの部屋を仕組んだロクでもない誰かのせいなので、やっぱり見つけ出して両眼を潰してやる。と、食堂でオムライスを食べる私をじっと見つめるデイビットにうんざりしながら思った。