主演女優賞
寒空の下、仄かに色付く凍えた指先を首筋にあて、重く垂れ込んだ鉛色の空を仰ぐ。上空に広がる鉛色は今にも泣き出しそうで、私の心を反映しているかの様であった。
彼の誤魔化しは分かり易かった。論理的で冷静沈着、表情は薄く何を考えているのか分からないとよく言われる程、感情を外に出さない男であるのに、存外嘘を付くのが下手なのだ。彼の嘘も誤魔化しも、私以外が騙されていれば良い。本質を見極められるのは私だけであって欲しいと思う私は我が儘なのだろうか。
誰にも理解されず、誰の事も理解しない人間だと、青い瞳に畏怖を写したレオナルドダヴィンチが称した通り、彼は自分を見せる事を嫌った。否、怖がっていたと言った方が正しいかもしれない。兎に角秘密の多い男で、完璧主義、その姿勢は他を寄せ付けなかった。その癖友人と呼べる人間を気遣う素振りを見せたり、口数は少なくなかったりと、人付き合いが得意ではないという不器用さを見せるなんとも掴みどころがない人間なのだ。
男の名前は、デイビット・ゼム・ヴォイドといった。噂に依ると、時計塔の伝承科を追放され、マリスビリー所長直々のスカウトでカルデアに来たのだという。
彼との出会いはあまり印象に残っていない。廊下ですれ違って声を掛けたのだか掛けられたのだったか。それとも食堂で偶々相席した時が初対面だったのか。その程度のさも無い出来事であったのだ。
彼を意識し始めたきっかけは、図書室で料理の本を見繕っていた時の事だったと思う。その時の私は、インド料理が食べたくて、でも食堂では提供されていなかったので自分で作るしかなく、レシピを探していたのだ。「インド人のアドバイスを完全無視したカレー」なるものがあると聞き、「インド人のアドバイス」が記されている本を完全無視してカレーを作ってやろうと意気込んでいたのだったと思う。
普段料理をしない私は、スパイスから調合してやろうとしていた。後々になって面倒くさくなって「インド人のアドバイスを完全無視したカレー」が完成する事は遂に無かったのだけれど、カレーの話はこの位で良いだろう。
探していた本を集め終えて満足した私は、背後に居た人物に気付かずに振り向き様に思い切り本を持った手をその人物にぶつけてしまったのだ。衝撃で手から離れていった本達は鈍い音をたてて床に打ち付けられ、適当なページを私に向けている。
「すみません…!」
咄嗟に口をついた謝罪の言葉に、それ程「申し訳ない」という感情は入っていなかった筈だ。人物を目に入れる事もなく本を回収する為に蹲み込んだ私の姿は非常に無礼だったと思う。けれども、その人物は「いや、」と一言だけ漏らして、私と同じ様に床に蹲み、散った本達を共に拾い上げてくれたのだ。
粗方回収し終えた後、私は此処でやっとその人物を仰いだ。ギリシャ彫刻の様な整った目鼻立ちをした男だと、本気で思った。中性的で美しい男、可愛らしい男というのはそれなりに見たことがあったが、雄々しさを色濃く残しつつも美しさを損なわない見事なバランスを保ったこの男の様な顔を私は見た事がなかったのだ。そして眼孔に嵌った紫色の瞳は、アメジストの輝きと渦巻く模様を湛えており、不躾にも目が離せない。それ程魅力的な男であったのだ。
「怪我は無いか。」
テノールで紡がれた私を案ずる言葉に、意識が引き戻される。顔にばかり集中していた視線で彼の姿を全体的に見てみると、私が放ってしまった本達が纏められて差し出されていた。何か言わなくてはならない。拾って貰った事に対する感謝も、ぶつかった事への謝罪も、此方から怪我の有無を尋ねる言葉も。言わなくてはいけない言葉は幾らかあるにも関わらず、私は何故か彼の名前を問うていた。
私の言葉に、彼の瞳は埋め込まれたアメジストがこぼれ落ちそうな程に見開かれたが、すぐに金の睫毛を寄せて柔らかい笑みを見せ、無礼通しの女に対して名を名乗った。
「デイビット。」
喫煙所へ向かう道すがら、チームメイトと廊下で立ち話をしている彼の背中を見つけたので、何も考えずに声を掛けた。デイビットは私を一瞥してからチームメイトとの会話を切り上げ、軽く手を上げて私が傍に寄るのを待っている。其処で初めて「会話に割り込んでしまったかもしれない」と申し訳ない気持ちになった。私の悪い癖が遺憾なく発揮されてしまったのだ。
「休憩か?」
「そう。話の邪魔したかな。ごめんね。」
「大した話はしていない。気にするな。」
「あの人、チームメイトのヴォーダイムさんだよね。2人が並んでると威圧感があって近寄り難い感じがする。」
「それでも話しかけてきたのは君だろう。」
「そうなんだけど。貴方は休憩?」
「今はな。1時間後にミーティングがある。」
「マスターは大変だね。」
「本格的にレイシフトが始まるまでは大した事は無い。」
私が向かう先を知らない筈なのに、彼は私の歩調に合わせてゆったりと歩みを進めながら付き添う。行き交う職員たちの視線を痛いほどに感じながら廊下を闊歩するのは些か気分が良かった。
「そういえば、この施設の中に白い生き物が居るって聞いたんだけど見た事ある?」
「見た事は無いがオレも話は聞いたな。キリエライトに懐いている様だから見てみたいのなら彼女に聞いてみると良い。」
「マシュちゃん。検診で会うからその時に聞いてみよ。」
目的地である喫煙所に到着し薄く白んだ室内が透けるガラス扉の前で足を止めると、彼は同じく歩みを止めて私を見下ろした。眉根を寄せて怪訝な表情を見せる彼を不思議に思い声を掛けると彼は「喫煙者だったのか。」と不満げに言った。
「そうだよ。知らなかった?」
「君からは香りがしなかった。気付く要素がないだろう。」
「電子タバコだし、臭いはしないだろうけど。喫煙者に恨みでもあるの?」
「無い。」
言いたい事があるのだろうにはっきりと口にしないのは、胸に留めている言葉が自分らしく無いと気付いているからなのだろう。私がその言葉を聞き出そうとしている事を理解しているからそれとなく誤魔化そうとしているのが分かる。
「それじゃあ何故?何が言いたいの?」
「…身体に悪い。」
追求に耐えきれずぽつりと落ちた呟きが少し可愛らしく聞こえ、思わず笑みが漏れた。身体に悪いから喫煙者が好きでは無いという式は成り立たないので、彼の言葉を並べ替えれば、煙草は身体に悪いから私に吸って欲しく無いというメッセージになるのだろう。
「心配してくれてるって事?」
「君の国では“百害あって一利無し”と言うのだろう。ニコチンには発癌性物質が含まれている。君は自ら死に近づいているんだ。」
「うちは癌の家系だから吸っても吸わなくても癌で死ぬんだよ。しかも医者にそれを言うのは釈迦に説法ってものよ。全部承知でやってるんだから。」
別に彼の言葉がカンにさわったとか言い負かしてやろうと思ったわけでは無いのだが、押し負けて黙ってしまった彼の顔が何処か悲壮を帯びて見えて可哀想に思えた。
「いや、でも…心配してくれてるのなら、本数を減らすところから頑張ってみようかな…なんて。」
「それが良い。長生きしてくれ。」
「何それ。でもありがとう。」
彼の台詞は軽口だったのか本心だったのか分からなかったが、素直に嬉しかった。喫煙所に居た同僚に顔の緩みを指摘され、少し気恥ずかしかった。
私と彼の関係が変わったのは、日常の内のほんの一瞬の出来事だ。会話の中で、私は自覚し始めていた彼への好意を伝えたのだ。親愛ではなく恋慕を抱いていると、明確に言葉にした。交際したいだとか、彼も私に好意を寄せていると自信があったから等、この告白には理由は無い。只、今伝えるべきだと思った。
暫しの沈黙。私達の間に時間を掛けて天使が通る。表情を変えずに自身に恋をしていると言い放った女を、彼はどんな感情を抱いて見つめているのだろう。薄い唇から紡がれる言葉を待ち焦がれる私は、アメジストの瞳にはどう映っているのだろうか。
「オレの傍に居れば、君は幸せになれるのか?」
たっぷりと間を置いて漸く彼の口から出てきたのは、告白に対する答えではなく質問だった。それも答え難い質問だ。質問の趣旨が分からないのだ。“幸せになれるか”とは将来的な話なのか、彼の側にいる事で幸福を感じる事が出来るのかと言う話なのか。ひとつだけ確実なのは、彼は私の気持ちを優先させようとしているという事だ。
「なれると思う。」
最適解は、小さく溢したこの言葉だろう。興味の無い人間からの告白にそんな質問はしない。好意への感謝かどうでも良いと切り捨てる筈なのにそれをしないという事は少なくとも彼は私に何らかの感情を抱いているのだ。
戸惑いの色を浮かべた綺麗な顔を真っ直ぐに見つめ続ければ、彼は何も答えない代わりに、薄く開いた私の唇に自身の唇を押し当ててから腰を引き寄せて緩く抱きしめた。
「妙な質問だと思っただろう。」
「…妙というか、答えに困る質問だった。でも今とっても幸せだから、さっきの答えは間違いじゃなかったみたい。」
髪の毛に触れる吐息と包まれた彼の体温は温かく、往来で抱き合う私達への視線など全く気にならない程に、私は間違い無く“幸福”を感じていた。
気持ちを通わせパートナーという形を取り始めてから、彼は露骨に私を甘やかす様になった。今までも存外優しさを見せる男ではあったが、比では無い位に私を気遣うのだ。束縛とも違う彼の気遣いや触れ合いは、ろくでなしとしか交際した事の無い私にとっては新鮮で心地が良かった。
本格的に人理修復の為のレイシフト準備が完了した日、最後のマスター候補生がカルデアに入所したのだと彼は言った。これから候補生へ向けてオルガマリー所長が説明を行うのだそうだ。彼は正規マスターであり候補生には該当しない為、説明会に参加する必要はなく、初めてのレイシフトを控えたデイビットに呼び出された私は図書室に来ていた。
閑散とした室内は司書すらもおらず、隅のベンチに隣り合って腰掛ける私と彼の2人きりである。何か話があるのだろうに一向に切り出さない彼に、私は小さく溜息を吐いた。
「何かあった?」
私の声に僅かに金の睫毛を震わせてゆっくりと此方を向き、彼は重々しく口を開く。吐息と共に吐き出された言葉は、私が一番聴きたく無い物であった。
「オレの隣に居たところで、おまえは幸せにはなれない。」
「…何故そう思うの。」
「幸せなんてものは、何処にもありはしないからだ。」
遠回しの別れ話は唐突で、無責任だと感じた。けれども、彼の表情を見て、私は其れが彼の本意では無いのだと直ぐに気が付いた。
見る度に美しいと感じる紫の瞳は不安を湛え、薄い唇は堅く引き結ばれている。本当に嘘や誤魔化しが苦手な男だと思った。
「貴方が離れたいだけじゃなくて?」
「…それもある。」
「本当に、呆れる程不誠実だね。」
聴こえる様に吐いた溜息は今度こそ彼の耳に届いているだろう。何を恐れているのかは分からないが、私を自分の側から離したがっているのだ。「自分が離れたい」なんて言いながら唇を噛み締めて、私が納得するとでも思っているのだろうか。
「嘘、下手くそ。」
「生まれて初めて言われた。人を騙すのは得意だったつもりだが。」
「私には直ぐわかる。私の目がいいのかもしれないし、貴方が私に対して嘘をつけないだけかもしれないけど。詳しくは聞かない。貴方がそう言うのなら私は少し距離を置く。でも、私の為に下手な誤魔化しをするのは止めて。」
「…誤魔化されてはくれないのか。」
「自分でも愚かだって分かってる筈でしょ?私の為に自分を偽らないで。私は貴方の本質を知らないかもしれないけど、私が好きになったのはそんなデイビットじゃないから。」
デイビットは表情を緩め、ベンチに置いていた私の手を取って指先に何度も口付けた。女王への挨拶の様に、女神に触れる狩人の様に、恭しく親愛を込めて温もりを移したのだ。
「これからレイシフトなんでしょ?心も身体も調整しなきゃ。私が診察してあげようか?」
「診察は済んでいる。只、側に居てくれ。」
縋る言葉に対して、私は何も言わずに彼の肩へ頭を預け、甘く清潔なムスクの香りに酔いしれる。いつだって彼からはこの香りがするのだ。彼が居ない所でこの匂いがしても、きっと私はデイビットの事を思い出すだろう。
「名前ちゃん、大丈夫?」
春の陽だまりに似ている、暖かで心地の良いソプラノが私を案じている。極寒のこの場所には相応しく無いダヴィンチちゃんの声は、木枯らしが吹き荒ぶ虚な私の心にじわりと溶け入る様だった。
デイビットはあの時、既に自身の運命を予見していたのだろうか。だからこそ、私を突き放し距離を置かせようとしたのかもしれない。私の幸福を祈りながら、下手な嘘で別れを告げたのだ。結局は失敗に終わり、最後の最後まで触れ合ってしまっていたのだけれど。
第一の異聞帯を担当するAチームのマスター基クリプターはカドックゼムルプス。デイビットのチームメイトであり、現在は当方カルデアの敵として藤丸立香を待ち受けている。デイビット含むAチームのメンバーが、白紙化された地球上の何処に居るのかは分からないが、私は彼が生きている事に安堵していた。この思想がカルデアへの裏切りである事は理解出来るが、個人的には冷凍保存されて蘇生できるか分からない死の淵にデイビットが居るより、敵となろうが彼が生きてさえ居てくれればそれで良かった。
私達のマスターは強い。凡ゆる苦難を乗り越え、目的を果たしてきたのだ。きっと彼の異聞帯へも辿り着けるだろう。天才と謳われたキリシュタリアさえも打ち倒して、恐らくはデイビットとも渡り合える筈だ。
もう一度デイビットに会う事が叶うのなら、今度こそ彼の本質を掴みたい。また唇を結んでアメジストを彷徨わせ誤魔化そうとするかもしれないが、その時はまた「嘘が下手だ」と言ってやればいい。デイビットが素直でいじらしい恋人である事には変わり無いのだから。
「大丈夫です。バイタルはマシュ、藤丸共に正常です。この戦いもきっと勝てます。」
大きな青い瞳を真っ直ぐに見つめ、汎人類史の復活を信じて止まない女を演じる事が出来る私の方が、異質の天才よりも嘘が上手いのかもしれない。